葉山理緒と九重美咲 43

 地下鉄に乗り端っこの座席に腰かけると、どっと疲れが肩にのしかかった気がした。手すり側に寄りかかって目を閉じる。

 ミスをしないように気張っていたせいか、いつも以上に疲れてしまった。その甲斐あったといえるのか目立ったミスはなかったはずだ。

 普段できていることに引っかかるのはそれなりにストレスになる。なるべく早く解消したいのだが、それにはハードルがある。


(……どうしよ)


 内心でうめいて、目を開いてスマートフォンを取り出す。

 倉橋の提案については、とりあえず保留とした。美咲と会うかはちょっと置いておくから、と言って逃げたのだ。美咲に会うのについてきてもらおうか迷ったわけではない。

 倉橋は冗談ではなく、本気で美咲と会う場についてくるつもりだったようだ。さすがにそれは、と辞そうとしたのだが倉橋も譲る気がなさそうだった。

 理緒が傷つきそうになったら守りたい、というのが倉橋の言い分だ。気持ちはありがたいが、素直に提案を受け入れることはいくらなんでもとできなかった。

 美咲とのメッセージ画面を呼び出す。返信はしていないまま、美咲からのメッセージで止まっている。

 倉橋についてきてもらうつもりはないが、話を保留にしたまま美咲に連絡するのも、と躊躇ってしまう。

 こうなると、自分でもどうしたいのかわからない。会いたいのか、会いたくないのか。時によって前者にも後者にも傾く自分のいい加減さに呆れるばかりだ。

 ぐるぐると思考が巡る。一人で考える限界なんだろうが、倉橋の意見はどうしても頷けないものがある。


「……あ」


 いつの間にか最寄り駅に到着していた。慌てて席を立ち、駆けるように地下鉄を降りる。

 ふぅ、と息をつき頭を掻きながら改札へ向かう。無性に酒が欲しくなるが、そういうのがよくないかもな、と他人事のように思う。

 改札を抜けて、いつも通り駅の出口に向かおうとした足がぴたりと止まった。

 視界の端に写ったものが理緒の足を止めた。ほとんど反射的に目を向ける。


「美咲……」

「……はい」


 改札そばの柱のところに立っていた美咲が、気まずそうに会釈をする。

 縫い留められたように足が動かない。美咲は伺うような視線のまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 つばを飲み込み、美咲を見据える。ゆったりとしてスカートが小さく揺れながら歩いて来る美咲に、一気に緊張が高まる。

 美咲が何かをいうより先に、理緒から口を開いた。


「偶然、だね。なんかの用事?」

「えと、はい、まあ……」


 微妙に視線を逸らせて気まずそうにうめく美咲に、予感の確信度が増した。

 まさかと思いつつ訊ねる。


「あたしを待ってた……とか?」

「……はい」


 目を逸らしながら認める美咲に小さくため息を吐く。


「会える保証なんてないでしょ。今日は学校でもないのに」

「ずっと待ってたわけじゃないですよ。近くを通ったので少し待ってみただけです……すみません、気持ち悪いですよね」

「…………」


 なんて返せばいいのかわからず、眉をしかめるだけになってしまう。

 美咲を気遣ったわけではない。少し待ってみた、の少しがどれぐらいかはわからないが、どれだけの時間でも気持ち悪いとはたぶん思わない。というより、心配になってしまう。

 胸の中でなにかがぐるぐる回っているような感覚の中、どうにか口を開く。


「話したいことあるって……スマホで言ってたけど」

「……はい。理緒さんに謝りたくて」

「うん、そっか」

「それと、理緒さんの話を聞きたくて」

「あたしの?」


 小首を傾げて聞き返すと、美咲は胸のあたりでこぶしを握るようにして答えてきた。


「わたしまだ理緒さんのこと全然知らないんです。だから、理緒さんのことをもっと知りたくて……そうしたら、理緒さんがあれだけ怒ったこともわかるんじゃないかと思ったんです」

「あたしがなんで怒ったのかわかんないの?」


 反射的に噛みつくように言ってしまうが、美咲はひるまずに言い返した。


「わかります、けど……完全に理解はできてないと思います。そのためにも、理緒さんと話したかったんです」

「……とりあえず、場所変えようか」


 美咲の言葉を断ち切るように提案する。

 立ち話をするような内容にはならなそうだし……いまさら逃げようとも思わなかった。


 公園に移動するまで、お互いに会話はなかった。

 公園の中では子供たちが砂場で遊んでいる。遊具から少し距離のあるベンチに並んで腰かけるのだが、どちらも話を見失ったかのように何も言えない。

 ややあって、頭を掻いて謝罪を口にした。


「ごめんね、美咲」

「え?」

「連絡返さなかったし、スーパーで会った時は逃げちゃって……」

「い、いや、それはわたしが悪いんですし! むしろわたしの方が……」


 必死に否定した美咲は、膝の上に手を置いてキレイな動作で頭を下げた。


「あの時のこと、本当にごめんなさい。理緒さんのことを考えずに、傷つけることをしました」

「…………」


 美咲の頭を見ながら、発する言葉を探す。許すとも、とりあえず誤魔化して流すようなことも、言うことができない。

 あの時に美咲を追い出して、連絡を拒否したのはほかでもない理緒だ。改めての謝罪に感じたのは、落ち着かない気持ちだった。


「……なんで、やったの」

「なんで、ですか……?」


 目線だけ上げる美咲に仕草で頭を上げるように促すと、美咲はやや不安そうに元の姿勢に戻った。

 美咲の揺れる瞳に、同じ問いを重ねる。


「傷つくことなのに、どうしてしたの?」

「……わからないです」


 美咲らしからぬ揺れる目は、理緒を見ようとして失敗しているかのようだった。口を開いては閉じる、ということを何度か繰り返し、ようやく言葉を発した。


「わたしは、理緒さんが好きです。あの時は好きっていうのがよくわかってなくて、自分の気持ちにそういう意味をつけていいのか迷ってたんです。目を覚ましたら理緒さんの顔が近くにあって、気付いたらキスしてました。自分でもなんでそうしたのか、わからなくて……」


 美咲は端正な顔を苦し気に歪める。


「何も考えてなかったんだと思います。キスして理緒さんがどう思うのかとか、本当に衝動的にしてしまって……わたしもなんでそんなことしちゃったんだってずっと後悔してました」


 あの日の美咲は、確かにひどく動揺していた。なにしろさっさと帰ってしまったぐらいだ。理緒の方が悪いことをしてしまったかと悩みもした。

 何も考えてなかった、というのはどう受け止めればいいのだろう。美咲が意識して理緒を傷つけてやろうとしたわけではない、といっても、美咲がそうしたと思っていたわけでもない。

 美咲の話を聞けば少しはわかると思ったのだが、やはりわからない。ゆあの時のような悲しさではなく、困惑だけが理緒の中に広がっていく。


「本当にごめんなさい……理緒さんを傷つけたくなんかなかったんです。理緒さんが……好きです」

「……うん」


 曖昧に頷いて、理緒も目を泳がせる。

 美咲の話を聞いても、正直よくわからない。わだかまっていたはずの怒りは不思議なぐらい湧いてこなくて、どんな感情を抱けばいいのかもわからない。


「美咲はさ……あたしの寝込みを襲いたかったの?」

「え、襲、えっ!?」


 理緒の問いに美咲は思い切り同様の声を上げて顔を真っ赤にした。ぶんぶんと首を振り長い髪も揺れる。


「ち、違います。そんなえっちなことしようとしたわけじゃなくて……!」

「キスはしたよね?」

「そ、そうですけどそういう意味じゃなくて、本当にただそうしたくなっただけなんですよ」

「……あたしとキスしたかったってこと?」

「え……っと……あの時は、そう、ですね。でもキスしちゃえみたいな感じじゃなくて、気付いたらしちゃってて……」

「余計、ひどいよね」

「……はい」


 小さくなってしおれる美咲に、手を伸ばしかける。美咲に触れる前に自分で気が付いて、慌てて戻した。

 美咲はうつむいた状態で、


「わたし、ちゃんと考えてなかったんだと思います。自分の気持ちも、理緒さんとどう接していくかも、きちんと考えられていませんでした。人を好きになったのは初めてで、ふわふわと浮かれちゃって……キスしたことも我慢も利かずにそんなことしちゃう自分が怖くて」


 美咲がゆっくりと顔を上げる。迷いを帯びている大きな目は、それでも理緒を引き付ける。


「理緒さんとちゃんと話したかったんです。好きだからって勢い任せに行動するだけじゃなくて、理緒さんと話して理緒さんを知って、できることなら隣にいられるようになりたいんです……もう手遅れかもしれないですけど」

「隣にいて、どうしたいの?」


 それこそ考えることなく出てきた質問だった。深く考えることなく、気になったところを口にしただけの。

 それに対する美咲の答えは、理緒の心臓を穿つに十分なものだった。


「理緒さんに笑ってほしいんです」

「……そっか」


 どうにかそれだけを言って、目線を落とす。ベンチの木目だけが見えるまま、重苦しい思いにぎりっと歯を噛んだ。

 複雑な感情の中、内心で一つつぶやく。


(ゆあと同じこと言うんだ)


 呼吸がしづらくなるような錯覚を覚えながら、理緒は深く息を吐いた。

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