彩紙耶堂へおいでませ

豆茶漬け*

一冊目

第1話

おいでませ

おいでませ

はやくこちらにおいでませ

貴方の大切なモノをかけて

貴方の唯一の願いを叶えましょう

おいでませ

おいでませ

彩紙耶堂へ、おいでませ



その日は雨が降っていた。

松宮サクラはどこにでもいる平々凡々な中学生だ。学年は真ん中の二年生。入学の時の緊張も、受験に追われることもないこの時期は、1番楽しい時間になるはずだった。


たったこの瞬間。この時までは確かに楽しいだけの毎日のはずだった。


ざぁさぁと降る雨の音が異様に大きく聞こえる。サクラの目の前ではサクラの一番の親友であるユキネが怖いくらいの形相でサクラのことを睨んでいた。

二人の間には沈黙だけが流れる。サクラは、今この教室に他の生徒が居なくて良かったと、現実逃避をするかのように思った。


そんなサクラの思考を読み取ったのか、ユキネはぽろぽろと泣き出した。そんなユキネを見てサクラは動揺した。サクラはここまでユキネが感情を剥き出しにした姿を見たことがなかったのだ。サクラは声をかけようと口を開いたが、結局何も言えずに口を閉じた。

 ユキネは溢れる涙を乱暴に拭うとサクラにわざとぶつかるようにして教室の外へ飛び出していった。サクラは一人残された教室で、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 そのあと、どうやってサクラは学校を出たのか覚えていなかった。ただ、気がつけば雨は止んでおり、分厚い雲の切れ間から血を流したような赤い色をした夕日が、一人で通学路を歩くサクラを照らしていた。まるで一人、舞台上でスポットライトを当てられているようだった。周りの景色は目に入らず、世界で自分一人だけになってしまったような気持ちだった。


 サクラはぼうっと歩きながらユキネのことを思い出していた。

 サクラとユキネは赤ちゃんの頃からの付き合いで、ずっと仲良しでやってきていた。ケンカをしてもすぐに仲直りをするし、そもそも数えるほどしかケンカはしたことなかった。

 だから、サクラは今回のケンカはいつもと違うことを全身で感じていた。サクラは立ち止まり、きゅっと唇を噛み締めた。そうしないと目尻から涙が零れ落ちてしまうような気がしたのだ。


「なんで……」


 ポツリと呟いた言葉が空に消える。

 振り返ってみても、今回のケンカはいつものように些細なものだったはずだ。でもユキネにとっては違ったのだろうか。だからユキネはあんなにも怖い顔をしていたのだろうか。


 サクラは小さくため息をつく。立ち止まっていても仕方がないと思い歩き出そうとする。


 その時、一際大きな風が吹いた。


 ユキネと一緒に伸ばしていた、手を加えていない長い黒髪が風に吹かれて広がった。


「うわっ」


 サクラは思わず声を上げた。顔の前に流れてきた無数の髪の毛を両手でかき分けるようにして整える。


 その時、シャン、と鈴の音が響いた気がした。サクラは反射的に顔を上げた。顔を上げた先にはいつもと同じ通学路があるはずだった。


 しかしそこには見慣れた住宅街はなく、見慣れない木造建築の建物が並んでいた。まるで昔の街並みのようだ。電柱の先には白い蛍光灯ではなく、オレンジの光を灯した提灯がぶら下がっていた。


「え……なにこれ……?」


 サクラは突然見知らぬ土地に放り出され混乱した。サクラはこんな風景を見たことがなかった。

 サクラが困惑して立ち尽くしていると、後ろから誰かがぶつかってきた。


「なんだぁ?邪魔だなぁ」


 低く、腹の底から響くような声だった。サクラは咄嗟に振り返ってぶつかってしまったことを謝ろうとした。しかし、その謝罪の言葉はすぐに悲鳴に変わった。


「ひっ……!」


 振り返った先には丸く黒い、大きな図体をした人間ではない何かがそこにいたのだ。サクラは恐怖で足の力が抜け、その場に座り込む。大きく黒い何かはその巨体を半分に折り、座り込んだサクラに顔らしき部分を近づける。サクラはさらにでかかった悲鳴をなんとか飲み込む。声を出したら、この化け物にバレてしまうと思ったのだ。しかし、サクラの努力は虚しく散った。


「あぁ、ニンゲンだぁ。ニンゲンだぞぉ」


 地響きのように低い声がそう言った。そして黒い化け物は手らしきものをサクラに伸ばして触れようとしてきた。

 サクラはその瞬間、今までにないほどの瞬発力をみせ、その場から脱兎の如く逃げ出した。幸い黒い化け物は挙動が遅く、走って逃げるサクラを追いつくことはなさそうだった。

 サクラはどっと速くなる心臓を制服の上から握り込みながら我武者羅に走った。


 黒い化け物から十分な距離を離れると、サクラはようやく周りを見る余裕ができた。荒くなった息を整えながららその場に立ち止まり周囲を見渡す。

 そこには先ほどまで気が付かなかったが、それぞれの建物は屋台のようになっていた。それぞれの店らしきものの中では黒い化け物のようにヒトではない何かがサクラが見たこともないような奇妙なものを売っていた。そして、サクラはこの通りが異形のもので溢れかえっていることに気がついた。


 サクラは訳がわからずパニックになった。そうしている間にも、周りを歩く異形のものたちがサクラを囲うように立ち止まって見ていた。そのうちの誰かとサクラの目があったような気がした。

 その瞬間、言葉にしようのない恐怖が足元から這い上がってきて、サクラはまた逃げるように走り出した。周りにいた異形のものに体がぶつかっても気にしている余裕はなかった。

 どれだけ走ってもいつもの通学路に出ることはなく、むしろどんどん深いところに迷い込んでいるような気がした。


「……て」


 異形のものたちとの間を縫うようにして走る。息はとっくの昔に上がっており、普段こんなに走ることのないサクラの肺は悲鳴を上げていた。


「助けて…誰か…!」


 走りながら誰かに助けを求める。しかし周りにはサクラを助けてくれるヒトはいないようで、サクラの声は雑踏の中に消えていった。


 その時、シャン、と鈴の音が聞こえた気がした。それは、この異様な空間に迷い込んだ時に聞こえた音にとてもよく似ていた。


 サクラははっとして立ち止まり、すぐ横にあった脇道に目を向けた。そこは表の通りの光りが届かないようで、奥に行けば行くほどとても暗い路地だった。

 サクラは息を整えながらその路地を惹かれるようにじっと見つめた。すると暗闇の中で何かが動いた気がした。そして、その何かは少しだけサクラのある通りの方に移動し、その姿を灯りの下に晒した。


 猫だ。

 黒い何かは猫だった。


 猫はじっとサクラを見つめたあと、にゃあと小さく鳴き、サクラに背中を向けた。そして顔だけ振り返ってサクラを見て、また鳴いた。まるで着いてこいと言っているようだった。

 サクラはどうするべきか悩んだ。しかしすぐそばでまた、「ニンゲンだぁ」と言う声が聞こえた気がして、意を決して路地に足を踏み入れた。こんな訳のわからない空間で、異形のものたちから逃げるくらいなら、この黒猫について行ったほうがまだ助かるのではないかと考えた。


 黒猫はサクラが歩き出したのを見届けると、前を向いて歩き出した。サクラの目では路地は暗すぎてほとんど何も見えなかったが、不思議とその黒猫の姿だけは見失わなかった。

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