愚者の愛

ひよっと丸

第1話 突きつけられた現実


 浅い切り傷ほどジクジク痛む。

 相手はそうとは気付かずにしたのだろうけれど、それは僕の心にいくつもの傷を残した。幼かったからか、対処の仕方が分からずにその傷を治す手立てが分からなかった。



「女の子だったら良かったのに」


 玄関を開けた途端に聞こえたのは母の声。


「私女の子だけど」


 次に聞こえたのは姉の声。おそらくキッチンで何かしながら会話をしているのだろう。だから玄関の開いたことに気がついていないのだ。


「違うわよ。蒼也のこと」

「ああ、まだ、来てないんでしょ  発情期」


 姉の声にどこか嘲りの雰囲気を感じて玄関で立ち尽くす。母はなんと返すのだろうか。


「まだよ。だから困っちゃう。抑制剤はお医者さんから貰ってるんだけどね。その、発情期の過ごし方っていうのがねぇ」

「なんか臭うんだっけ?フェロモンって言ってたかな。学校で習ったけど」


 すでに高校生の姉は、学校の授業で習った知識を曖昧に母に伝える。母だって、学校で習ったはずなのに、ベータだけの家庭で育ちベータと結婚したから、実際見たことがなければ分からない。基本人間は未知のものを恐れるものだ。


「そう、それ。フェロモンが漏れ出すと近くに居るアルファが来ちゃうかもしれないから、鍵をかけるように言われたんだけど」

「鍵?玄関の?」

「違うわよ。蒼也の部屋」


 母の声は不満の気配が漂っている。


「部屋に鍵なんかついてないじゃない」

「だから付けたのよ。お父さんが」

「え、いいなぁ」

「よくないわよ。発情期になったら部屋にこもるんだって、その間部屋で食べられる非常食みたいなの用意しなくちゃいけないのよ」

「お金かかるじゃん」

「それはね、国から助成金が出てるから  ねぇ」


 母がなんだか歯切れが悪い。中学に入る時自宅か施設か居住地を選ぶ際、助成金の多さに母が自宅を選択したのだ。表向きはお腹を痛めて産んだ子だから、義務教育までは面倒をみたい。と話していた。けれど蒼也は知っている。その助成金は姉の塾の受講料に消え、今は姉の高校までの通学費として消えている事を。

 蒼也のためのお金を、姉に全て使ってしまっているのだ。だから蒼也が付けているネックガードは未だに国からの支給品なのだ。学ランの詰襟に当たって痛いから、蒼也は市販のものが買いたいのに、母はいつもそんなお金はない。と取り合ってくれない。当事者で、一緒に説明を聞いた蒼也が金額を知らないわけがないのに、母はそう言う事をする。


「助成金?いいなぁ、いくらもらえるの?月一?それとも二?薬代高いって聞いたから、三万とか?」


 蒼也の事なのに、なぜか姉がはしゃいでいる。発情期は安定すれば三ヶ月に一度くる。蒼也はまだなので、月に一度定期検診を受け、お守りとして緊急抑制剤をもらっているだけだ。いつ発情期がきてもいい様にもらった抑制剤は部屋の引き出しにしまってある。助成金は、毎月ちゃんと蒼也が受診しないと降りない仕組みになっているから、母は口うるさく蒼也に病院に行く様言ってくるのだ。

 姉の学費に当てるために。


「あの子が受診しないと降りないのよ。ほんと面倒」

「えぇ、そうなのぉ。じゃあ、発情したら金額増えるわけ?」


 姉の気軽な声に蒼也の心臓が跳ねた。弟の事なのに金のために発情しろと言っている。母も明け透けに姉に蒼也の事情を話している。確かに家族だから知っておいてはもらいたかったけれど、こんな風に話されるなんて結構ショックが大きい。しかも関心があるのは助成金の金額なのだ。


「お陰でパートに出なくて済んだからいいんだけどね」

「お母さん、それってひっどぉい」


 けらけら笑う姉の声が耳障りで、その後に聞こえてきた母の言葉が信じられなくて、蒼也は手にしていたカバンを廊下に落とした。


「え?蒼也?」


 ゴトンという音に反応したのは姉だった。


「帰ってきたんなら、ただいまでしょ」


 キッチンから顔を出し、先ほどまでの会話がなかったかの様に振る舞う姉は、聞かれていただなんて露ほどにも思っていないのだろう。


「あ、うん。ただいま」


 掠れた声で返事をすれば、姉が顔を覗き込んできた。


「風邪?寒くなってきたからねぇ、ってマフラーしてたか。来月期末でしょ」


 そう言いながら姉はまたキッチンへと戻っていく。


「なんだよ、それ」


 頭の中で、母と姉の会話がグルグル回っている。母の本音とも思える最後の一言が蒼也の心をササクレ立たせた。

 カバンをつかみ、靴を脱ぐのではなく、再び玄関のドアノブに手をかけた。そのままカバンを自転車のカゴに入れ、自転車を漕いだ。

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