おっさん棋士、プロゲーマーに転生するってさ

返り桜

第1話

 童顔の男が茶碗を手に取って、ズズズッと音を立てて飲む。

 北々きたぎたすぐるの扇子を握る手は、じっとりと汗ばんでいた。

 将棋盤を食い入るように見て攻略法を探すが、卓の脳内は過去の棋譜が現れては消えを繰り返し、錯綜してとりとめもなくなっている。

「はぁ~あ」と対戦相手が大きなあくびをした。卓は頭を上げると、タイムを計る立会人がムッとして童顔の男をにらみつける。

 卓は真下に目を戻すが、もはや思考は止まり再び動き出すことはないと思った。


「ありません」


 卓は負けを認めた、高校生相手に。



 階段を下りて会場を出ようと卓が玄関ロビーに入ると、今日の対戦相手だった高校生と鉢合わせしてしまった。


「お疲れ様です」卓は立ち止まって社交辞令として軽く会釈する。


 しかしその高校生は、だれ? という顔をして階段を上がっていってしまった。

 取り残された卓の横を彼の母親なのか「あら、負けた方……」といって通り過ぎていく。

 卓は薄くなった髪をむしるように掻いて外に出ると、駐輪場の自転車に和服のまま乗って会館をあとにした。


 俺が弱くなっているのは分かる。卓は自転車の速度をあげるため立ちこぎした。

 しかし――この将棋の世界で、三十後半までどうにかプロを維持してきた者への敬意はないのか。少なくとも自分は、二十歳でプロになったとき周囲に気を遣っていた。

 今日の対戦であの高校生が無粋なことをしなければ、別の手が浮かんでいたかもしれない。

 ――いや、それであっても、負けていたか……


 自転車がカーブにさしかかったとき、袴の裾が車輪に引っかかり卓は横転した。

 歩道に投げ出され手のひらを打つと、手首に鈍い痛みがあった。

「い、痛い……、ああ手首の骨折れたかな……」

 すると、道路になげだされた自転車を後続の車がはね、自転車は無残な姿になった。

 思わず卓は立ち上がり赤の車をにらみつける。

「こらー!」と言ってみたが、車にも傷ができたはずなので、それ以上は追及するのに気が引けた。


 曲がった車輪を押しながらアパートの駐輪場に停め、自宅に入ると救急箱を探す。

 台所には妻の美沙みさの姿があり、卓がシンクの下に屈んでも、何も話さなかった。

 美沙とは十年近く夫婦としての会話らしい会話をしていない。完全に冷え切った関係だ。

 美沙は弁当二つをカウンターキッチンに置き、ブランドのバッグを肩にかけ、玄関でハイヒールの音を鳴らすと出て行った。


 静寂のリビングに腰かける。隣人の笑い声が薄い壁を通して虚しく反響した。

 とりあえずテレビをつけて手のひらのケガを処置した後、スマホを手に取る。

 スマホの黒い画面に自分の顔が映ると、卓は長いため息を吐いた。目元は垂れさがり、ほうれい線が深く刻み込まれている。頬の耳そばに、黒い画面でわかるほどのシミ。

 いまから就職活動などしても、こんなみじめな四十手前の男を採用する企業などあるのだろうか。仮にあったとして、いったいどんな会社なのか考えると暗澹たる気持ちになる。


 だが、プロ棋士としてやっていく自信はなかった。

 今日対戦した相手は、別に期待の新星というわけでもなく、趣味でたまたま適性があった世間知らずの高校生。そのことは卓自身がよくわかっていた。卓も高校生で、プロと名乗る大人を倒していく爽快感に酔いしていたからだった。

 そして、あの時の自分と比べると、まるで蜘蛛の巣を張ったかのように、頭が回転していない気がするのだ。あのとき、この手だ! という快感が閃いていたが、今その境地に立つことはなかった。


 玄関のカギが開く音がすると、娘の小海こうみがリビングを通る。

 小海は高校生だが、いつも夜の九時以降に帰ってくるような生活をしていた。しかも化粧をしており、コンタクトも青色などにして、結び目を耳より上にした噴水のようなツインテールだ。


「おっさん、弁当は?」


 小海は黄い目で卓を見下ろす。今日のコンタクトは黄色だった。

 キッチンカウンターを指さすと、小海はチーターのように弁当を取り部屋に鍵をかける。すぐ、部屋からパソコンの起動音が聞こえ、ネットゲームを始めたことが分かった。


 そのネット代や、基本契約料を払っているのは俺だぞ! 

 それに、アパート代だって俺が払っているんだぞ! と卓は心の中で叫ぶが、とても面と向かって言えない。実際は、妻の美沙の夜の稼ぎもあるからだ。

 美沙の稼ぎは不安定ながらも、たまに卓のプロ棋士としての収入を上回ることもあった。


 それに、小海が怒ると手が付けられなくなる。一年前に、キレた小海は俺の大切な将棋盤をベランダから落とした。アスファルトの傷が入っただけで割れなかったが、その将棋盤は工芸品クラスで十万以上はする品物だった。


 突然、小海がリビングに顔を出した。

 卓は悪態をついていた暗い顔を無理やりもとに戻して、小海の方を向く。


「ねぇ、ゲーミングチェアを買ってくんない?」


 ゲーミングチェアという単語を知らない卓は、眉をしかめる。


「いったい、いくらするんだ?」


「ゴマンぐらいかな」


「……今あるイスで我慢しなさい」


 小海は舌打ちして、闘犬のような顔をすると自分の部屋に戻っていく。


 卓は怒りもなく、虚しささえ感じなかった。

 背中をクッションにあずけて天井を見る。もう、過去も未来もない。消えて泡になりたいと思う。

 しかし無情にも、手のひらは転んだ傷でズキズキと脈打ち続け、現実からは逃れられなかった。

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