第2話 カウンセリングルームにて
こんにちは、五樹です。多分、この「八人の住人」を書くのは、僕だけでしょう。他の人格の事も、もちろん書きますが。
現在、時子は、精神科に19年通い続けていて、それはいくつか病院を移った後です。
カウンセリングの方は、以前に言語化するカウンセリングにも通いましたが、それは10年も続けたにも関わらず、上手くいきませんでした。
今通っているカウンセリングルームではめきめきと良くなっていて、かれこれ通い始めて1年半です。
カウンセリングでの話を、一つ取り上げましょう。
ちょうど、今から3日前の事です。
時子の夫は、付き添いとして、カウンセリングルームに一緒に入り、客観的に見たこの子の様子なども、カウンセラーに相談してくれます。
「この間、人ごみを怖がって、五樹君に交代してしまったんですが…」
この子の夫がそう言っていた後で、セラピーが始まりました。
それは、ベッドに横になって、肩や、背中の腎臓の辺りに手を当てて暖める、タッチセラピーという物です。一見するとただ手を当てているだけですが、秘密があります。
それは、そこがカウンセリングルームという、トラウマへの対処をするための場所で、そこには安心出来るカウンセラーが居るという事。この二つを確かにしていく為、カウンセラーがt直接手を当てて、体の肝要な部分を暖めるのだと、僕は思っています。カウンセラーからはそう説明された訳ではありませんが、多分それで、身体的に警戒心が下がっていくのでしょう。
そうすると、時子の脳はカウンセリングによりトラウマの消化をするため、動き始めます。それはカウンセラーが言っていました。「体の反応で、脳も自然と動くんです」、と。
記憶が自然と口から飛び出し、それに対してカウンセラーが対処をする。それまでには、越えなければいけない、高いハードルがある。多分カウンセラーは、それにいつも苦戦するだろうなと、僕は思いました。
しばらく手を当てていると、時子はこんな事を話し始めました。
「お母さんの家からは、14歳の時に家出しちゃって…5歳の時にも、家出はしたけど、やっぱり捕まっちゃったから…5歳の時は、失敗しても後でお母さんから怒られないように、言い訳まで用意してて…」
すると、カウンセラーは突然こんな話をしたのです。
「この間、人ごみが怖くて五樹さんと交代したって言ってましたね」
「はい…?」
時子は、なぜその時その話をされたのか分かっていませんでした。でも、多分カウンセラーは、これを切り出すタイミングを、ずっと待っていたのだと思います。
「それは、お母さんからいつも傷つけられていたから、そう思ったんですよね?」
「はい…」
「じゃあ、お母さんから教わってしまった、「人が怖い」と思う気持ちを、額に入れて、今のお母さんが住んでいる家に、お返ししちゃいましょう」
「え、でも、今、お母さんがどこに住んでいるのか、私は知りませんし…」
ベッドに横になり、手を当ててもらいながら、時子は戸惑いました。カウンセラーは微笑みを崩しません。
「いいんです、知らなくて。イメージでいいんですよ。“遠く”とかでも」
「でも、そうしたら…お母さんとの記憶、捨てちゃうって事ですか…?」
母親に痛めつけられておきながら、時子は母との生活の記憶を失いたくないと、泣きそうになりながらカウンセラーに聞いていました。
「うん、やりたくなかったら、やりたくないで大丈夫ですよ。でも、「怖かった気持ち」だけだから、お母さんがいなくなる訳じゃない。それに、現実でも、お母さんがこの世からいなくなるわけじゃないです」
カウンセラーにそう言われて時子は安心し、イメージワークへ取り掛かりました。彼女は、ベッドに仰向けた格好のまま両手を軽く上げ、額の形を象るように動かし、そこで顔を顰めます。
「ダメだ…入らないです、入り切らない、もっともっと大きくないと…」
「大丈夫です、どんなに大きくても。それに、圧縮してもいいんですよ」
「そうですか、じゃあ圧縮して…ああ、ダメだ、真っ黒です…」
こう言った時、時子は、母親からぶつけられた暴言を文字に書いているようにイメージして、それを収めようと苦心していました。そうしたら、額縁の中は真っ黒に塗り潰されたようになってしまった。それほどだったという事でしょう。
「ん!」
小さく叫んで、両手を大きく上に投げ上げ、時子はイメージワークを終えました。
その後、彼女が人々をどう思うようになったかは、あまり人ごみに行かないので分かりません。でも僕は、そんなに簡単に忘れられる話だとも思えませんでした。
もしくは、カウンセラーの言うように、「カウンセリングの効果は遅れてやってくる」のかもしれませんが。
最後に、彼女が泣きながらツイッターに書き残した事について、僕なりの意見を述べて、終わりにします。
「みんなが私を褒める理由が分からない、私を慰める目的が分からない、優しくしてくれるのがなぜなのか分からない。誰に聞いても答えてくれない」
時子はそうつぶやいて泣きました。でも、僕達は時子に何度も伝えています。
君が大切だから。
君の事が好きだから。
君は本当にいい子だから。
でも、これらの理由は、時子には想定不可能です。人は、あまりに予想と違う答えは、受け入れようとしません。
彼女が虐げられた過去の気持ちでいる限り、僕や、時子の夫、時子の叔母にそう言われても、彼女の心には残らない。
僕は時折、強い無力感に苛まれるのです。
何を言っても、僕達の伝えたい事だけは、この子に聞いてもらえない。この子は母親の話しか聞かない。それは本当に恐ろしい事です。
日々、僕は自分に出来る事を探しています。
つづく
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