第35話 強情なゴットフリート
ラルフは何度も実家のノスティツ子爵家へ赴いたが、ゴットフリートはアントニアへのプロポーズに頑として首を縦に振らなかった。ゴットフリートは、アントニアが自分のことをまだ好きでいてくれているかどうか自信がない。それに大きな古コブ付き、借金付き(それも大部分返済してはいるが)の自分では気の毒だと言う。アントニアが修道院で自ら掃除洗濯するほど節約生活を送り、洗濯での行き違いのせいで孤立しているとゴットフリートは露ほども思っていない。ノスティツ子爵家で苦労するよりは辺境伯家か実家のお金で悠々自適な生活を修道院で送るほうがいいだろうとゴットフリートは思い込んでいた。
ラルフは実家から帰って妻ゾフィーに愚痴った。
「ゾフィー、今回も兄上を説得できなかったよ。一度でも会えば、焼け木杭に火が付くかもしれないのになぁ。あの修道院じゃ、規則が厳しくて……兄上を出入り業者に偽装させるしかないか?!」
「そんなことできるわけありませんよ! でもあと何ヶ月かで神託節ですわ」
「うん、そうだね。でもそれがどうしたの?」
「年に一度だけ、聖グィネヴィア修道院に外部の人間が入れるチャンスです。うちとお義兄様の名前で寄付しましょう」
「ああ、なんていい考えなんだ! さすがゾフィー!」
ラルフは感極まって思わず妻に抱き着いてしまいそうになったが、すんでのところでとどまり、ラルフの腕はゾフィーの前で侘しく空を切った。
「ご、ごめんね……君に不用意に触れるところだった……」
「え……そんな……お気になさらず……」
ゾフィーは夫に抱きしめられなかったのが残念に思えた。
神託節は、人々に神託が初めて伝えられた記念日で年に一度の国民的なお祭りである。普段娯楽を楽しめないような貧しい人々も平等に神託節を祝えるように、教会はそのような人々を迎え入れ、衣類を贈り、ごちそうを振る舞う。普段は厳しい男子禁制を課している聖グィネヴィア修道院も自力で神託節を祝えない人々や大口寄付をしてくれた人々を男女問わず迎え入れる。
運がよければアントニアが受付や案内を担当していて修道院を訪問するゴットフリートと再会できるかもしれない。普段、ラルフは公爵家の権力と財力を振りかざしたりしないが、ここぞという使い時だと思った。
ラルフが神託節にゾフィーと3人で聖グィネヴィア修道院へ行こうと誘うと、ゴットフリートは案の定渋った。
「ラルフ、俺のことを心配してくれるのはありがたいけど、せっかくの神託節だ。ミハエルと家族3人で水入らずで過ごしなよ」
「兄上、ありがとう。でもミハエルはまだ赤ん坊だ。今回一緒に神託節を祝わなくても覚えてないよ。でも来年からは家族3人で過ごすから、今回が3人で聖グィネヴィア修道院に行く最後のチャンスなんだよ」
「でも今更どんな顔してアントニアに会えって言うんだよ……」
「彼女は絶対兄上のことをまだ好きだよ。直接会って話してみて」
「そんなはずないよ。婚約してたのはもう10年以上も前なんだから」
「とにかく会ってみようよ。俺達も一緒に行くからさ。仕事だって休暇中だからいいじゃないか」
「でも……」
ラルフは結局兄を説得できなかった。それでも出発する日に勝手に迎えに行くことにした。
出発当日の朝、ラルフとゾフィーがゴットフリートを馬車で迎えに行くと、彼はまだ髪の毛がボサボサで普段着を着ており、外出するような恰好ではなかった。
「兄上! 迎えに来たよ!……え? 何その恰好?! 早く着替えて!」
「い、行かないよ!」
ゴットフリートは強情に足を踏ん張って腕を引っ張られても梃子でも動かなかった。1時間以上、ラルフは兄を説得しようと努力した。すると普段昼まで寝ている母カタリナが騒動を嗅ぎつけ、神託節にかこつけてラルフに高価な宝石とドレスを強請ろうとしてノスティツ子爵家の小さな家はカオスに陥った。
そうこうしているうちに昼になってしまった。聖グィネヴィア修道院は普通の行程なら王都から1泊しないと着けない距離にあり、ゾフィーを連れていく以上、ラルフは夜中に馬車を走らせるのは避けたいと思っていた。
「兄上、残念だよ。俺達は日暮れ前に宿に着きたいから、もう出発しなきゃいけない。うちの馬車を置いていくから、後からでもいいから来て。御者にはちゃんと言い含めてるけど、くれぐれも父上と母上に馬車を使わせないようにね」
ラルフとゾフィーが出発後、後に残されたのはコーブルク公爵家の無紋の馬車と御者だった。窓から見える馬車をチラチラと見つつ、ゴットフリートは落ち着きなく自室兼執務室の中を右往左往した。
ラルフとゾフィーが出発して数時間後、日が傾き始めて公爵家の馬車に赤い夕陽が当たり、ゴットフリートの部屋も薄暗くなってきた。夕陽が薄っすらと入る自室で相変わらずウロウロしていたゴットフリートは、突然響いたノックの音に驚いて飛び上がった。
「旦那様、コーブルク公爵家の御者から小公爵様の手紙を預かりました」
「ラルフから?!」
ゴットフリートは、ノスティツ子爵家に唯一いる侍女にラルフからの手紙が届けられたと伝えられ、あっけにとられた。封筒を開けると、ラルフからは一言『これを読んでみて』とだけメモが入っており、アントニアからラルフへの返信が同封されていた。
その手紙にアントニアは、離婚経験のある自分がゴットフリートに相応しいと思えないと書いていた。でも『そうじゃなかったら本当はゴットフリートと結ばれたかった』と行間に書かれているようにしかラルフは思えなかった。彼は自分の勘を信じ、もしあまりにゴットフリートが修道院行きを躊躇しているようだったらその手紙をゴットフリートに渡すようにと御者にあらかじめ言い含めてあった。
ゴットフリートが久しぶりに見るアントニアの自筆は、婚約時代と同じように几帳面な性格がうかがえる、美しい字だった。ゴットフリートが寄宿学校にいる間、彼女はその綺麗な字でよく手紙を送ってくれたものだった。ゴットフリートはいつの間にか頬を濡らし、その雫が手紙に落ちて字が滲み、慌てて指で涙を拭った。
ゴットフリートは涙でかすむ目でじっとアントニアの手紙をしばらく見ていたが、いきなり何か決意したかのように顔を上げ、頬の涙を袖でぐいっと拭った。急いで一張羅に着替えて髪の毛を整えると、家を飛び出した。後ろで母カタリナが何か喚いていたが、振り向きもしなかった。コーブルク公爵家の御者は阿吽の呼吸でゴットフリートを馬車に乗せてすぐに出発した。
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