第11話
「ねぇ、あなた、最近うなされているわよ」
珍しく朝食の時間に、妻の美沙が起きて来てテーブルにつく。
長い髪が綿毛のように膨らんで、どうやら卓の寝言に悩まされている様だった。
「棋士はやめたんでしょ?」
卓は美沙の前にコーヒーを置いて「ああ、やめた。寝言うるさいか、すまんな」と謝る。
美沙と卓の寝る部屋は同じだった。小海が中学生になったのをきっかけに、美沙は自分の部屋を小海に譲り、卓の部屋に移動している。
「なら、どうしてあんなに、うなされてるのよ」
「……就職先が決まらんから、夢にでてきたのかもな」
「うそでしょ」
美沙は吐き捨てるように言うと、食パンを一口食べる。
「将棋のときと同じような寝言つぶやいてたわよ。『ああ、そこじゃない』とか、『その手があったか』とか」
ぎょっとして、卓はコーヒーを持つ手が止まった。起きたばかりとは思えない鋭い目つきで、美沙は徹底的に問い詰める気だ。
もう闘争心を隠しきれないと思った。
将棋はやめたと思っていたが、何十年も続けていた棋士としての精神はそう簡単にリセットできるものではなかった。今でも新聞の隅や、中づりの広告、テレビ実況など、将棋を見れば思考はそのことでいっぱいになる。
その根底にあるのは、貪欲な勝利の渇望――勝つことを卓は欲していた。
平等な立場で、相手を絶望の淵に追いやり、負けを認めさせ、圧倒的に勝つ。
卓の生まれながらの本能で、抗うことはできなかった。
そしてあの大舞台で勝つ自分を想像すると、卓は覚醒してしまって寝れなくなるのだった。
「美沙」と卓は強く言葉を発すると、今度は美沙がぎょっとしてトーストを持ったまま固まる。
「パートをして、家事も今ぐらいはするから、空いた時間にゲームをしていいか?」
美沙は眉間に皺を寄せて、卓を下から睨みつける。
「……なに言ってんのあんた」
「じつはな、小海がテレビゲームの大会に参加して負けたんだよ。俺がもし参加してたら、絶対勝てた大会だった。それが、後からになって悔しくて。……俺、ほら、将棋負けたらずっと根に持つタイプだろ、その大会のこともさ、ずっと忘れられなくて。やればできるかもしれないのに、踏みだせない葛藤が、寝れなくしてんだよ」
美沙はコーヒーを片手に首をかしげると、「好きにしたら」とつぶやいた。
怒りを買うと思って必死に説明する卓を、美沙はなんと思ったか、卓には分からなかった。
卓はディスカウントストアのパートの募集があったので面接に行き、明日から仕事に入るため雇用手続きを済ませ、ついでにその店でシチューの食材を買って夕食の準備をする。
料理、風呂、洗濯物をたたみ終えると、すでに夜の七時前になっていた。
小海が帰ってくると、夕食を一緒に食べる。
ゲームショウの試合のあと、コスプレを辞めさせることはできなかったが、その代わり防犯ブザーを必ず持ち、夜七時までには帰ってくるよう小海と約束した。
「小海、サッカーのゲーム。あれ、なんていうゲームなんだ」
卓はシチューを食べる小海に尋ねた。
「え、おっさん、タイトルも知らないでやってたの?」
卓はおどけてみせると、小海は部屋からゲームのパッケージを持ってきて渡した。
深夜、借りたサッカーゲームのパッケージと説明書を見て、パソコンで該当しそうな大会を検索した。
――ゲーム会社アシアーが開催する国内最大のeスポーツ大会、賞金一千万円
これだ。
卓は意味なく玄関とパソコンとの間を行き来して、猛る心をなだめた。
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