葉山理緒と九重美咲 27

 倉橋が酔いつぶれ、介抱して家に帰った日のこと。

 自宅の最寄り駅を降りると、ちょうど香澄と鉢合わせた。


「お、ラッキー」

「ラッキー?」


 怪訝に問い返す。香澄はいつも以上の笑顔で――酔ってるな――うんうんと首を縦に振る。


「理緒の家行こうとしてたからさ」

「だから、来る前に連絡しろっていつも言ってるでしょうが」

「連絡しなくても大体いるじゃん。あれ、そういえばどっか行ってたの?」

「バイトだよ」


 端的に答えると、香澄はそういえばそんなこと言ってたっけと笑った。普段より声がやや高く、家で飲む前にこんなに酔っているのも少し珍しいような気がする。


「結構遅くまでやってんだね」

「あー、いや……」


 頭を掻いてうめく。既に夜も遅くなり始めている時間だが、こうなったのは倉橋を送って介抱していたからだ。

 別に黙っていることでもないので、倉橋のことを話した。今までに倉橋のことを誰かに話したことはない。連絡がとれなくなったこともあったし、中学時代のことはあまり話したいことでもなかった。

 聞き終えた香澄はそっか、と小さく頷いた。


「良かったじゃん」

「うん……そうだね、良かった」


 予想外の再会は、理緒に安堵をもたらしていた。棄てられたとも感じていて、連絡がとれなくなってからはかなり悩んでいたのだ。

 家に着いた。入るなり香澄は持ち込んでいた酒をトートバッグから取り出して並べてみせた。大分酔っているようだが、さらにまだまだ飲むつもりのようだ。理緒と言えば、倉橋を介抱したあれこれで酔いなどとっくに醒めている。

 しょうがないな、と冷蔵庫を開けながら訊ねる。


「なんか食べる?」

「作ってくれるの?」

「めんどい、あるものをなんか出すだけだよ」

「こんな夜に食べたら太っちゃうよー、というわけでちょうだい!」

「はいはい……」


 文脈がめちゃくちゃな要求に苦笑交じりで返事をする。この辺りは酔っていてもいなくても同じような言動をするので、これだけで酔いは判断できないのが面倒なところでもある。

 しかし、割と酔ってはいるようで明るい部屋で見ると顔の赤さは一目瞭然だった。香澄もバイト上がりだそうだが、仕事の都合上酒を飲むので大変そうだ。

 ゆで卵をいくつか作り、ネギを乗せて塩だれをかけたものをつまみとした。簡単だが、まあいいだろう。

 理緒が用意している間に香澄は既に二本目を開けていた。


「早いよ」

「エンジンかかってきたぜ」

「止めろ」


 適当に言いながらつまみをテーブルに並べる。香澄はわあいとあっという間に平らげてしまった。


「ねえもうなくなったよ?」

「あんたねぇ……」


 力なくうめくと、香澄はけらけらと笑い声をあげた。

 笑い声がやむと、香澄はぽつりと誰ともなくつぶやいた。


「楽しいなぁ」

「…………」


 静かなつぶやきだったのに、すとんと理緒の胸の真ん中に落ちてくる言葉だった。

 香澄はいつも楽しそうだ。実際に楽しいとよく口にする。人付き合いも広い香澄だが、いうほど楽しいことばかりではないだろう。仕事も接客業で、経験のない理緒でも簡単なことではないだろうとは想像はできる。それでも香澄は本当に楽しそうにしている。素直にうらやましいと思ってしまう。

 香澄が不思議そうに理緒を見返して小首を傾げた。


「どしたの、変な顔して」

「してない」

「ふうん? あ、そうだねえねえ聞いてよ」

「はいはい、なに?」

「好きな人できたっぽい」

「……ぽい?」


 よくわからなかった語尾の部分に訊き返す。

 香澄はえへぇとだらしなく笑った。


「同じ店の人。すごくかわいくてさ、好きっぽい」

「ぽいってのは、なんなの」


 香澄はんーと考え込むように天井を仰ぐ。ややあって手をポンと打った。


「他の人に感じたことないドキドキがその人からは感じるんだよね。アタシ人を本気で好きになったことってないからよくわかんないんだけど、多分これはそういうことだと思う」

「そっか……良かったね?」

「うん、良かった」

「……その、どうするの?」

「どうするって?」


 きょとんと訊き返す香澄に、ええとと訊き直す。


「その人と、付き合うの?」

「付き合えるかはわかんないけど、できる限りは頑張ってみる。今度二人で飲みに行こうって約束もしたしね」

「……そっか」


 香澄はきっとそうするのだろう。実際に付き合えるかは相手次第なので理緒には何もわからないが、できる限り頑張るといえば香澄は間違いなくそうするはずだ。

 理緒と違って、香澄は迷わずに進めるのだろう。

 出会いこそ色々あり今では仲良くしているが、香澄は本当に良い人だ。幸せになってほしいと思うが、理緒が思うまでもなく香澄は香澄で勝手に幸せになるだろう。香澄は理緒にとって、前に進む人間の代表格だ。

 自分とはまるで違うなと思うことが、自分でも嫌になる。


「アタシが付き合えたら、理緒とダブルデートでもしてみたいな」

「いや、あたしの方は……」

「ん、なんかあった?」

「あー……」


 美咲が家に来た云々も話していなかった。

 理緒の曖昧な応答に、香澄は言葉を促すように見つめてくる。変なときにこういう態度をとってくるやつだ、と内心でつぶやいて、諦めたように息を吐く。

 美咲が家に来たこと、いきなり帰られて連絡をとっていないことを話すと香澄はあっけらかんと訊いてきた。


「なんで連絡してないの?」

「なんでって……しづらいじゃん」

「連絡しないと美咲ちゃんが何を考えてそうしたのかわかんなくない?」

「そう、だけど……」


 言いよどむ理緒に、香澄は心底不思議そうな顔をした。


「このまま連絡なかったら、そのまま終わるよ」

「わかってるよ」

「わかってるのにそうしてるってことは、いいんだね」

「…………」


 香澄の口調は強くない。優しいともいえる苦笑で、理緒に促しているようだ。

 理緒はただ迷っている。そのまま終わるというのは、当たり前の事実を突きつけられただけだ。

 香澄は腕を組んでじとりと理緒を睨むようにした。


「理緒は人のことはともかく、自分のこととなると諦めが早いよね」

「そんなことない」


 反射的に言い返すのだが、力がないのが自分でもわかった。

 諦めが早いという自覚は理緒にはあまりない。が、そう言われるとそうなのかもしれないと思ってもしまう。ということは、理緒のなかにも心当たりがあるということなのか。

 わからない。酒も全然進んでいないままだ。いっそ飲みまくりたかったが、さすがにそれはダメだろうと思いとどまる。

 ふと、香澄と出くわしたことで棚上げになっていたことを思い出した。


「美咲からメッセージ来てて……」

「え、来てるんじゃん。なんだって?」

「まだ読んでない。えっと……」


 スマートフォンを取り出して、美咲からのメッセージを確認する。

 短いメッセージを何度か読み返して、内容を口にする。


「会って、話したいって」


 美咲からのメッセージは非常に簡潔で、『この前はすみませんでした。良かったら会って話をさせてくれませんか?』というものだった。

 どんなメッセージかを想像していたわけではなかったが、このメッセージはいいもの、だろうか。


「会うの?」

「…………」


 香澄の率直な問いに、答えられずに沈黙する。

 美咲の会いたいという言葉を理緒は待っていたのだろうか。それとも、何も来ないことを望んでいたのだろうか。

 自分がどうしたいのかだって、理緒はきちんとわかっていない。こんなだから、どこにも進めないままなのだろう。美咲を誘いはしたが、拒絶の気配を感じると途端に怯んでしまっている。


「会いたい人には会っておかないと、すぐにいなくなっちゃうよ」


 香澄の言葉が、いやに重く耳に入ってきた。

 理緒の人付き合いはとても狭い。紫は煙草を買いに行けば会えるし、香澄は向こうからバンバン絡んでも来る。沙耶は同じ学校だった時とは違って、会う頻度はとても減ってしまっている。社会人になったのでしょうがないとも思っていたが、香澄はしょっちゅう連絡をとっているらしい。

 理緒と言えば、人間関係は受け身ばかりだ。周りに甘えてばっかりでいたことが恥ずかしくなる。


(……違う)


 今はそんな自省なんてしている場合ではない。


『もうちょっと欲張ってもいいのにね』

『自分のこととなると諦めが早いよね』


 親友二人の言葉を思い返す。二人とも理緒のことをよく知っているから出てきた言葉なのだろう。

 この忠告に応えるにはどうすればいいのかはまだわからない。

 ただ、欲張る、諦めない、ということだけを考えるなら。


「あたしは、美咲に会いたい……好きなんだ」

「そっか、いいと思うよ」


 香澄があんまり優しく笑うので、照れ隠しに酒を注いでやった。

 自分一人ではこんな決断もできないのを情けなくも思う。それでも、今はこれで精いっぱいなのだという妙な開き直りもあった。

 会いたいから、会う。

 それが叶うのなら、きっとそうするべきなんだ。

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