ヘラクレスオオカブトと不思議の力学

不朽林檎

第1話

 夏休みも間近に迫った七月上旬、彼は私たちに宝物を見せてくれると約束した。誕生日がちょうど七月の頭にあった彼は、両親からヘラクレスオオカブト買い与えられたばかりで、それを、もう、吹きまくりたくてたまらなかったのであろう。

 そんなわけで、私を含めた数人は翌る日の放課後、彼の家を訪れた。彼は私たちを庭先で待たせて、家の中へ引っ込んでいく。たかだか昆虫一匹、私たちはそのお披露目を、しかし今か今かと待っていた。

 果たして、玄関から再登場した彼の手にはプラスチック製のケースが提げられていた。それは機能的には百円ショップの安っぽいのと大差ない代物であったろうが、とにかく中身が凄いものだから、私の目には大層な逸品であるかに錯覚せられた。

「デケェ!」

 右隣に立っていた友人が、思わず歓声を上げる。それに倣ったわけではないが、

「わぁ」

 と、そんな音が、私の口からもまろび出た。感動が言葉にならない瞬間など、この頃の私には珍しくもないことだったのである。彼はいよいよ得意げになり、

「十五センチあるんだぜ。普通のカブトなんてクソ雑魚」

 などと言って、気前よく、正面の友人にケースを渡した。子供ながらに高級品であって、もしもの際には代えが利かぬと解っていたのだろう、皆一様に恭しく眼前に掲げ、昆虫の珍妙な姿をしげしげと眺めては、行儀よく順番に回していった。いよいよ、ケースは私の手に渡る。

 私は他のみんなと同じようにケースを掲げ、そうして、見惚れた。

 光沢のある羽はプラスチックを彷彿させる質感にて、射す西陽でテカテカしていた。その全身はひどく作り物めいていて、日本刀を逆さにしてくっつけたみたいなツノや、細いながらもがっしりと止まり木を捉える脚や、そんな全てが、なんだか美しかった。第一、こんな物体が木の上をのそのそ動いて生きてあることが不可思議だったし、とても神秘的だった。

 私は、それを欲しいとは思わなかった。けれども、ただ、誰もいないところで、時間を気にせず眺めていたかった。その昆虫が私に与える不思議な高揚感を失いたくなかったのだ。

 なので私は、皆が帰ってしまったあと、こっそりと彼の家へ引き返し、未だ庭先で蝉を見上げていた彼を捕まえた。

「おう、どうした?忘れ物?」

「ううん。ヘラクレス、もうちょっと見たくて。今日だけ貸してくれない?」

「あ、え、貸すってお前…」

 彼は露骨に動揺した。今にして思えば、善良な少年だったのやもしれぬ。たった一晩は、子供にとって恐ろしく永く、まさに一日千秋なのである。大切な宝物をみすみす差し出すまいとするのは、無理ないことだった。私にはその辺りの理解が欠如していたように思うけれども、なんとなく、彼の心情を推して察ることは能うた。

「いきなりごめん。じゃあ明日、オオクワ持ってくるよ。それで、一日だけ交換しよう?」

 子供らしくもなく、あさましい私は早くも交換条件を差し出した。現金で人を懐柔できるなどと云うことを、酒の席や何かで大人たちから聞いたことはある。それを真似たわけではないが、子供なりに私は、人間の根っこに存在する第一原理のようなものを理解していた。バランスが重要なのである。そら、そう言ったら彼だって、うんうん、ちょっと悩むそぶりこそ見せたけれども、終いには、

「わかった」

 と頷いた。しめしめ、すかさず私は「約束な」と念を押して、「ありがとう」と、これまた形ばかりの感謝を述べた。

 果たして翌日、私は自らの宝物と引き換えに、彼の宝物を持ち帰った。昨日は浮かない顔をしていた彼も、私のオオクワガタには興奮を隠せない様子で、まんざらでも無さそうにケースを差し出してくれたのだった。

 その夜、宿題も入浴も歯磨きも了え、誰の邪魔も入らぬ自室にて、私は学習机のライトを点けた。机上には例のケースが置いてあって、その中央、止まり木の僅かな足場に、ヘラクレスは鎮座していた。

 私はゆっくりと着席し、観察を始めた。カブトはやはり美しく、実に精巧な作りをしていた。昨日、満足に確認できなかった細部までもを、私はじっくりと精査した。特に私の気を惹いたのは、細かくて柔らかそうな体毛であった。いかにも堅牢でツヤツヤとした装甲には似合わぬ、地味で微細な構造である。

 魔が差したのは、ちょうど、それに気づいた辺りである。

 おもむろに私はケースを開けて、むんずと、その硬い装甲を鷲掴みにした。カブトはツノを振りかざして威嚇してみせたが、私は怯まなかった。昆虫にしては稀有な巨躯も、人の手にかかればプラモデルのように呆気なく、止まり木から脚が離れるのに時間は掛からなかった。

 私はカブトをひっくり返した。昆虫に特有の悪臭がしていたし、腹側の構造は無骨で、気味が悪いばかりだった。それでも私は初めて見るそれに、湧き上がる好奇心を抑えられなかった。腹の節を指でなぞり、細い脚の感触を確かめる。次は翅を拡げてみたくなり、抵抗するカブトを押さえつけ、ガパリ、翅を引っ張った。こうなってくると隅から隅まで見ておかないと、なんだか気が済まなかった。目前の憧れの昆虫が持つ、凡ゆる側面をしらみつぶしに確認して、網膜と脳細胞に焼き付けておきたかったのだ。

 いつにも増して時間の感覚が曖昧で、気がつけば一時間ほど経っていた。ふと、私は我に返り、机上の昆虫を確認して、息を呑んだ。

 カブトは既に、瀕死の様相を呈していたのだ。

 細い脚は二、三も捥げ、雄々しい装甲は不恰好に広がったまま、その下に格納されてあった飛行用の薄い翅も破損し、一部は机に脱落していた。

 当然ながら、状況の最悪さを理解するのには十秒と掛からなかった。取り返しのつかぬことだと解っていた。あした激怒するであろう友人のことや、私をこっぴどく怒鳴りとばすであろう両親のことを考えると、目頭も熱くなってきて、私はすっかり放心してしまった。

 しかし、私は壊してしまったのだ。さらに悪いことには生き物を、である。どうしたって誤魔化しの効かないことは目に見えていた。指先でカブトをつついてみるも、ぐったりと草臥れたまま、力がこもる様子は無く、初めて見た時より一回りも二回りも矮小化されたようだった。

 困った時の神頼みとは能く云ったもので、私にはもはや、祈ることしかできなかった。望みのない、虚しいばかりの現実逃避である。それは子供の私にも解っていた。だけれども人というものはどうにも、土壇場になっても腹を極めかね、断頭の刃が皮膚に食い込むその刹那まで、往生際悪く助かろうとする性質があるようだった。結局、私はそのままの気持ちで床につき、目を瞑って朝を待った。

 果たして翌朝、私は母に事情を打ち明け、こっぴどく叱り飛ばされ、打たれた。その段になって私は、しかし漸く腹が極まったというのか、或る種の安堵を得た。これから彼が散々に私を貶すのは目に見えていたが、私は、何かを解決した気でいた。くすぶる火種は燃え上がらせたのだから、あとはもう、ただ黙って鎮火を待てばよいのだ。最終的には総てが首尾よく収まって、膿んだ傷口のような蟠りが残って、それもいずれは消えてなくなるのだ。もちろん、当時の私にそれほどの理性は備わっていなかったが、経験則として識っていた。

 子供同士のトラブルで学校に迷惑をかけることも憚られたのだろう、母は放課後、一緒に謝罪へ出向くつもりで、ひとまずは朝一番、彼に一切を明かして謝るよう言いつけた。それはたぶん正しい方策であろうと、私にも理解できていたので、素直に頷き、いつもより十五分も早く登校すると、教室で彼を待った。

 彼は朝が早い性質たちであったので、私が着いてから間もなく、教室へ入ってきた。私は心の中で何か──今にして思えば、この覚悟こそが真なる慚愧ざんきであろうとも思われる。そしてそれは、今なお、私の中にあるような気がしていて、本当の土壇場にぶち当たった時にひょっこり顔を出す。正気の上に成立する、自ら腹を割く時のような狂気である──を極めた。

 何も知らない彼は私を見つけて、「おう、今日は早いんだな」などと言った。私は静かに立ち上がると、彼の前へ進み出て、深く頭を下げた。

「ごめん!」

「は?なんだよいきなり」

「ヘラクレスが……」

 そこまでは出てきたのだけれど、その後が喉の奥につっかえていた。言い淀んでいるうちに、彼は何かを察したらしく、目つきを鋭くした。

「まさか…殺したのか?」

 殺した。

 弱ったとか死んだとかではなく、彼は、そんなに直截な言葉を遣った。小さな子供が、しかも会話のなかの僅かな間に、その言葉の効果を検討したわけもなかろう。しかしながら、その言葉は私に対して適切で、先ほど極めたはずの何かをも、少し揺るがしうる衝撃となった。

「…ごめん」

 あれやこれや、伝え方を幾通りか想定していたのだけど、そんなものは何の役にも立たなかった。その通りである。私が、ヘラクレスを、殺したのである。死なしめたのである。彼の宝物を台無しにしたのである。

 罪悪。

 それはよく傾く、とてもバランスの悪い言葉だ。おおよそ平衡の位置というものを知らぬような感じで、それ故に好き勝手に解釈され、怖いくらいに人を突き刺す。未だ比較的に感性の真面であった私にも、その荷重はずっしりとのしかかった。

「お前っ……!」

 言いたいことなど幾らでもあったろうに、彼はそれだけ呟いて、歯を食いしばった。全身に力が篭もり、ありたけの憎悪が私へ向けられたのが判る。私は殴られても蹴られても声を上げまい、彼の気の済むまでやってもらって、それで終いにしようと考えていた。逆さに振っても、私にできる償いなどそれくらいしかなかった。

 拳か面罵か、どちらにしても痛みを伴う何かを、私は凝っと待っていた。

 それなのに、彼はもう、それ以上には何も言わなかった。瞳は変わらず鋭いままで、その奥の方には少年らしく、心外にも傷つけられたという色が滲んでいる。

 ほんの数分。

 時間にすればそんなものだろうが、その沈黙は数時間にも感じられた。

 彼は、そのまま顔を背けた。そうして足早に歩き去ると、乱暴に着席し、机に突っ伏してしまった。まだ人けの無い教室には、彼と私だけの息遣いが残された。

 許されていないことは、私の目にも明らかだった。彼のとった行動は、あらゆる言葉や暴力よりも苛烈に、私のモラルを責め立てた。どうしようもなく不快な感触だった。

 次に私と彼が口をきいたのは、放課後になってからだった。

 母は校門の近くまで来ていて、私を捕まえると、そのまま彼の家へ向かった。日中は終ぞ不貞たままだった彼は、さっさと下校してしまったので、タイミングとしても問題なかった。

 彼の家に着いて、母がおもむろにチャイムを鳴らす。ややあって顔を出したのは、彼の母親だった。この親にしてこの子あり、彼同様に、母親はいわゆる人だった。彼女は大きな瞳をギョロりと動かし、私たち親子を一瞥すると、ちょっと鼻を鳴らした。

「何か御用ですか?」

 その対応は子供の目にも高圧的に見えたけど、母は臆さず、ハキハキと答える。

「ウチの息子が、どうやらお子さんに失礼をしたようで…大変申し訳ありません」

 母に合わせ、私も頭を垂れた。

 彼から事情は聞いていたのだろう、彼女はしばらく黙っていたが、

「謝るなら、あの子に謝ってあげてください」

 と冷たく言い放ち、奥へ消えた。ドアが閉まる。恐る恐る顔を上げると、母は神妙な顔つきで私をチラと見て、ほんの小さく頷いた。

 そのまま待っていると、間もなく彼が現れた。

「……なんだよ」

 時間が経って幾分か和らいでいたものの、その目は、朝の憎悪を忘れてはいなかった。私はやや大袈裟に恐縮して、先刻さっきと同じように頭を下げた。

「ごめん」

 隣で母も同じようにしたのが気配で判る。

 十秒ほど経ったろうか、彼が口を開いた。

「いいから、これ持って帰れよ。ウゼェんだよ」

 そう言って私に押し付けたのは、ヘラクレスと引き換えに渡したオオクワガタだった。ここで彼が報復に、オオクワガタを八つ裂きにしていたら、少しは私も救われたやも知れぬ。しかし、プラケースの中央に鎮座したクワガタには脚一本の欠失もなく、ピンピンしていた。

「ごめんね」

 私はもう一度繰り返した。それに被せるようにして母も言った。けれども、彼は黙って姿を消した。

 それから再び彼の母が現れ、母と何やら話を始めた。促されるまま、私は庭先の離れたところで待っていたので、仔細を知ることは叶わなかったが、母が白い封筒を渡しているのを見た。子供ながらに、ああ、きっとお金が入っているのだろうということは、何となく察せられた。彼の母はというと、始終しかめ面のままであったが、封筒だけはさっさと受け取ってしまって、懐へ納めていた。そんな様子のすべてが綯い交ぜになって、私は、なんだか形容しづらい、嫌な気分になった。何から何まで、すべては私の所為だ、しかし──。

 何を言っても後の祭り、私には、ひとまずの鎮火を喜ぶことしかできなかった。そうして、ほんとうは、火は鎮まってなどいなかったことを、私は未だ知らなかった。

 異変は翌日、私が登校した時から始まった。

 いつも通り、玄関で靴を履き替えようとしたところ、上履きがどこにも見当たらないのである。誰かが間違えたのか、そんなふうにも疑われたけれど、これまで一度もない珍事に、私は呆然とした。とはいえいつまでも突っ立っているわけにはいかず、私は靴下のままで教室へ向かった。

 教室の様子はいつもと変わらなかった。違うところがあるとすれば、私へ向けられる視線の温度──殊に、彼を中心に集まっていた数人の、私を睨みつける顔だった。言葉がなくとも、それが明らかな糾弾であることは察せられた。ともすれば、この珍事の顛末も想像に難くないところであった。

 私はそろりそろりと移動して、出席番号の一つ若い子へ近づいた。温厚な子で、普段は教室で本ばかり読んでいるような少年だったが、この時ばかりは私をキッと睨んだ。その表情は、どこか怯えているようにも見えた。真面な返事の返ってこないことは容易に想定されたけれど、

「ねえ、僕の上履き、見なかった?」

 と、私は問うた。案の定、彼はうんともすんとも、ただ、微かにかぶりを振ったように見えた。私はそれを能う限りの答えだと看做して、「ありがとう」と礼を述べ、黙って着席した。

 それから昼休みも過ぎたころ、私の上履きは校庭の隅で見つかった。背の低い雑草の上へ無造作に捨てられてあって、低学年の親切な子らが先生へ届けてくれたようであった。

 この頃になると、流石に私も、事態を現実のものとして受け止め始めていた。いや、本当は朝の時点で判っていたはずなのだけれど、人間はやはり、土壇場でないと駄目なのである。被イジメと縁遠い人間は、そんな事態を、夢にも見ることができないのだ。だから私は、ここで漸く、これが他人事でないと認識できたのだった。

 彼らによる嫌がらせは、その日以降、絶え間なく続いた。今にして思えば地味なものが多かったように思う。通りすがりに足を引っ掛けられたり、物を隠されたり、鉛筆やコンパスでチクリとされたり、消しゴムや消しカスを投げつけられたり。子供の思いつきそうなことばかりであって、また、彼ら自身も、私にとって致命傷となるような嫌がらせは避けているように思われた。あくまで、彼らは私を立場に居たかったのであろう。大事になるのは、彼らにとっても本望ではなかったとみえる。

 ただし、今よりもずいぶん多感で繊細だった私に、それらの攻撃が多大なダメージを与えたのは言うまでもなかろう。

 私は泣いていいのか、ひょっとすると泣きたいのは彼なのか、よく判らないまでに落ち込んだ。味方になってくれる者は、誰一人いなかった。それも原因は間違いなく私にあるから、まあ、無理からぬことだった。

 毎日々々、私は死にそうな思いで登校しては、嫌がらせを受け続けた。対する彼らは、徐々にその本性を垣間見せつつあった。初めは私へ向けられていた──奇妙な形容かもしれないが、ひどくピュアな──憎悪の目が、いつしか気味の悪い薄笑いに変わっていた。それはもはや恨みの顕現などではなく、虐待の愉悦にひたる拷問吏の眼差しであった。その本性がはなから彼らに備わっていたものなのか、はたまた私の呼び起こした怪物なのか、私には判じかねるが、今、こうして考えるところに依れば、これもまた人間の正体の一つであったのだろう。は、弱っている個体を排斥せずにはいられないのだ。何か手落ちを見附けるや否や、自らの立つ舞台に其者そいつを発見できなくなって、自分とは違う、何か異質で、あまり価値のないもので、、虐め殺してもいのだと、本気で考え始めるのだ。不祥事をやらかした有名人が落ちぶれるざまを見る度に、私は今も、この事件を思い出さずにはいられない。

 とはいえ、この事態を招いたのは他でもない私自身であり、また、周囲の大人に助けを求め、その介入が仇となって被害が拡大することも、私は望んでいなかった。コミュニティの外側から人を救うのに必要なのは、善意でも正義でもなく、絶対的な力なのである。故に、子供同士のトラブルにおいて、大人はどうしても無力だ。

 そんなことは解っていて、だから私には、絶望することしかできなかった。私が悄気返しょげかえり、大人しくなればなるほど、彼らは笑みを深め、終いには直截な罵詈雑言まで浴びせるようになってきた。クラスでの孤独も深まる一方で、休み時間には誰とも口をきかず、ただ、人気のない所へ逃げ込むことで必死だった。大抵は人通りの少ない階段やトイレの個室など、埃っぽくて熱のない、冷たい場所が、私にとっては安息の地となった。

 休み時間には彼らとて遊びたかろうから、逃げていれば事なきを得た。授業中には先生に気づかれない程度のささやかな嫌がらせしか許されぬから、なんとか耐え忍べた。しかし放課後、家に辿り着くまでの時間は、私も無防備で、かつ、彼らはもともと近所の幼馴染どもであったから、帰り道のほとんどを同じうしていて、まったく、悪夢のような時間と相成っていた。私は逃げるようにして足早に帰るよう心掛けたが、それでも数日に一度は彼らに捕まり、心無い暴言や暴力を受けた。そこには大人の目もない故、彼らはいっそう残虐になり、殴る蹴る、終いには小石を投げつけるなど、それは耐え難いレベルにまで悪化した。

 私は耐えた。

 痣ができても隠したし、泣く時は独り部屋で泣いた。私が悪いのだ、そう言い聞かせることで、何かを押し殺していた。

 両親とて、私の異変に気づかないではなかったろうが、私が音をあげないうえ、私の罪を知っている手前、安易に問題視できなかったのだろう。心配されることも、「学校に相談しようか」と囁かれたこともあった。けれども私は頑なに、救いの手を振り払い続けた。よもや、慚愧などというもので耐えられる範疇ではなかったから、償いをしているつもりは私にもなく、ただ、現状を維持することに必死だったのだと思う。

 私が落ちぶれてから、考えてみればひと月ほどしか経っていなかったが、それはずいぶん永い年月に感じられた、そんな或る日、堪忍袋の緒は不意に切れることとなった。

 激怒したことを除き、不思議にも私は、その日のことについて、あまりよく覚えていない。ただ、何かのイベントが学校にて催され、たしか父兄も参加する何かだったような気もするが、とにかく土曜日であって、昼には給食の代わりに持参した弁当を食べる日だった。

 その日も当たり前のように私は蔑まれ、無視されていた。姑息にも彼らには私の持ち物を狙う習性があったので、普段から所持品の管理には気をつけていた。隠されて困るものは目の届くところに置いておき、教室を離れる際には持って歩いた。

 だから本当は、その日、母の作ってくれた弁当にも、同様の注意を払っておくべきだった。なのに私は、どこかで彼らを侮っていたのだと思う。弁当などに手を出せば先生も直ちに気づくであろうし、大事になるのは避けられない。そんなリスクを背負ってまで、弁当に手を出しはしないだろうと思っていた。

 短い休憩時間に、私がトイレから帰ってきた時のことである。机の横にぶら下げておいた包みが消えていた。私はサッと青くなって、机の中をまさぐり、ロッカーを覗き込み、終いには教室の隅々まで探してまわった。どこからともなく忍び笑いが聞こえてくる。

 果たして無惨にも、弁当は教室のゴミ箱へぶちまけられていた。

 それを発見した時、頭の後ろあたりで、何か、聞いたことの無い音がした。

 一も二もなく、私は手近にあった椅子を掴んで、ガタガタ引き摺った。そうして薄笑いのイジメっ子どもへ近づいて、そいつを振り上げた。反撃など予期していなかったのか、彼は滑稽なほど緩慢な反応をみせたから、私の第一撃を避けようもなかったのだろう、椅子は肩に思い切りぶつかり、悲鳴があがった。痛快である。手前にいた仲間に第二撃をあびせるも、そいつは素早く身をかわすと、まだ怯んでいる彼に代わって、私へ飛びかかってきた。

 そこからは、もう、泥仕合である。殴り殴られ蹴り蹴られ、前後不覚のままに揉み合った。とはいえ手数において不利な私は間もなく押され始め、ついには拳をもろに食らって、口内で血が噴き出す。異変に気づいた先生が飛んできたのは、ちょうどその時だった。

「何してる!」

 先生は恰幅の良い、まだ若い男の人だったので、私たちを楽々と取り押さえ、ひとまず事態は終息した。そうして、他の生徒たちは自習するよう指示され、その間、私たちは一人ずつ先生に呼ばれては、事情を訊かれる羽目になった。

 とうとう私の番が来た。どうせ怒鳴られるだろう。神妙な面持ちで部屋に入ってみる。ところが先生は、ひどく私を憐れんでいるようだった。その眼差しに怒気はなく、「座りなさい」と言って、少しため息ついてみせる。言われたまま、私が正面に腰掛けると、先生は徐に切り出した。

「先にお前が椅子で殴ったと聞いたが、本当か?」

「はい」

「弁当を捨てられたからか?」

「そうです」

 馬鹿げた問答だった。それ以上でも以下でもない。先生は変わらず、へんに優しい目で私を見ていた。

 ふと、私は気づいてしまった。

「先生は、僕がイジメられているのを知っていましたか?」

 それは訊いてはいけないことだった。

 先生は私の目を真っ直ぐに見たまま、静かに、平然と答えた。

「知らなかった。ただ、最近お前の元気の無いことは気づいていたから、ご両親にも相談しようと思っていたところだ」

 知らないはずはなかった。

 嫌がらせの現場は幾度か見咎められ、彼らも注意を受けていたし、なにより、これまで全く懇ろにやっていた彼らと私がそんなふうになっているのは、傍目にも異様であったばすなのだ。

「……そうですか」

 二、三、何か言い返しても可かったのかもしれない。けれども私は、そう呟いただけだった。大人の助けを期待していなかったのは、なにせ、他でもない私だったのだから。ただ、私の知っている第一原理みたいなもので、大人である先生も何かしらのバランスをとっていて、それで、私を見殺しにすることも辞さなかったのであろうことは察せられた。

「どうしてこんなことになった?」

「僕が悪いんです。彼の宝物を台無しにしたから…」

 そう言いながらも、私は、頬に熱いものが流れているのに気づいていた。先生はますます困り顔で、机に身を乗り出した。

「お前が、何か壊したのか?」

「ヘラクレスを殺しました。僕が、殺したんです」

「……そうか」

 先生は私を叱るわけでも、それ以上何か問い詰めるわけでもなく、そう呟いて席を立った。

 その後のことは取り立てて語るほどでもなく、まあ、妥当に保護者たちが呼び出され、またしても私の両親が平謝りすることになったが、恐らくは我が子らの悪行を承知していたであろう彼らの親も、なんだかバツが悪そうで、執拗に私を責めたてはせず、ここは痛み分け、もう水に流そうと結論した様子だった。

 家へ帰る道々、私は両親にイジメのことを洗いざらい白状した。まだ陽が高く、ちょうど逆光みたくなっていて、辺りを白く照らしていた。話しているうちに、また涙が零れてきて、それを見た両親もまた、洟をすすった。何処かで死に遅れた蜩が鳴いていて、風も生ぬるい。私は滲んだ視界の中で、事の了った安心感に包まれながら、人間の損得勘定に作用する不思議の力学について、解らないながらにも思いを馳せていた。

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