第6話 奥菜玲奈の怪談/奥菜理花
【奥菜玲奈】
私には
理花さんは東美の彫刻科に通う美大生で抜群にデキる人なんだけど、明るくてとっても謙虚な人なの。私の自慢の従姉妹で、憧れなんだ。三つ年が離れてるから在籍期間は一年しか被らないんだけど、それでも同じキャンパスに通えて、嬉しかった。
去年の、今くらいの時期だったかな。理花さんの就職が決まったって聞いて、私はちょっとしたお祝いを持って理花さんの家を訪ねたの。
私は勝手に理花さんの就職先は、きっとジュエリーデザイン関係だろうと思っていた。理花さんは自分で彫金した指輪やピアスをいつも身につけていたし、販売もしていた。固定ファンも結構居たって聞いてたしね。
でも、理花さんにプレゼントを渡して就職先のことを聞いたときに返ってきた答えは、私にとっては予想外のものだった。
「私、能面師になるの。弟子入り先を探すのは大変だったけど、決まって良かった」
キラキラの笑顔で言った理花さんに、私は多分ポカンとした、間抜けな顔を見せていたんだと思う。
「意外かな……?」って、困った顔で言わせてしまったから。
まあ、実際のところ本当に意外だったんだけど。
だって能面師って、伝統芸能の「お能」のお面を彫る人のこと。職人さんのことでしょう? 私は理花さんが、お能が好きだってことさえ知らなかった。
私は親しくしていたつもりで、理花さんから仕事にしたいと思うほど好きなことを教えてもらえなかったことに、少しだけショックを受けていたのだと思う。
「確かに私も理花さんには観劇に連れて行ってもらうことも多かったけど、お能を観に行くことはなかったから……びっくりしたかも」
正直に言ったら、理花さんはどうもお能に関しては誰かと一緒に行くより一人で観にいく方が好きなんだって教えてくれた。
……うん。気持ちはわかるよ。私も本当に好きな映画とか、舞台とか、一人で作品世界に浸りたいタイプの作品はあるから。
それにしたって、いくら好きでも伝統芸能に携わるのを職業にしたいと思うのって、情熱がないと難しいことだし、すごいことだと思った。だからいつからお能が好きなのか、なんで能面師になろうと思ったのかを理花さんに尋ねてみた。
そしたら理花さんは、子供の頃、不思議な体験をしたのがきっかけだって言うのね。
※
理花さんが七歳の頃。父方の実家——私にとっても祖父母の家だけれど——に向かった時のこと。
祖父母の家は山間にある古いお屋敷で、雰囲気のある建物だ。あんまり目立つから地元では奥菜御殿とか、奥菜屋敷とか言われている。
……あはは、そこだけ聞くとなんだか犬神家の一族みたいだよね。でも、ある意味小説よりも変な家かも。
奥菜屋敷は和洋折衷で、広くて、そして奇妙な、迷路のようなつくりをしている。
玄関の引き戸を開けると木でできた大きな階段があって、階段を上る先の重たいドアを開けると青々とした畳の部屋が現れる。この部屋にある襖を開くと洋間の書斎に出る、というような、統一感というものがまるでない無秩序な構造だった。引き戸と普通のドアが混在してるし、この家、廊下もないんだよね。部屋と部屋が直接繋がってるの。
理花さんは退屈を紛らわすにはちょうどいいと喜びつつも、子供心に変な家だな、と思った。この家を建てた人間はわざと家を迷路のようにして、人を迷わせようとしている。そんな意図を感じたんだって。
でも、子供にとってはそんな迷路みたいな家、格好の遊び場になると思わない?
理花さんは奥菜屋敷の部屋のそれぞれに興味を惹かれて、大人たちが話し込んでいるのをよそに冒険気分であちこちを見て回った。
いくつも四季折々の花々が描かれた襖を開き、いくつも違う細工の取っ手をした扉を開けた先で理花さんは突き当たりにある部屋にたどり着いた。
重たい扉を開くと、四畳半ほどの窓のない和室に、お面が二つ飾られている。
横に広い仏壇風の台の中、皿置きのような器具にお面が顔を見せるようにして置いてあったらしいの。
理花さんはお面をしばらく眺めて、好奇心にかられるままに、そのお面の片方を手にとって……被った。
お面を被った自分の顔が見たいと、理花さんは鏡のある部屋を探してそのまま屋敷をウロウロと巡る。そのうち立派な鏡台のある部屋に出て、鏡を覗き込もうとした瞬間。
「理花ちゃん! 何してるの!?」
悲鳴のような母の声が聞こえたかと思うと、ひったくるように仮面を剥ぎ取られた。それからまもなく、理花さんと両親はとんぼ帰りするように東京に戻ることになった。
それ以来、理花さんは祖父母の屋敷に帰っていない。ちなみにそのあと何か、奇妙な出来事があったとか不幸があったわけでもない。
奥菜屋敷での冒険はただの幼少期の思い出の一つとして理花さんの頭に刻み込まれたエピソードになった。
※
「玲奈ちゃんは見たことある? あのお面?」
理花さんが奥菜屋敷での冒険を語り終えて尋ねてきたので、私は首を横に振った。
「ううん。そんな部屋があるなんて初めて聞いた。お屋敷には小学生の頃に一度だけお邪魔したけど、お祖父ちゃんの気鬱が激しくなったとかで、私も大きくなってから全然訪ねたりはしてないし……」
祖父の言うことは奥菜の家では絶対だ。
祖父はかなり気難しく子供嫌いで、私も一度顔合わせをしたことはあるけど、祖父と会ったのはそれっきりなんだ。祖父を気遣ってか、私の両親が「奥菜屋敷に里帰りしよう」と提案するのを見たことがない。なので今は実家に帰るという習慣が奥菜の家にはないのだと思う。
理花さんは私が面を見たことがないと知ると、
「そう……」と心なしか残念そうな顔をする。
「玲奈ちゃんがあのお面を見てたら、どんな顔をしてたか思い出せたのかもしれないのにな」
「お面の顔を覚えてないの?」
理花さんは記憶の細部が曖昧なのだと言っていたけど、面の性別だとか、浮かべていた表情くらいは覚えていそうなものなのに、と尋ねたら、理花さんは真顔で
「そうなの。全然ダメで……」と自分でもちょっと不思議そうだった。
「そこだけ記憶にないんだよ。畳のお部屋に大きな桐のタンスがあったこととか、書斎の壁一面が棚になってて図書館みたいに充実してたのは覚えてるんだけど、お面の顔だけはのっぺらぼうみたいに抜け落ちてて、思い出せないの」
理花さんはこめかみを抑えて、何か思い出そうとしているようだったけれど、やがて諦めたように肩を落としてた。どうしても思い出せないみたいだった。
「でも、そんなことがあったせいかな。仮面やお面を見るのが好きなんだ。外国の仮面も好きなんだけど、やっぱり一番興味が惹かれるのは能面なの。観劇に一人で行ったりしているうちに、どうしてもお能に携わる仕事がしたくなってしまって」
理花さんはにこやかに微笑んだ。
「卒業制作もお面にしたんだよ。今作ってる途中だから、完成したら見に来てね」
そんな言葉をもらったので、私は当然のようにその年の卒業制作展にも足を運んだの。
※
一月末に展示された理花さんの卒業制作は事前に聞いていた通りお面だった。
理花さんの展示スペースには丸い鏡を中心に、作品のお面をつけた人を撮った写真パネルが四枚。能面風の白い
作品タイトルは『陰・陽(奥菜理花)』、このお面を制作した意図が、解説で語られている。
『「
しかし、日本の伝統芸能である「能楽」では女の面をつければ能楽師は女になり、鬼の面をつければ能楽師は鬼になる。能面を身につけることによって、 能楽師は面の属性を与えられる。この場合の本質というのは能楽師の内面ではなく「能面」という上面にある。
そして、このように役に扮する、演じる場面というのは、そうと意識していないだけで意外に私たちの身近にもあるものだ。例えば、アルバイト先で理不尽なクレームをつけられたときに内心腹が立っていても、すまなそうな顔をしてしおらしく謝ってみせる。これは仕事をスムーズに終わらせるための対応で、本心とは異なる演技だ。
だが、この演技が優れていた際に、それを
だとすれば、私たちは常に「私」という仮面をつけて生きている。
私は能面制作の技法を用いた二つの自刻像の制作を通して、外面と内面にある「本質的」なものを具象化し、捉えることを試みた。
展示してある二つの面は実際に身につけることができる。作品管理の都合上、本当に面を被ることは望ましくないが、せめて擬似体験ができるように鏡と手袋を用意した。ぜひ、観覧する方は顔に面をかざすようにして、鏡の中を見てほしい。そのときあなたは「私」を演じているのだ。』
……たぶん細部は違ってるだろうけど、そんなようなことが書いてあった。
作品と鏡を使ってちょっとした体験スペースを設けたり、いろんな人が理花さんの面を身につけている写真も一緒に展示して工夫があった。お面自体もよくできてたから、さすが理花さんだって感心したけど、……なんだか異様にも思ったよ。
理花さんの顔をしたお面を、カフェとか普通の家の中でつけている赤の他人を見るのはちょっと不気味だったし、お面自体も材料は木材なのに、血が、きちんと通っているような気がしたんだよね。……それだけリアリティがあって良い作品ってことなんだと思うけど。
遠目からの鑑賞を終えた私は、手袋をはめて理花さんの面の一つに触れた。
作品のうち、触れるのは一つだけ。理花さん自身の顔を精巧に彫った、白い自刻像の面——『陽の奥菜理花』
『作品はデリケートなので、顔につけず少し離して、かざすようにして鏡を見てください』
という、注意書きの横に置かれたその面を私は手に取ってみた。お面と展示台とを革紐で繋いであったから持ち出せないけど、確かに擬似的に面をつけた状態を鏡の中で再現するくらいのことはできそうだった。
私は鏡とお面を見比べて……結局お面を自分の顔にかざして見るようなことはしなかった。
なんだか怖いと思ったから。
多分、事前に理花さんが里帰りした時の話を聞いていたせいもあって、なにか引っかかったんだよね、こんな風に思ったの。
理花さんは自分の顔のお面を彫ることで、奥菜屋敷にあったお面の穴埋めをするように、この作品を作ってしまったんじゃないか。それはなんだかとても……まずいことなんじゃないかって。だって、理花さんの記憶の中のお面は、顔が抜け落ちているんだから。
嫌な感じを覚えて私は手に持っていた面を元に戻した。その時「白い自刻像」の面が展示されているあたりで、短い髪の毛か、長めの髭のようなものがそよいだ気がした。
思わず二度見しちゃったけど、もちろん理花さんが打ったお面には髪も髭もないし、見間違えそうなものもそばには無かった。
うん。たぶん、単なる気のせいだろうね。でも、その時は自分でも不気味なことを考えた後だったからすごく怖くなっちゃって……。
いま考えると、なんだか発想が突拍子もないかも。でも、理花さんのお面はそういう、なんていうか、神秘性とかオカルティックな感情を掻き立てるような作品だったんだよね。
※
卒展を見て家に帰ってすぐ、私は不安に駆られるままに、理花さんに連絡を取ることにした。
嫌な予感とは裏腹に理花さんの返信は早かった。だから私は安心して、卒業制作展を見に行ったことと、作品の感想を打ち込んだ。
『展示方法が面白くて、作品もとてもリアルで良かったです!』的な、無難な感想。
それで止めておけば良かったんだけど、どうにもモヤモヤするし嫌な予感が拭えなくて、迷ったけど書いちゃったんだ。
『実は、お面の顔が一瞬別のものに見えた気がしました。』って。
そしたら、理花さんの返す文面が目に見えておかしくなってしまった。
『そう思う?』『本当に?』と、確かめるような言葉が並んだ後に『実は私、顔が動かないの』って返事が来た。
……顔が動かないって、どういうことかよくわからなかったし、そのあとは『どうしよう』とか『お父さんもお母さんもどうしようもないって、諦めろって言う』とか、要領を得ない返事ばかり矢継ぎ早に送られてきたから『落ち着いて。通話しませんか?』って返した。
そしたら理花さんは『顔が動かないからうまく話せない』って言う。
その後は、私の返事なんて多分ろくに読んでなかったんだと思う。
『一年かけて二つ面を彫っていった』
『デザインも彩色もほとんど迷わないで彫り進めて、色を入れた』
『材木の中に顔が埋まっていて、私はそれを彫り出すだけが仕事のような気さえした』
『一つの面を完成させるごとに途方もない満足感が押し寄せた。これは傑作だという、身震いするほどの手応えがあった』
『だけど最後の黒い自刻像のお面に、仕上げの紅を差した瞬間、すっと気持ちが醒めて、なにか、おぞましいものを生み出してしまったような気がした』
『私も自分で作った面が全然違う顔に見える時がある』
『写真も本当は自分で撮るつもりだったけど、謝礼を払って友だちにモデルと撮影を頼んで、結局ほとんど確認することもせず、そのまま制作展に出した』
『展示場所に面を置いてから日毎に顔が動かなくなって、今ではまともに喋れもしない』
『筆談で両親に助けを求めたけど「諦めなさい」とか「命は取られてないんだからいいじゃないか」としか言わない』
『「盗まれたのは顔だけなんだから温情と思え」って言う』
私は、弾丸のように打ち込まれていく文章に圧倒されながらも「顔を盗まれた」っていう表現にちょっと思うところがあって、こう返信してみた。
『なら、いっそのことあのお面を壊してみたらどうでしょう。顔を盗られたっていうのなら、取り返してみればいいんじゃないかな』って。
そしたら理花さんの雨のような言葉が止まって、しばらくしたあと『ありがとう。そうしてみる』という言葉が返ってきた。
それ以上は何も返ってはこなかった。
一週間ほど経っても音沙汰がなく、私は理花さんと連絡が取れなくなってしまったことに気がついた。
もしかして、軽率に「作品を壊してみれば」なんて提案したから怒らせてしまったのかもしれないと思って、私は少し様子を見ることにしたんだけど……この判断が正解か不正解かは、いまだにわからないんだ。
理花さんの卒業制作は優秀賞を取ったらしいと風の噂で聞いたけれど、式典はおろか卒業証書授与にも顔を出さなかったようで、私のところまで連絡が来た。
てっきり、私とのやりとりはしていなくても、大学には顔を出しているだろうと思っていたから、連絡が来て初めて理花さんの行方が分からなくなっていることを知ったの。
慌てて理花さんにメッセージを送ってみたけれど既読にもならなかった。
……迷ったけど、理花さんの両親にも連絡してみたよ。
そしたらきちんと連絡はついたし、理花さんが顔を盗られた云々の話もしなかった。ホッとしたのもつかの間、卒業制作展が終わる頃に理花さんは家を飛び出すように出て行ったきり、ずっと家に帰っていないんだって言うの。
ちょうど、私がメッセージを送ったのがその頃だったから、……愕然としたよね。理花さんの両親も、大学側も、困り果てているようだった。
でも、本当に万が一の可能性だけど、優秀作品展には顔を出すかもしれないでしょう?
だから、理花さんの作品を卒業制作展の時に撮っておいた設営風景の写真通りに展示するよう、彫刻科の研究室からお願いされた時も、迷うことなく引き受けた。
どうも私とメッセージのやり取りをしたのが理花さんの消息の最後だったようだし、私の言葉が、理花さんが行方不明になるきっかけを作ってしまったのかもしれないという気持ちもあったから。
※
卒業制作の優秀作品展の展示会場は大学構内にある美術館。朝の十一時過ぎに会場に向かうと、それぞれ選ばれた学生たちが作品を吊るしたり、展示するための
私の任された仕事というのは理花さんが設営したのと同じような状況にお面を置けば済む、簡単なものだったから、分類で言えば後者だった。什器もキャプションも流用すればよかったしね。
私は什器や、木の箱にしまってあった白黒の自刻像を展示会場に運んで、手早く飾り付けた。天井から写真パネルを吊るすのも集中してやればそんなに時間はかからず終わったよ。
これでよし、と私は空になった箱を手にその場を立ち去ろうと思った。
その時だった。
——周囲で一切の音がしないことに気がついた。
展示会場が不自然なまでに静まり返っていた。
あんなに人がいたのに、どうして、と振り返った私の目の前に——信じられない光景が広がっていた。
「え?」
困惑のあまり声が出る。
理花さんの作った面は白と黒の自刻像の二つ。だったはずなのに。
展示台に置かれていたあれは、ちゃんと肌だった。長いまつ毛も、整えられた眉も、本物だった。……比喩じゃなく、血が通っていた。
生きている理花さんの顔が二つ、並んでいる。
そう、私が理解した瞬間。
後ろから耳元に生暖かい息がかかった。
「仕上げをありがとうねぇ」
粘りつくような悪意と歓喜の滲んだ、理花さんの声だった。
けれど、絶対に声の主が理花さんでないことはわかった。わかってしまった。
私は大急ぎで会場の出口まで駆け出した。一刻も早くその場から離れたくて仕方がなかったから。
——とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう、ちりやたらりたらりら……。
独特の節回しの、呪文のようなものを唱える理花さんの声が走る私を追いかけてきて、展示会場から遠ざかってもずっと、耳にこびりついて離れなかった。
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