シナリオ(No.6)

ユザ

 それはまるで手品師が卓上のグラスに風呂敷を被せて消すマジックのように、終わりかけの夏が通気性のない分厚い雲に覆い隠されていた日の出来事だった。九月下旬。季節は今にも秋を迎えようとしていた。

 シングルベッドと勉強机と五段からなる木目調のタンスしか備わっていない質素な部屋を出て、近くの古書店に向かった。緑色のオーニングの下にはスチールワゴンが二つ並べられており、その中には背表紙を上向きに多くの文庫本が敷き詰められていた。

『1冊50円。7冊300円』

 いつもはその中から掘り出し物を探すことが習慣だったが、この日はそのスチールワゴンをほとんど無視して店の中に入った。滑りの悪い入口の引き戸を後ろ手に閉めると、奥の方から「いらっしゃい」と聞き慣れた声が出迎えてくれた。

 すると、ちょうどその頃になって店の外で雨音が聞こえ始めた。

 間一髪濡れずに済んだという安堵と、帰りどうしようかという不安がほとんど同時に頭の中に思い浮かぶ。傘は持ってきていない。買ったばかりの白いスニーカーを履いてきたのは失敗だったなと少し後悔した。今朝のラジオでは確か、天気は曇りのち晴れで降水確率は20%だと言っていたはずなのに……。

 天気予報はつくづく当てにならない。私は頭の中で財布に入れていた千円札から、帰りにコンビニで調達するであろうビニール傘の500円を差し引いた。とすると結局手元に残るのは500円。消費税も差し引けばきっと500円も残っていないだろう。これではいつもと何ら変わりなくスチールワゴンの中を漁る羽目になってしまう。誕生日くらい好きに本を買わせて欲しい。と、そんなやり場のない気持ちを抱きながら、気休めに平台に積んであった今話題の単行本を手に取っていた。

 昨年デビューしたばかりの新進気鋭の作家でまだその名が全国的に広まっている印象は薄かったが、作品のタイトルはすでに若者の間でも話題になっていた。売れっ子の若手俳優を起用したその実写映画が一週間ほど前に公開となり、今もなお絶賛上映中だったからだ。昨年刊行された作品にもかかわらず他の本とは一線を画すようなほぼ新品同然の価格設定からは、その作品人気が窺えた。

 そういえば今朝も友人からその映画を一緒に観に行こうと誘われてたなと、つい数時間前のことを思い出しては適当な嘘をついてその誘いを断っていたことを今更になって申し訳なく思った。とはいえ、昔から私は誕生日の日に自分以外の誰かと過ごすことに慣れていなかった。祝福されることが決して嫌なわけではないが、仮に誰かから「おめでとう」と直接言われた場合にどんな反応すればいいのかがわからなかった。

 そして結局、毎年繰り返される一人きりの生誕祭は何の変哲もない日常の一部として紛れ込み、後々になって特別振り返ったりすることもなく、いつの間にかその日のことはなかったことのように忘れ去ってしまう。だからきっと今年もそうなってしまうのだろう──とそんな杞憂をわざわざ抱くようなことはなかったのだが、本能的になんとなくそうなることは予想がついていた。

 しかし、その予想はあえなく外れてしまった。

「でも実写化って結局はどれも期待はずれなんだよなあ」という独り言が耳元で聞こえて私はすぐ後ろを振り返った。

 背後から私が手にしていた単行本を覗いていたふくよかな男性と目が合うと、彼はハッとした様子で口を手で押さえ、「ごめんなさいっ。つい心の声が漏れてしまって」と弁明してきた。二重アゴで丸顔の彼はマスコットのようなぽっちゃり体型をしていたが、ニキビのないその肌やしわ一つ見当たらない襟シャツ姿には清潔感があった。

「いえ、私もそう思いますから」と不安そうな彼に向かってかぶりを振ると、彼はわかりやすく安堵の声を漏らした。そのふっくらとした頬が横に広がり、やがて白い歯が垣間見える。普段から人付き合いに関して壁を作りがちな私でも、その柔和な笑みを浮かべている彼は信用のできる人だと直感的にわかった。それは遺伝子レベルで一瞬のうちに電流が全神経を駆け回ったようなビビっとした感覚があった。

「あっ、ちなみに僕は西謙也にしけんやって言います。決して怪しいものではありません」と彼は言った。

 それにつられて私もつい自分の名前を名乗ってしまう。「み、光代みつよって言います」

「ところで光代さんはもう観ましたか?」

「えっ、ああ、この映画ですか?」私は彼が肯くのを確認してから言葉を続けた。「いいえ。実は今朝、その誘いを断ったばかりです」

「じゃあ、実写化された映画は先に原作を読むタイプですか?」

「原作を読んだ後、YouTubeで映画の予告編を観ただけで満足するタイプです」と私は答えた。

「わかります」彼はまたもや穏やかな笑みを作って肯いた。「僕も一度だけ実写化の映画を友人と観に行きましたが、その時に味わった失望感が未だに拭えなくて、それ以来、予告編だけを観るようになりました」

「同じですね」

 私はそう言ってふと入口の方に目を向ける。外はまだ雨が降っていた。そしてその雨脚はさっきよりも強まっているような気がした。

 不意に彼の手元が視界に入る。その手には濡れた傘が一本握られていた。

「今日って降水確率──」と私が口にしようとすると、彼はそれを途中で遮って「20%でしたよねっ」と声を弾ませた。

「でも僕、昔から天気予報士の言葉は政治家のマニュフェストくらい信用してないんですよ」

 私はその言葉につい顔が綻び、「まだ天気予報士の方が信用できますよ」と言った。きっとその時から私は少なからず彼に対して好意を抱いていたのかもしれない。出会ってまだ数分にも満たない間に、波長の合う彼との会話に居心地の良さを感じていた。

「もしよかったら、これから一緒にどうです?」と男性は言った。

「えっ?」

「いや、あの……」彼はそう言ってポケットから財布を取り出し、その中から何やらチケットのようなものを二枚抜いてみせた。「友人から誕生日プレゼントでもらった映画のペアチケットの使い道がなくて困ってるんです」

「誕生日、ですか?」

「あっ、はい。そうなんですよ。今日、実は僕の誕生日なんです」

 その瞬間、私はあるはずのない運命を感じてしまった。

「誕生日なのに一人きりだなんて可哀想に思われてしまうかもしれませんが、これも何かの縁だと思って一緒にどうでしょうか?」

 彼は照れ臭そうにそう言うと、頭の後ろを掻き始めた。

「……はい。是非」

 自然と頭が垂れてしまう。「ああ、いやっ、その……わっ、私も特にこの後予定とかないので」と途端に心拍数が上がったことに焦り、気付けば何かを必死に誤魔化そうとしていた自分に私はハッとした。

「その靴、可愛いですね。よくお似合いです」

 彼は足元に目を落としてそう言った。

「……ありがとうございます」

 つい照れ臭くてしばらく視線が定まらなかった。それでも私は買ったばかりの白いスニーカーを履いてきてやっぱり正解だったなと密かに思い直していた。

「あれっ、雨も気付けば止んじゃってますよ」

 知らぬ間に入口の引き戸まで移動していた彼は中腰で外を覗き、こちらに手招きをしていた。私は手にしていた単行本を元の場所に戻し、彼の後ろに歩み寄って同じように外の様子を覗いた。

「もしかして通り雨だったんですかね?」と私は言う。

「ひょっとしたらそうだったのかもしれません」と彼は肯いた。

「傘、必要なくなっちゃいましたね」

「ほんとですね」

 そう言って微笑む彼の横顔を横目に、私は引き戸越しに空を見上げた。

 ついさっきまで地上を覆っていた空虚で灰色の空にはいつの間にか目を開けていられないほど眩い光が差し、思わず笑みがこぼれてしまうほどに色鮮やかで美しい虹が架かっていた。

 二十一歳の誕生日。おそらく未来の私は何かにつけて今日の日の空を思い出すに違いないと、本能的になんとなくそうなることは確信していた。

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