第5話
保健室から二人で教室に戻っていた。
「よかったね、怪我がなくて」
保険医の先生が診たところ、捻挫などの心配はなく、どこでついたかぷつぷつとした脚の傷に絆創膏が貼られて終わりだった。
「だから、そう言ってただろ」
「ふふっ。念には念を入れないと。宝石に傷が入ってはいけないからね」
「ほ、ほうせきぃ!?」
「おや、何も犬上さんのことを言ったわけではないのに、何を照れているんだい? 自意識過剰では?」
「うーーっ! てめえっ!」
「てめえ、とは誰のことかな? 私は姫宮桜路。名前で読んでくれないとわからないよ」
「く、くっ」
「保健室まで運んでくれた恩人の名前すら呼べないのかな?」
「う、うぅ……め、みゃ」
「聞こえないな?」
「姫宮!! これでいいだろ!」
その時、終業の鐘が鳴った。
バッチリ聞こえたけれど、間の悪さに犬上は歯がみした。
「なんでこうも……」
「聞こえたよ、犬上。名前を呼んでくれてありがとう」
そう言ってまじまじと見つめると、犬上は顔を真っ赤に染めた。
うん、俺には到底及ばないが、中々可愛いじゃないか。
「さぁ、止まってないで歩こう。これからよろしくね、犬上」
「……おぅ」
二人並んで歩き始めると、授業が終わった生徒が教室から廊下に現れ始めた。
『あ、あれが噂の』
『う、美しいですわぁ』
『綺麗……』
早速、バスケの効果が出ていると見える。授業は着替えのために早めに切り上げるので、その時間に情報が回ったのだろう。
さて、俺も着替えないとな。
そのまま教室に戻ると、黄色い歓声に出迎えられた。
「キャー、姫宮様がお帰りになったわー!」
俺と犬上は一斉に囲まれる。
「姫宮様、バスケ上手ですのね!」
「格好良かったです!」
「是非、うちの部活に!」
やんややんやと声をかけられる。そのうち、犬上にも声がかかった。
「犬上さんもお姫様みたいで素敵でしたわ!」
「うん! すごくお似合いでした!」
「犬上さんもやっぱり綺麗な方ですわよね! これを機にお友達になってくださいませんか!」
私も、私も、と寄ってくるクラスメイトに、一瞬犬上は頬をゆるめた。
だが。
「うっせえ。私に構うな」
冷たくそう言って、自分の席に戻った。
「ひぇ、や、やっぱり恐いですわ」
同様のことを皆が口々に話しだす。犬上の方を見ると、寂しそうな表情を浮かべていた。
……なるほどな。
「さて皆さん、私とお話してくださいませんか?」
「え、いいのですか!?」
「ええ」
王子様風に言って、俺は犬上から話題を逸らした。
***
音楽室にはピアノの音色が響き渡っている。
素晴らしい演奏。耳が溶けてしまいそうなほどの演奏。
もちろん、奏者は俺だ。
弾き終えて俺は立ち上がって礼をする。
顔を上げると、音楽、もしくは俺にうっとりした女子たちが目に入った。
「ご清聴くださり、ありがとうございました」
ぱちぱち、とした拍手が次第に大きくなった。
「凄い!」
「素人の私でも上手いってわかったよ!」
「す、素晴らしいです! 4歳からピアノを嗜む私だからわかります! 姫宮様は天才です!」
そうだろう。ピアノは2歳から嗜んでいて、コンクールには出ていないが、先生には天才だと持て囃されてきた。俺自身もプロと遜色ない腕であると自覚している。
音楽の時間の最後に少し時間をもらって演奏した甲斐があったな。これで俺の噂はより広まるだろう。
十分、目立ったし、顔を広めるのはこれでいいか。明日以降は、噂によってきた女子をターゲットから外す作業を始めよう。
さて。と、なると、あとは犬上だな。
犬上の姿を探す。ちょうど音楽室を出て行こうとしている姿が目に入った。
追ってみようか。俺の予想通りなら、そのまま帰るわけじゃなさそうだしな。
***
「にゃあごぉ、にゃぁごお」
部室棟の裏。予想通り、野良猫に猫言葉をかけている犬上がいた。
やはり、あのぷつぷつとした傷。猫の噛みあとだったか。
「ねえ聞いて、猫太郎。今日も辛くあたっちゃったよぉ」
小首をかしげた野良猫は、どうやら猫太郎という名前らしい。
ネーミングセンスに突っ込みたいが、我慢して気配を消したまま様子を眺める。
「私、やっぱり不器用だよね? よくないよね?」
「んなーご」
「よしよし、そう言ってくれるのか、お前は本当に可愛いなあ」
猫の鳴き声を都合の良い言葉に頭で変換するなんて、犬上、お前は本当に可哀想だなあ。
「あ、いて、こら、噛むなよぉ。噛み癖直してくれよぉ〜、猫太郎。こんな傷ついたら、また皆に不良だぁ〜って言われるんだから」
もぉ〜、と言っていた犬上が急に振り返った。
「誰!?」
険しい顔つき。
ふむ。気配を消しているこの俺に気づくとは、よほど視線に敏感か、気をつけているか、だ。
「ひ、姫宮……」
やばいところを見られた、と犬上はまずい表情をする。
俺は人の弱みをつくような人間ではない。心外だ。
「犬上さぁん、一部始終見ちゃったぁ? 言われたくなかったら、私の言うことを聞いてもらおうかなぁ?」
と勝手に出た黒い笑みを向ける。
俺は人の弱みをつくどころか、とことん利用する人間なのだ。
「う、うぅ……どこから見てた?」
「にゃあごぉ、にゃぁごお、から。案外可愛いんだね、犬上さん?」
「うう!」
顔を真っ赤にする犬上。
精神的優位は確保した。犬上が抱える問題も見えてきた。
そして犬上が百合に落とす道筋が見えた。
「い、言いたければ言えば良いだろ! 誰も信じねえからよ!」
「そうかな? 部室棟の裏に猫がいる。それはれっきとした事実で、信頼性は高い。それに猫太郎がバレたら人が集まって、犬上さんと猫太郎のスイートタイムはなくなっちゃうよ?」
「くっ」
「さあ、私の言うことを聞く気になったかな?」
「姫宮、猫かぶってたわけ?」
「自分を偽っているのは君の方こそ、だろ?」
「ぐぬぬ」
ふふん、と上機嫌に言う。
「私のお願い事を聞いてもらえるかな?」
「な、なんだよ」
どうやら聞いてくれる気になったらしい。
ならば言おう。
「私の命令には服従すること。これがお願いだよ」
「なっ!? そんなの!?」
「猫太郎」
「…………わかった! わかったよ!」
やけくそになった姫宮はそう叫んだ。
「これからよろしくね」
私は気持ちの良い笑顔で言って、猫太郎の前に屈み込む。
「猫太郎〜、よーしよしよし」
「にゃごぉ〜」
顎を撫でられてとろける猫太郎。
「っ! もう私帰るから!」
放置して帰るところをみるに、どうやら猫太郎は本当に野良猫。いつもここに現れる、って感じのやつだろう。
そのとき人差し指をかぷと噛まれた。噛み癖があるのも本当らしい。
さて、と立ち上がる。犬上はもう遠くまで行っていた。
俺も帰るか。と言っても、寮だけど。
穏ヶ咲は全寮制。男バレの危険性はあるが、こればかりは仕方ない。ま、この俺ならばそんなことにはならないだろうけどな。
それから寮に行き、寮事務所に届いていた荷物を運ぶ前に、通知されていた自分の部屋へと向かう。
すると、俺の部屋の前で立ち尽くしている女がいた。
「う、うそうそうそうそうそうそ」
気配を消して背後に立つと、びくっ、と犬上は振り向いた。
「同室、よろしくね」
「さ、最悪……」
犬上はがくりと膝から崩れ落ちた。
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