第5話 未経験のキミと未経験のオレがキスをする話
それはあまりにも一瞬のことで何が起きたのかわからなかった。
俺の首に夜見さんの手が回され、話していた口は彼女の唇に塞がれた。
一瞬だけ唇と唇が触れ合うくらいの柔らかなキス。
「嫌いやないならええです。そのうち陽さんがうちのことしか考えられないくらい好きにさせてみせます」
彼女の吐息が耳をくすぐる。
それと同時に彼女の運んできた香りが俺を包み、心臓が今までに感じたことのないような動きをする。あんまりにも激しい鼓動から肋骨が折れるんじゃないかと思うくらいだ。
いきなりキスって。
きっと、今の俺はさっき泣いていた時と同じくらい顔どころか耳まで紅いに違いない。
こうして、元カノともしていなかった俺のファーストキスは突然許嫁として派遣されてきた夜見さんに奪われた。
俺の首に回されていた夜見さんの手はするすると解かれて、まるで今、キスをしたなんてことがなかったかのように普通な様子でいる。
そうか、夜見さんくらい可愛ければ、俺と違ってキスやその先も経験済みであっても不思議じゃない。もしかしたら、夜見さんにとってキスなんて挨拶程度のものなのかもしれない。
「さっ、夕食の買物でも行きましょ。今日からはうちがご飯作るさかい」
夜見さんは俺から離れるとすぐにクルっと反対を向いた。
「夜見さん、今のキスって――」
キスの理由を聞くことに意味があるかわからない。でも、好きでもない人と無理にキスをして、御利益達成のために俺に媚びを売るようなことまでしなくてもいいのに。
夜見さんの背中に向かって問いかけると、そのまま振り向くことなく答えた。
「そないなこと聞きます? 陽さん、いけずやわぁ。うちだって初めてやったからめっちゃ緊張してんよ」
ええっ! さっきのファーストキスなの!? ファーストキスの相手が俺でいいの。
「さあさあ、買い物行きましょ。うちこのあたりの道詳しくないから案内お願いします」
キスの余韻でぼやけていた意識をしっかりさせるために頬を一度ぱちんと叩いてから夜見さんを追うように部屋を出た。
●
夕方というにはまだ早い昼過ぎ。近所のスーパーまで十分弱の道のりを歩く。
皐月の風は爽やかでシャツにジャケットを羽織るとちょうどいいくらいなのだと思う。どうして思うなのかと言うと、横を歩く夜見さんの顔が視界に入るたびに先ほどのキスが思い出され身体が熱くなるからだ。脈拍だってまだ正常な数ではないと思うし、アスファルトの上を歩いているはずなのにふわふわとベッドの上でも歩いているような感覚がする。
でも、今朝までは別の女の子と付き合っていたのに、振られて、泣いて、もう別の女の子にドキドキしている自分が嫌だった。
元カノに対する思いがそんなに薄っぺらいものだったかと思うと自己嫌悪に陥る。
「陽さん、どないしたの? さっきから顔が赤くなったり、眉間に皺が寄ったり、ため息ついたりしてはるけど」
夜見さんが俺を追い抜き、一歩前から振向きつつこちらの顔を覗き込んで、首をこてっと傾ける。
夜見さん、そんな技を繰り出さないでくれ。
破壊力抜群の仕草に思わず片手をおでこにやる。夜見さんの可愛らしい姿を見る度に元カノへの未練が減っていく気がするけど、それはあまり心地よいものではない。
「ううん、なんでもないよ。それより夜見さん、ちゃんと前見て歩かないと危な――」
「わっ!」
前方を十分に見ないで歩いていた夜見さんは歩道と車道との間の小さな段差につまずいた。その瞬間、反射的に自分の手を伸ばし、夜見さんの手を掴めたのはたまたまだろう。
ただ、そうであっても彼女の白い肌を傷つけなくてすんだのはよかった。
「ふー、危なかった。ほら、前を見ていないから転びそうになる」
「お、おおきに。陽さんのおかげで助かりました……」
夜見さんの視線がすーっと繋がれている手の方に下がっていき、それに合わせるように顔が赤くなっていく。
俺はそれを見てはっとして手を離した。
「ご、ごめん。そ、その手を繋いだままで……」
「い、いえ、うちは全然かまへんよ」
ここで、はい、そうですかと言って、再び彼女と手を繋ぐほど強固なメンタルは持っていないし、自分から嬉しそうに手を繋ぐようなことをすれば自己嫌悪に潰されそうだ。
夜見さんには悪いがここですぐにあなたになびくようなことになれば、自分が可愛い子に言い寄られればほいほいと付いていく軽い人間になってしまう気がしてならない。
「夜見さんの気持ちは嬉しいけど、ちょっとそれは……」
差し伸べられた誘惑を断ち切る気持ちで歩き出しながら夜見さんを追い抜いた。
その瞬間に寂しそうな顔が見えたけど、ぐっと堪えることにした。
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次回更新は12月6日午前6時の予定です。
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