雨が降った砂場

紫倉野 ハルリ

第1話

「今週は全国的に雨予報です、みなさん傘を携帯するようにしてください。」


雨音に遮られ、途切れ途切れにだけ聴こえるお天気キャスターの声。その透き通った声が私の耳にはあまりに澄すぎていて、思わず耐えられなくなってリモコンの赤い電源ボタンを押す。どうにも私は最近、美しいものを見聞きすると途中で逃げ出してしまいたいような気持ちになる。そんな美しい音と対極に位置しているような煩わしい音がスマホから発せられる。

「あ、もうこんな時間か。」

その煩わしい音がなると同時に私はこの暗い陰鬱な箱から飛び出す。外に出ればそこはもう別世界であって、私も先程の私ではなくなる。この箱の外の世界では自分を偽り、外の世界に適した私になるのだ。

「おはようございます」

普段箱の中ではこんな挨拶は必要ない。ただ、ずっと窓の外を眺め、何も考えずに過ごすだけで十分その役割を果たすことが出来る。しかし、外は違う。外の世界では、複数個のタスクを並行して効率よく進めなければこの世界の住人として適切な扱いは受けられない。この世界と箱の中でもうひとつ違うのは、時折自分以外の役割も担わなければならないという点である。中でも、後輩という存在ができる4月はその自分のものではない役割に従事する機会が次々に湧いてくる。どういう訳か、それで世界は回ってしまうのだ。

「お疲れ様でした」

この世界で役割を果たし終わった日、効率が良ければ良いほど評価は高い。しかし、その評価に見合う報酬は十分得られない。外の世界の住人は自身の言葉に価値があるという考えを持っている。そのため、高い評価と共に周りからの賛辞を受け取ることになる。しかし、この報酬と箱の中の生活はほとんど結びつかない。箱の中の生活において、他人からの賛辞など何の役にも立たないのだ。外の世界の住人は賛辞を受けてこれ以上ないくらいに喜びの感情を示すようだが、私には到底理解できない。外の世界で生きる上で偽りの自分に同じような行動をさせなければならないと思うと、また逃げ出したくなってしまう。それでも自分をいつわり続けるのは、私の中にドロが溜まり、呼吸困難に陥ろうとも自分を殺してさえいれば私はあの箱の中から離れることができるからだ。今の平穏を捨て、新たなことに挑むなどという考えはいかにも外の住人が好みそうなものだが、私にはそのような考えは備わっていない。自分の中に泥を溜め込み、日々自分を何度も何度も殺し続けて自分を保っているのである。


箱の中に戻ると、そこには溜め込みに溜め込んだドロが溢れんばかりに横たわっている。そのドロは紛れもなく、私の中で育ったものだった。一括りにドロと言えども、それぞれ性質が異なるようである。水を多く含むもの、水をほとんど含んでいないもの。熱を帯びたもの、霜のようなものを含むもの。その体積は日々増しており、今日ももちろん増していた。私はこのドロから逃れたくて箱の外に出ている。それなのに何故か、外の世界に出てからの方が、ドロは勢いづいたように増している。これはどういう事なのか、もっと外に出ればいつかドロは消えてなくなるのだろうか。最近はこのように考えることが多くなった。本来何も考えなくていいこの箱で私は毎日ドロのことを考えずにはいられない。


私は私をやっとの思いで箱の中から逃げ出すことに成功したものの、箱の外の世界からも逃げ出してしまいたい。この外の世界も実は少しだけ大きな箱に過ぎず、さらにこの外の世界があるのではないか、そう考えながら私はまた箱の中に連れ戻されるのだった。



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