第二話
帝国暦一〇二五年、六の月の二十一日。
その日は雷が鳴るほど荒れた天気であった。
暗い部屋の中でオフィーリアを含む家族は一つの寝台を取り囲むように立っていた。その部屋の寝台には、太陽のように笑顔が素敵だったオフィーリアの母、リリー・ガルシアが横たわっていた。リリーの体は冷たく、硬く、人の暖かさは感じられなかった。
その日は、リリー・ガルシアが永遠の眠りについた日だった。
オフィーリアの母であるリリー・ガルシアは現国王の妹であった。彼女は誰にでも分け隔てなく関わり、孤児院や教会、貧困街への支援を、その身が病に侵されても続けた人格者であった。まるで聖母のような彼女の行いを、王家を含め、全ての国民が賞賛し、彼女に敬愛の念を抱いた。彼女は多くの人に愛された人だった。
そんな誰からも愛されたリリーはガルシア家の一人息子であるジェイド・ガルシアと恋に落ち、やがて二人の子供に恵まれ順風満帆な人生であったといえる。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。
リリーはオフィーリアが六歳になる年に、当時原因不明とされた病にかかりその命を落とす。
その病はリリーが亡くなった後でようやく魔物が発する高濃度の毒である瘴気によるものであることがわかり、ミアズマ病と名付けられた。ミアズマ病は瘴気が原因であり、治療不可能とされたが、とある魔術師が長年の研究の末、その特効薬を見つけた。
しかし、これらはすべてリリーが亡くなった後の出来事であり、ガルシア家はそれらの話題を知りながらも、口にすることはなかった。
* * *
オフィーリアは部屋を出て行ったサラの帰りを待ちながら、ふかふかな寝台に身を預ける。暖かい布団の中で母の最後を思い出していた。
オフィーリアにとっては遠い過去、今からすれば近い未来にその命を落とした母の記憶は少しだけ朧げだった。
ただ、冷たく、動かなくなった母の手を触った時、オフィーリアは心のどこかに大きな穴が開いたような気がしたのは覚えている。
そしてその穴は、喪失感は、オフィーリアだけが感じていたものではなかったはずだ。その日から、仲の良かった家族は徐々にバラバラになっていった。
(お母様の存在が、私たち家族を強く結びつけていたんだわ……。今が本当に私の過去であるのなら、私はお母様を救うことができるのかしら。)
横になりながら小さな丸い手を、顔の前で握ったり開いたりする。
(こんな小さな手で、一体何を変えることができるというのかしら。過去に戻ったからといって、私は私のまま…。私にできることなんて、あるわけないのに…。)
ぽすんと両手を下ろして天蓋を見つめる。自分なんかの力でこの先の未来を変えることができるのであれば、変えたい過去は沢山ある。しかし、オフィーリアが運命を変える事を決意して行動を起こすには、オフィーリアの心に諦める気持ちが、運命に抗わない精神が根強く絡みついていた。
(私が過去に戻ってきた意味は、どこにあるのかしら。)
これが現実か夢か、それすらもはっきりしないというのに、オフィーリアが何かすることに意味が生まれると考えられなかった。
もしも、誰かが何かしらの意図を持ってオフィーリアをこの過去に送ったとしても、人選ミスだったのではないかとまで思った。
一人で考えていると、どこまでも後ろ向きに捉えてしまい、そんな自分が余計に嫌になる。
小さい頃はどうだっただろうか。リリーが生きていた頃は、まだ家族が幸せに笑っていた頃のオフィーリアは、どんな子供だっただろうか。
オフィーリアが遠い過去の自分に思いを馳せていた時、ノックの音が部屋に響いた。
「お嬢様、奥様をお連れいたしました。」
サラの声が扉の外から聞こえてくる。オフィーリアは一度考えることをやめて扉の方に目線をやる。
「大丈夫。入ってもらって。」
オフィーリアが掠れた声で返事をするとすぐに扉が開かれた。そして一人の女性がオフィーリアが横になる寝台に駆けてくる。
柔らかいくるくるとしたブロンズの長い髪を揺らし、派手になりすぎないエバーグリーンのドレスを着たその人こそ、オフィーリアの母であるリリー・ガルシアであった。
心配そうな顔でオフィーリアのそばに来ると、そっと壊れやすいものを扱うように優しくオフィーリアの手を取った。
オフィーリアは久しぶりに見る母親の姿をまじまじと見る。オフィーリアの記憶にあるリリーは、青白く、今にもその命の灯火を終わらせてしまいそうな弱々しい姿だった。その姿と見比べると、今のリリーの顔はとても健康そうで、慌てて来たのかほんのりと頬が桃色に染まっていた。今にも息を引き取りそうだったあの時のリリーとは似ても似つかない様子だった。
その手はあの時とは違い、暖かった。
気がつくとオフィーリアは目尻から雫を一粒流していた。先ほどもそうだったが、どうやらこの小さな体ではうまく感情をコントロールすることができないようだった。今までのオフィーリアからでは考えられないほど、いろんな感情が顔を見せる。
一粒の涙を皮切りにぽろぽろと両の目から涙が溢れてくる。
まだ生きている母に、もう忘れてしまったその温もりに触れることができて、オフィーリアは涙を止めることができなかった。
リリーは突然泣き出したオフィーリアを見て一瞬目を見開いたが、すぐにいつものように暖かい笑みを見せた。そして、オフィーリアの頭の近くに腰を下ろすとオフィーリアの頭を優しく撫でる。小さな子供あやすようなその仕草に、いっそう涙が込み上げてくる。
忘れてしまったと思っていたリリーの温もりは、オフィーリアが遠く、深い心の奥底に鍵をかけて見ないようしていただけで、忘れてしまったわけではなかったのだ。
だから、オフィーリアはリリーの手に懐かしさを感じ、その手からリリーの優しさを感じていた。
「フィー、オフィーリア。私のかわいい娘。一体どうしてこんなに涙を流しているのかしら。怖い夢でも見ていたの?」
リリーは泣きじゃくるオフィーリアの頭を繰り返し撫でながら、静かな声でオフィーリアに語りかける。
「でも、もう大丈夫よ。私がそばに居て、フィーが怖いと思う全てのものから守ってあげるわ。」
リリーのでは優しく、温かく、全身の緊張が解けていくようだった。まるでこれまでのことがすべて悪い夢であったようにすら感じられる。
「だから今はゆっくり…何も心配せずに休みなさい。私もお父様も、もちろんあなたのお兄ちゃんだって、フィーが元気になってくれるのを祈っているのよ。」
リリーの手に誘われるようにして眠りがやってくる。だけどオフィーリアにはリリーに話したいことが沢山あった。もう一度、リリーに会うことができたのなら、やりたいことが沢山あった。そんな大事なことですら、オフィーリアは忘れていた。
それらを口に出す前に、オフィーリアの瞼は本人の意思に反して閉じていく。オフィーリアはまだ眠りたくはなかった。今眠ってしまえば、この夢のような奇跡みたいな世界がなくなってしまうのではないかと怖くなったのだ。次に目を覚ました時、またあの冷たい牢獄の中なのではないかと思えたのだ。
「…お母様。」
今にも意識を手放しそうになりながら、リリーに手を伸ばす。リリーの存在をもっとそばで感じたかった。リリーは何かを察したのかオフィーリアの小さな手を自分の手で包み込んだ。
「おやすみ、愛おしい娘よ。」
慈しむようなリリーの声を聞きながら、オフィーリアの意識は深く、暗い闇の底へ落ちていく。
すぅすぅと規則正しい寝息を立てて眠り始めたオフィーリアとそれを優しく見守るリリーのそばにサラは近づく。
「奥様。お嬢様は…。」
「今はゆっくり眠っているわ。きっと悪い夢でも見たのでしょうね。この子がこんな風に体調を崩すことなんてなかったし…きっと大丈夫よ。」
「ですが、お嬢様のご様子は普通ではないと思います。先ほど目が覚めた時も、まるで私がここにいることがありえないかのようなご様子で……。もう一度、治癒師に診てもらってはいかがでしょうか?」
「フィーのことを心配してくれてありがとう、サラ。でも、今はそっとしておきましょう。フィーの心の整理がつくまでは、私たちは見守りましょう。それが良いと、私は思うの。」
サラの心配を汲み取りながらも、リリーはオフィーリアを見守る選択をする。根拠はないが、今はオフィーリア自身が自分の気持ちと向き合い折り合いをつけるしか道がないように思えたのだ。たとえその原因が、悪夢によるものでなかったとしても、オフィーリア自身が乗り越えるほかないのではないかと思えたのだ。
「大丈夫。私たちには精霊の加護がついているわ。」
リリーはそっとオフィーリアの乱れた髪を整える。熱の影響か全体的にしっとりとしているが、その美しさは損なわれていない。
サラは了承の意を示すように、わずかに腰を曲げ、礼の姿勢を取る。
結局、リリーはその日、夜が明けるまでオフィーリアのそばについていた。
* * *
オフィーリアが全快したのはそれから数日経った後だった。
鉛のように重たかった体はとても軽く、今なら走ってどこまででも行けそうなくらいであった。
朝日と共に自然に目が覚める。今も昔も、毎日この時間に目が覚めているため、習慣で起きてしまったのだ。
ペタペタと素足で窓に近づく。遮光カーテンも透かすほど、朝日が差し込んでいるのがわかる。オフィーリアは両手を使ってカーテンを引く。眩しい光がオフィーリアを照らす。
オフィーリアは目を細めて窓の外を見つめる。窓の外では数匹の鳥が自由に空を飛んでいた。
「お嬢様。」
窓の外を見ているとサラが部屋の外から声をかけてきた。オフィーリアは変わらず外を見つめながらサラの入室を許可する。
「もうすっかり良くなられましたね。お嬢様の元気な姿を見れて、私も嬉しく思います。」
水の張った桶と白いタオルを持ってきたサラは寝台の近くにあるテーブルにそれらを置いた。そしてオフィーリアの斜め後ろに控える。
「本日のご朝食は、旦那様たちとご一緒されますか?それとも、本日もこちらに運ばせましょうか?」
手を腰の辺りで組み、オフィーリアに意向を伺う。オフィーリアは姿が見えなくなった鳥のその先を見つめながら答える。
「今日もここで食べるわ。準備をお願いしてもいいかしら。」
オフィーリアの返答にサラは一礼して応える。
「畏まりました。それではそのようにさせていただきますね。」
サラは外を眺めるオフィーリアの手を取りドレッサーの前まで誘導する。テーブルに置いた桶にタオルを浸し、水気がなくなるまで絞る。絞った時、ぱちゃぱちゃと水の跳ねる音が響いた。
サラが水に濡れたタオルをオフィーリアの前に持ってくる。オフィーリアは流れるようにその瞼を閉じる。サラは優しくオフィーリアの顔を拭いた。そして、軽く化粧を施す。サラは白を基調とし、薄い空色の差し色をしたワンピースタイプのドレスをオフィーリアに着せた。
肩につくくらいの輝く銀髪に、サラが選んだドレスはよく映えた。サラの選ぶ服ははずれがなくオフィーリアも気に入っていた。
そして最後に耳の近くにドレスに入っている空色と似た色のリボンをつけて身支度を終わらせる。
コンコン、とオフィーリアの準備が整うのを待っていたかのようにノックされる。サラが扉を開けて外にいる誰かと何かしらのやりとりをする。
オフィーリアは鏡越しにそれを見ながら、自分の容姿を改めて確認する。
過去に戻ってきた今のオフィーリアは今年で四歳を迎える。背丈は未来の自分の半分にも満たなかった。未来では腰付近まで伸ばしていた髪も、肩の近くで綺麗に切り揃えられていた。兄と揃いの髪色は父親譲りのものであった。
小さな紅葉のような両の手は、未来のオフィーリアより遥かに小さく頼りなく感じる。ガルシア家は騎士の家系であるが、オフィーリアの体は女児ということを抜きにしても、全体的に丸く、子供らしい肉付きであった。未来のオフィーリアも、本格的に鍛えていたわけではないが、一通りの武芸は学んでいた。その頃に比べれば、なんとも頼りない体つきをしていた。
この体でこの先何かを成し得るなど、本当にできるのかと疑うほどだった。
オフィーリアは体の調子を整えている間、繰り返し自分が今後どう行動するべきかを考えていた。
何度夜を過ごしても、オフィーリアがあの日に戻ることはなかった。まだ何かしらのタイミングで戻る可能性がないとは言い切れないが、オフィーリアは現状、この過去の世界が今の現実であることを受け入れ始めていた。
それを踏まえた上で、オフィーリアはこれからの自分の行動について考える。
最初こそ、自分の力で変えられるものなんて何もないと思っていた。何をしてもきっと無駄で、きっと運命なんて変えられるわけないと思った。しかし、その考えはリリーに再び会えたことで変わった。
オフィーリアはできることならリリーの死の運命を変えたかった。優しい母を、大好きなリリーを、死ぬことがわかっていながらも何もしないで見ているのは、この先の全てを知っているオフィーリアにはできそうもなかった。
オフィーリア自身には何も力はない。だけど、オフィーリアには未来を生きた知識がある。その知識を使い、なんとかリリーの運命を変えることができないか、足掻いてみたいと思った。
それにリリーの死を回避できれば、今度こそ家族がバラバラになることはないのではないか。あんな寂しい未来を迎えることはないのではないか、と思った。
オフィーリアはもう、諦めたくはなかった。
(そのために今、私にできること、それは…。)
ミアズマ病の特効薬を開発したとされる魔術師ジャレッドに協力を取り付けることだ。
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