21.幻想龍の涙滴と姉弟。

“死眼龍”の腕の中で意識を手放し、一切の力を失っているウォル。

「ウォル?」

声をかけてみるが反応は無い。

そこで『視の力』を存分に発揮してその状態を探る。一通り視てみたが、その正確な内容を知ることはできなかった。だが、『死』の名を冠する彼には、それが極限まで深い眠りだと言うことだけは理解することができた。彼女の死はまだ訪れていない。

その場に残ったのは静寂。周囲で見ていた人たちも、衛兵も、そして倒れた赤い龍もピクリとも動かず、ただ何かがこの状況を破るのを待っているようだった。

『【・解・】』

赤橙色の文字が大きく空に浮かぶ。

その文字から淡い光が発されて、この場に広がる思い空気は取り払われていくようだった。

万物を凌駕するその一つの文字シングルスペルはその場一帯にかけられていた文字スペルの呪縛を解く。

その瞬間“死眼龍”は自分本来の力が帰ってきたように感じた。

二つの文字ダブルスペルによるあらゆる龍の能力制限。それがこの首都に降り掛かっていた災厄。古代魔術オールド・ソーサリーに【原初の言葉オリジンズ・スペル】、龍が持つ龍力にその肉体までもがその力を失っている。

その中で錯乱の文字スペルで支配された龍だけが暴れる算段だったのだろう。龍そのもの戦闘能力だけでなく、間接的な感知能力や龍の力が込められた物さえ極度の弱体化を余儀なくされていた。

ウォルを抱えて蹲るディースの横に青のローブの龍が転移してくる。

『【・戻・転・】』

手を振って、横たわる赤い龍を瞬時に転移させ、崩れている街を直していく。その文字の力によって円門の周囲は急速に元の様相を取り戻していった。

「“世界龍”様。」

「デシアス、その少女はデシアス、君が守れ。

 それから、全ての龍を集結させろ。今日の日没より龍議を開く。」

「はっ。」

“死眼龍”の返事を聞いて“世界龍”は頷き、転移して消える。

その場には少女を抱える“死眼龍”だけが残された。



宮殿の尖塔の一番上、針のような部分に片足で立っている“世界龍”。

その周囲には幾重にも輪の形に文字が作り出されている。

一番外側には三つの文字トリプルスペル。二番目の輪には二つの文字ダブルスペル。そして“世界龍”に一番近い輪は一つの文字シングルスペルが数多く作り出されている。今もその輪はゆっくりと旋回してあるじの『実行アクティブ』という命を待っていた。

龍の国エンデアの国土全域を護る【原初の言葉オリジンズ・スペル】。巨大な大陸のほぼ全土を覆うその規模になれば、莫大な神力を用いる。さらにその目的は他の神域存在からの攻撃を防ぐこと。対抗措置としての文字なので、あらゆる攻撃を防ぐためにさまざまな文字を用いる必要があった。本来であれば“世界龍”でも実行しない全土防護だが、この緊急事態に彼は迷わずそれを選択していた。

全ての龍を集める関係で手薄になる国防を彼の力が代行するのだ。

最後に手を振ってその文字を陣として完成させる。それは放射状に宙を散っていった。



龍の国エンデアの宮殿は行政が集う帝政の中心地だが、それは地上表向きの話。

地下には複雑に入り組んだ迷宮のような構造が広がり、さまざまな施設が設置されている。特に裏の活動を行う龍の拠点として機能しており、その殆どが龍にしか入れない場所。二十九評議会の議員などの竜や竜人でも、国の中枢に関わる役職になればその存在には自ずと気づくことになるが、そこは複雑に力が渦巻く不可侵の領域。

そこに入ってしまえば外部からの一切の感知を許さない無法地帯であり、龍以外の存在が居れば問答無用で消されることになる。

幾重にも区域分けされたその地下はこの国で三番目の堅牢さを誇る。

そしてその例に漏れず、『仙天楼の五龍』の集う離れには地下に大きな空間があった。

そこは龍議場。円形のその部屋は龍が全て座れるだけの座席が置かれている。軍議場や二十九評議会よりもこちらの方が人間の国の議会に近い構造をしている。全ての龍が召集された龍議においてはこの場所を議場として用いるのだ。

上と同じ五角形のテーブルを中心に、その周囲を龍達が囲むようにテーブルと椅子が設置されている。


“死眼龍”は少女を自らの執務室に作り出した治癒の術式に横たえ、その天蓋を閉める。

その部屋の扉に鍵をかけ、更にその手前の部屋にも防御と警報の術式を追加で施す。一通りその安全性を確かめてから、術式を閉じて廊下に出る。

地下のその空間から一度昇降機エレベータに乗り、地上の宮殿の廊下までやってきた。目指すは龍議場。

少し歩いて、十八番目の柱の前で立ち止まる。

一見壁に見える廊下のある一部分に龍力を放つと、そこが奥に凹み、併設されているもう一つの廊下が姿を現す。その廊下への隙間に身体を滑り込ませ、再度壁を押して元に戻す。その場所から一番近いかどに、ひっそりと昇降機エレベータがある。

龍議場のある階層に直通のそれに乗り、さらに地下に向かう。

“死眼龍”がその議場の扉を開けた時、大半の龍が既に席についていた。

『仙天楼の五龍』も来ていないのは“世界龍”だけ。

静かな空間に響いた扉の音に、一斉に視線が“死眼龍”の方へ向く。

“死眼龍”が今回の龍議の議題の直接関係者であることは噂として全体に広まっている。その本人の登場にほぼ全龍が目を向けたのだ。

普段であればその視線など気にせずに自分の席に着くのだが、今回“死眼龍”はその視線をわざと合わせ、自身の力を使って相手のその目を逆に見定める。死をも操る眼による解析。本来解析を向けられた者には一定の不快感が伴うが、その黒紫に光る眼は不快感よりも恐怖を龍に想起させる。過去に“死眼龍”が怒りを露わにしたことは無い。だがその眼はその感情を直接感じるには充分だった。

“死眼龍”にしても、他にも操られている龍がいればこの場で見つけ出してやろうという、そうするに足る目的がある。

事態に気づかず即座に救援に行けなかった自分に対する怒り。龍すらも操った敵対する神域存在に対する怒り。大切な存在を傷つけられたやり場の無い怒り。そして、この龍議場で笑顔で歓談する危機感の無い龍達に対する怒り。

その視線を受けて、目の合った龍は少しづつ視線を元に戻した。

彼が静かに憤怒していることを感じ取ったのだ。

不敬となるのはわかっているので、いつもなら絶対にしないが、今回ばかりは五龍である今この場にいない“世界龍”以外の四龍に対してもその眼を向ける。

“祈龍”は“死眼龍”と目が合うとゆっくりと一度頷く。彼の怒りを理解しているようだった。

“白金龍”は彼の方を向いていない。何食わぬ顔で姿勢良く席に座っている。至って平常運転のようだ。

だが、“幻想龍”と“原初”の消沈は大きかった。

前者はウォルが未だ目覚めないことに対する不安と、自身の悔恨。その目尻には赤い跡がうっすらと付いている。それでも気丈に振る舞おうとしているのが明白だった。

後者は今回の最大の犠牲者である“赤煌龍”の記憶を覗いたが為の精神的な痛みからだった。

“原初”は報告を受けてその事実を確認するために“赤煌龍”の過去の記憶を追跡していた。【原初の言葉オリジンズ・スペル】の影響を受けた時期や場所を確認し、あわよくば相手の姿を見ようとしたのだ。だが分かったのは断片的な情報だけ。そして円門での出来事を見た時、文字に飲まれていくその意識を自らのように理解していた。目の前の意識を呼び覚まそうと呼びかける少女に向かって咆哮ブレスを放つその時まで。

いつもの満ち満ちる覇気は無く、より一層その身体が小さく見える。

そのまま“死眼龍”は議場の中心まで歩いて行き、“銀角龍”の横の空いた椅子に座る。彼の席は『仙天楼の五龍』に最も近い輪にある。

「ウォルの様子は?」

「呼吸が戻ってきた。数日間は目覚めぬと思うが、もう少しだ。」

「そうか。ディース、感謝する。お前が居なければ街もウォルもどうなっていたことか。」

「もっと早く違和感に気づくべきだったな。」

二龍は小さな声で言葉を交わす。

ちょうどその時“世界龍”が奥の扉を開けて早足で議場を降りてくる。

「始めよう。」

その声に龍が一斉に起立して一礼。そして着席する。

「オリガ、事の次第を説明してくれるか。」

「ああ。」

そう言って立ち上がったのは“原初”。

「レドルが【原初の言葉オリジンズ・スペル】を受けたのは昨年の今頃。人間の国に視察に行った時に本人の空白期間がある。おそらくそこで文字を仕込まれたのだろう。

 そして今朝、舎の子供を連れて首都にやってきた時に突如影響が表面化する。そのままこころまで呑まれてしまったようじゃ。

 同時に首都に文字が張られたが、それについては後々。

 そのまま龍の形態になって飛ぼうとした時に目の前に例の少女が現れた。その呼びかけには咆哮という最悪の形で答えたが、それ以降は見れなんだ。」

それを聞いて何龍かが怒りでその拳をテーブルに叩きつける。その多くは『仙天楼の五龍』に近い席に座る古い龍達だ。

いつか来ると覚悟していたが、強靭な龍の精神と魂が初めて破られた事態。彼らの頭脳は自らにその事態が起こった時を想定して急速に思考を始める。

「その少女というのは?」

比較的中心から離れた位置に座る龍から質問や声が飛ぶ。

「龍の前に立ち塞がるなど無謀の極み。」

「我ら龍に任せておけばいいものを。」

「他の龍が来るまで待つべきでしたな。」

その声が散見された時、“死眼龍”の中で感情を繋ぎ止めていた糸が切れた。怒号が響く。

「黙れ!!!!

 ならば貴様らは古代魔術オールド・ソーサリーのみでその龍をその場に繋ぎ止めて負傷者をゼロにできるのか!!

 貴様らがその場に向かった時に死者がいないという保証がどこにある!

 確かに貴様らだけで死した者を蘇生できるというのなら言うようにすれば良い。

 だが、希望や憶測で物事を判断し、『仙天楼の五龍』から力を借りて物事を解決しようというのならば、貴様らは龍では無い。人間以下であり、この国に必要な存在では無い!!」

思わずディースはその場に立ち上がってしまっていた。その眼はゆらりと紫の光を帯びる。

『殺してやろうか。』というほどの無言のその眼は軽率な発言をした龍を鋭く睨んでいた。

突如議場に響いたその声に、声を発した龍だけでなく全体が静まり返る。

「…っ、失礼しました。」

息を吸うために大きく深呼吸をしたことで自らの失態に気づき、“死眼龍”は慌ててそう言い座り直す。

だが続けて“世界龍”の口から発されたのは“死眼龍”を肯定する声。

「その通り。実際その少女はそれをやってのけた。

 浅はかな考えで保身だけを考えているお前らにはできるはずがあるまい。

 この国を、国民を守るのが龍なのではなかったか?

 今、言葉を軽々しく口にした者は恥を知れ。」

“世界龍”から漏れる強大な力の圧。古い龍以外の耐性を持たない龍はその身体を縮め、自らの龍力で相殺しようとする。だが龍力如きで“世界龍”の圧を受け切れる訳がない。

必死に圧が下がるまで耐えるしかないのだ。

「そのような新星が生まれたことは喜ばしい。

 だが、我が直子じきし・実の子供はその程度とは嘆かわしい。」

“原初”から漏れたその言葉に更に複数の龍が項垂れる。

「失礼、その少女というのは“幻想龍”様、“銀角龍”様、“死眼龍”様からの連名で『魔術師マスター・オブ・ソーサリー』に推薦のあった娘ですかな?」

それを問うたのは“数賢龍”。

「いかにも。」

“銀角龍”のその肯定に再びどよめきが起こる。

「授与式でその娘を見るがいい。お前達が見習い敬うべきこの国の英傑だ。」

“世界龍”がそう言い放った。


続く議題は今回の事件の事実と今後の対応について。

「おそらく人間の国の主神級神域存在の仕業だ。今回首都に張られたものもそうだろう。

 ご丁寧に【原初の言葉オリジンズ・スペル】による大陸間爆撃・・・・・を決められた。

 これに関しては私が既に対応済み。全て二つの文字ダブルスペルによるものだ。」

“世界龍”が解析したところによると、首都を覆った龍弱体化の文字は“赤煌龍”に付随したものでは無く、全く同時に人間の国から撃ち込まれたものだった。弱体化の文字を飛行の文字で飛ばし、大洋を超えてこの首都に着弾ならぬ着文字させたのだ。

その技術からもその神域存在が大きな力を持つということがわかる。

攻撃は全て二つの文字ダブルスペルだったので、一つの文字シングルスペルを使うかどうかは不明だが、この世界で二つの文字ダブルスペルを多用出来る神域存在となればほぼ最高位に位置すると考えていい。

レドル赤煌龍の状態はいかがです?私が診たほうがいいですかな?」

“祈龍”からの問いかけ。

「それについては私から。」

そう言って一呼吸をし、“死眼龍”が立ち上がる。

「緊急時につき、レドルに対して『死眼』を用いて【原初の言葉オリジンズ・スペル】の消去を行いました。

 こころまで影響を及ぼしていたものを無理矢理消したので、今“赤煌龍”は昏睡状態です。“魂醒龍”と“聖鐘龍”、それに“癒龍”の力によって安定はしています。」

「そうか、では一度私が診ることにしよう。」

原初の言葉オリジンズ・スペル】の中でも強制力が著しい二つの文字ダブルスペルを容易く使うことが出来る龍は『仙天楼の五龍】の中でも“世界龍”と“白金龍”だけ。それを聞けば今回の件がいかに複雑で対応に困るものだったかが分かるだろう。言い換えれば、どこかの主神級に近い神域存在が直接・・攻撃をしてきているということ。

いかに龍といえども強力な【原初の言葉オリジンズ・スペル】の下で自由に行動することはできないのだ。

その点で言えば駆けつけた龍が“死眼龍”であったのは僥倖。『仙天楼の五龍』に次ぐ龍の中でも最高峰の力を持つ六龍 ー “銀角龍”、“死眼龍”、“炎轟龍”、“魂醒龍”、“恒永龍”、“月浪龍” ー は自らの神力を用いて【原初の言葉オリジンズ・スペル】に影響を与え得る力を持つ。

“死眼龍”は『死眼』を用いて二つの文字ダブルスペル以下の殆どの文字を無効化する殺す力を有していた。その代償としてそれを使用すれば眼を失う。そしてその眼は自らの力で治療ができないという条件もあった。

「警戒せよ。この国に略せんとする手が迫っている。

 龍といえど今回のようにその駒に成り下がる危険性もある。

 短期的に“世界龍”様、私、そして“祈龍”と会って自らの異常を放置するな。」

“白金龍”が警鐘を鳴らす。

「これで龍議を閉じる。」

その“世界龍”の宣言で一斉に龍達が動き出す。その多くは国防のために各地の持ち場に帰っていく者たちだ。


“死眼龍”が“銀角龍”と話をしていると、複数の龍がその元にやってくる。

「“死眼龍”様、先程の身勝手な発言をお許しください。」

ウォルのことを『無謀』だと言った龍が謝罪に来たのだ。

「良い、これを教訓に自らを高めよ。ここにすぐに身を動かせたのは褒めてやろう。」

「はっ。ありがとうございます。」

「ああ、ウォルに謝罪しようとは思うなよ?彼女に向けるべきは謝罪ではなく称賛だ。」

この後の龍の行動を見透かすように“死眼龍”が念を押す。

深く頭を下げて去っていく龍達。

「デシアス、私もウォルの元に行っても良いかな。」

そう声をかけてきたのは“世界龍”。その後ろに“幻想龍”、そして“原初”もいる。

「はい、ご案内します。」

そこにホールンも加わって昇降機エレベータに乗る。

「デシアス、その眼はどうしたのだ?」

「ウォルが気を失う直前で回復の術式を。」

「そうであったか…。」

そこから一行は終始無言だった。

向かっているのは宮殿の一角。“死眼龍”の執務室だ。

半廊下を歩き、三度角を折れる。二度階段を登り降りし、たどり着いたのは黒い扉の前。両脇には鎌を持った像が安置されている。

ここから先は“死眼龍”の領域。その力の全てを使って侵入防止の結界が幾重にも張られている。『仙天楼の五龍』と言えど無断で踏み込めば怪我をするだけでは済まないだろう。それほどまでにここの守りは強力なのだ。

その二つの像が首を動かしてディースの後ろを歩く龍達を見る。

「私の客だ。」

その一言に像は首を戻して元の姿勢になる。それと同時に扉がゆっくりと開いた。

まず目の前に広がるのは絨毯と本棚。広い部屋の真ん中にぽつんと無機質な椅子と机が置いてある。

だがディースはそれを素通りし、その奥の扉を開けた。

大きな窓がひとつ。

窓の外は小さな箱庭になっていて、数本の木と花が咲いている。

一体そんな場所、この宮殿のどこにあると予想すればいいのだろうか。地下深くのこの場所まで壁や天井がぶち抜きで取り外され、光を取り込む構造になっている。

そしてその窓の前に天蓋のついたベッドがある。全てが黒い物体で作られ、黒い布で覆われたそれはディースの力の動きに合わせてゆっくりと形を変えている。

『“死避の臥榻イモータル・スランバー”』

“死眼龍”の持つ数少ない永続回復術式に、自らの権能を組み合わせ、さらに【原初の言葉オリジンズ・スペル】を付与している。そこに眠る生命を限りなく死から遠ざける力があった。

回復や治療を目的とするものとしては数段劣るこの術式は、『死の回避』という一点において無類の力を発揮した。

今回のウォルの症状は肉体的な怪我や病でも、精神や魂の損傷でもない。自らの持ちうる力を全て使い果たしたが為の極度の衰弱。確かに龍の咆哮ブレスを受けているので、少なからず魂への影響も見込まれるが、ディースはその眼でそちらは急速に回復していたことを見てとった。


その黒いベッドに半竜人族の少女は横たわっている。

ゆっくりと胸が上下しているので、眠っていることが確認できる。組まれた腕には銀色の腕輪ブレスレットが光り、少女の呼吸に合わせてその輝きを変えていた。

一番最後に入ってきた“幻想龍”がその寝顔を見て思わず泣き崩れる。

その少女を起こしてしまわぬように、慌てて腕で口を押さえて啜り泣く。“銀角龍”がそれを支えて近くの椅子に座らせた。

ディースはその枕元に立ち、その寝顔に視線を落とす。近くで見れば、その少女の右の髪がバッサリと無くなっているのがわかる。その毛先は炎で縮れたようになっており、龍の咆哮が原因だということを間接的に物語っている。

“世界龍”が部屋の隅に重ねられていた椅子を力を使って動かし、全員の近くに移動させた。

その椅子に座って片眼鏡を外し、服の端で汚れを拭く。

「怪我は治っているのかな。」

「はい、右肩を抉られた状態だったようですが本人の術式と私のこれで完治したようです。

 他にも神経系が焼き切れていたのと、眼や鼻に出血の跡がありましたが、そちらも現在は回復しています。」

いつになく小声で話すディース。

「イリアルに付き添われて来たあの少女が、これほどの間に国を救うとは。

 その才と勇気を讃えねばならんな。」

“原初”がそう言って椅子の一つに腰を下ろす。

誰も声を発さぬまま時間が過ぎていった。

窓から差す光の色が変わり、部屋の明かりがつく。

その窓から光が届かなくなってもまだ沈黙は続いていた。その静寂を破り再び動き出したのは“世界龍”。

「レドルの方にはアズウェ“白金龍”ジクセン“祈龍”が向かっているが、私もそちらに顔を出すことにしよう。

 デシアス、ウォルが起きたらこれを渡してくれないか。」

そう言ってベッドに近づき、その手で瞬時に創り出したのはスカーフとラペルピン。

スカーフはとても薄い水色に淡い黄色の模様が入っているもの。その少女の髪色によく合うだろう。

ラペルピン ー 正装ローブの胸元につける飾り。鎖状や棒状のものがある。 ー は二つの小さなチェーンと宝石が飾りの金属で繋がれたもの。

「私からの今回のささやかなお礼だ。」

ディースはそれを受け取って枕元にあった小さなテーブルに置く。

「私からもお願いしようかの。」

そう言って“原初”もディースに預け物をする。

水滴の意匠が施されたベルトストラップだ。二龍からの贈り物はどちらも正装ローブに合わせたアクセサリだった。

「ああ、それから。

 これは『魔術師マスター・オブ・ソーサリー』の受領祝いだ。」

ポケットから小さな箱を取り出して渡してくる“世界龍”。

「これは…?」

「私の眼鏡の替えスペアだ。デシアスから『視の力』を学んだと聞いてな。

 本人の持つ神力を見る力と合わせて使いこなせるだろう。」

それを見て驚くのは“原初”やホールン。“世界龍”の片眼鏡と言えば彼自身が作り出したもので、おそらくどんな魔術具や【原初の言葉オリジンズ・スペル】を付与した物よりも強い力を持つ。更には彼がその手で作り出した物を下賜するということは、ウォルのことを相当気に入っているか将来に大きな期待をしている証拠。

「また来る。」

「儂もこの娘が目を覚ました時に再度来ることにしよう。」

そう言って二龍は連れ立って部屋を出ていく。

残ったのは椅子に座る“幻想龍”とその横に立つ“銀角龍”。

ステアも泣き疲れてしまったのか座ったまま寝てしまっていた。ホールンがタオルケットを作り出して肩から掛ける。

起きている二龍ふたりは小声で話す。

「まさか半竜人族の少女が龍の前に立つとは思うまい。」

「ああ、完全に相手の虚をついたのだな。

 もしやこれが今回の唯一の特異点だったかもな。」

今回攻撃を加えてきた神域存在は龍だけが自らの脅威になると考えたようで、竜や竜人の力を制限する文字を使わなかった。なのでウォルが古代魔術オールド・ソーサリーを用いて“赤煌龍”を抑え込むことができたのだ。

「この存在が知られたら命を狙われるぞ。」

そうホールンがウォルに目をやりながら言う。

“世界龍”の力によって国の防御が強化された今、敵の神域存在がこの結果を確認することは不可能。だがもしなんらかの形でこの顛末を知ったなら、ウォルのことを最優先で排除しようとするに違いない。

「問題ない。今の私ならこの眼で主神級でも殺せそうだ。」

「無茶をするなよ。」

「ああ、心得ている。」

そこでホールンはディースの顳顬こめかみに赤黒い模様があることに気づく。ここまでディースを間近で見る時がなかったので気づかなかったのだ。

「どうしたんだ?」

それを指差しながら聞いてみると、ディースもキョトンとした顔をする。

「まさか気づいていないのか?」

そう言ってホールンはその場で金属を作り出し、鏡に成形する。

それで初めてそれを見たディースは赤黒い何かが模様を作っているのが分かった。指で擦っても落ちる気配はなく、しっかりと肌に刻まれているようだ。

ディースが思い出したのは、落下するウォルを抱えた時に彼女がここに触れながら回復の術式を使ったことだけ。そしてその手は抉れた肩から流れ出た血で濡れていた。

そのことから、あの時のウォルの手に付いていた血がこうなったのだと確信する。

「血紋か。私が守っていると思ったが、私も守られていたのだな。」

そう言いながら未だ小さな寝息を立てる少女を見るディース。

眠る前、最後の力を使ってディースの眼を治した時のその血が力の干渉を受けてディースに紋様として定着していた。

血紋。一生消えぬ生命いのちの守り。それが出来るのは運や想い、さまざまな要素が絡み合う。それを付けた術者の願いが反映されて、さまざまな効果を持つことで知られている。それはディースがこの肉体を失って死ぬ時まで永遠に続く強力な守り。

古代魔術オールド・ソーサリーや【原初の言葉オリジンズ・スペル】とはまた違う力や原理で働くそれは、どのような状況下でもディースのみに対して効果を発揮する。

ウォルが残した血紋の効果は完全治癒。意図せずしてディースの死眼を補完するものとなった。

「私も何か…そうですねぇ。」

ホールンは突如腕だけ龍化させ、その中でも大きな鱗を一枚選んで引き抜いた。その引き抜いたところには即座に新しい鱗が生成される。

それを手に乗せて幾つかの金属と混ぜて液体化させる。ホールンの手から流れ出した銀の水はウォルの腕で輝く腕輪ブレスレットを覆っていく。全体を覆ったところで硬化し、ひとまわり大きな腕輪ブレスレットになった。

「私もこれで失礼するよ。ステアは私が連れて行こう。」

そう言ったホールンは両手で椅子に眠るステアを抱き上げ、そのまま金属を支えにして背負う。

「ありがとう。」

「ああ、またウォルが目覚めたら連絡をくれ。」

ディースが押さえる扉をくぐり、ホールンとステアは黒の部屋を去っていった。


その夜、眠り続けるその少女を守るように、その側で小さな明かりを灯して本を読む龍がいた。その頁をめぐるシュッという音だけが定期的に響く。

ウォルを残して拠点に帰るのではなく、この宮殿に泊まることにしたのだ。

他にまだ明かりがついているのは“銀角龍”の執務室と五角卓のある離れだけ。

“銀角龍”は審判官ジャッジメンタという立場として、急に降り掛かった難題に頭を抱えていた。

原初の言葉オリジンズ・スペル】に飲まれて我を失いこの国と国民に力を向けてしまった“赤煌龍”の処分に、被害を受けた店や住居の所有者への補償。その具体的な内容を決めるのだ。目の前にある沢山の紙にはどれほどの裁定を書き込むべきか。

離れでは“世界龍”と“原初”の話し合いが行われていた。龍が操られたことで『龍』という種族の根底意識に干渉されたのではないかという仮説の下、検証を行っていたのだ。

神霊種族である龍は【原初の言葉オリジンズ・スペル】に対してある程度の耐性と仮に操られたとしても自力でそれを克服する術を内包している。だが一年もの間それが観測されなかったのは異常。その原因を探るべく二龍の議論はより深く重くなっていく。

ゆっくりと龍の国の夜が深けていく。

前代未聞の大事件があったその日の夜は、やけに静かだった。

まるでゆっくりと迫る国家存亡の危機を示すかのように。

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