第一話
一句思い浮かんだ。『お節介 焼いても食えぬ 絵描き餅』
「……確かに私の家に空き巣が入ったようですが、空き家なのでお帰りいただいて大丈夫ですよ」
うららかな春の陽気で満ち始めた朝の六時。
ほどよく澄んだ青空の下、一一〇番を受けて重たい装備品をガシャガシャ言わせながら何とか駆け付けた一軒家で、私は被害者らしい老人男性に開口一番こう言われた。
「ほら、こんな若い女の子のお巡りさんが来てくれたんですよ? 最近は空き家に居つく泥棒もいるみたいだし、ちょっと見てもらったほうがいいんじゃないんですか?」
そう食い下がっているのは一一〇番通報をした近所のおばさんだった。
「いえ、本当にいいんですよ。お気になさらず。良くあることなので」
「良くあるんならなおさらじゃないですか。私の近所でも最近空き家で色々問題が起きてて――」
「本当にもう大丈夫ですから」
「あなたが良くてもこのあたりの方々が迷惑するんですよ!」
ついに言い合いになってしまった。
東京だったら無視されそうな状況だけれど、東京に近い千葉県
そう思ったいたらさっきの一句が出たの。
違う、そうじゃない。ダメだ。当直のラストで頭が回っていない。
現着の打ち返しもしなくちゃいけないし、ペアの先輩を呼ばないと私じゃ対応できない事案なのに、目の前の言い争いの内容が平和だな――と思っていたら。
「もう、お巡りさんも困ってるじゃないですか! 私が代わりに見てきてあげますから!」
「あっ、ちょっ……!」
止めようとしたけれどもう遅かった。
他人の家に入り込むおばさん。止めようともしないご老人。入られてしまった私。
そして数分後。
駆けつけてきたお巡りさんが事態を収めて必要な手続きをした後――私は怒られた。
制服姿のポニーテールをした美人のお姉さんが私を睨み付けながら、一気にまくし立ててくる。
「勝手に入られたのは分かったわよ。だからって、あんたまで一緒になって入らなくも良かったの。外から呼ぶとかあったでしょ? 管内で未解決の連続空き巣と今回のが同一犯で、あんたの靴跡でそいつのゲソ痕が消えてたらと思うと……あー、もう! これ絶対副署長に怒られるヤツじゃない。どうしてくれんの!」
女のお巡りさんは激怒していた。空き巣に入った
「は、はい……その、すいません」
「すいませんじゃないわよ、もう。この一年、何のためにあたしが教えたのか……。警察は分業で、あたしたち交番は初動対応がメイン、後に引き継ぐ人たちのことを考えて行動する必要があるって何度も言ったでしょ?」
そう言って盛大なため息をついたのは、
先輩と言っても巡査部長だから私より階級が二つ上になるから上司だし、縦社会だし、この一年間一緒にいて自分にも他人にも厳しい人だと知っているから逆らっちゃいけない。
「もうすぐ当直終わりで明日非番だからって気を抜いたんじゃないの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
美緒先輩が詰めてきた。怖い。
「まあまあ、加瀬さん。前にいた
聞き覚えのない優しい声で援護射撃される。
誰だろうと振り向いたら、短髪細マッチョのイケメンさんがダークスーツ姿で微笑んでいた。
「あ、
この春に本部から異動でやってきた牛嶋警部補だった。刑事課盗犯係の係長さんだ。
「お前はいつも余計なことばかりするよな。警察学校の頃から全然成長してない」
今度は聞き覚えのあるトゲトゲしい声で切りつけられた。
牛嶋係長とは正反対の坊主頭デカマッチョ。威圧感ありまくりのグレースーツは自由業一年生にしか見えない。
「
同期の柔道一直線男子。なぜだか私にばかり絡んでくる。
「どっちが偉いもないだろ。お前の顔見に来るほど暇じゃないんだよ……事案重なって係長と一緒になったんだ。足手まといにならねえようにしてたのに、余計なことしやがって……」
すると牛嶋係長がその糸目でにっこり微笑んだ。
「慣れない場所だから七五三くんにはたくさん助けられているし、足手まといだなんて思ったことはないですよ。さあ、早いところ現場を見ちゃいましょう。香取さん、加瀬さんには被害者をお願いできますか?」
さすが係長だ。さっと場を取りまとめて次に進めてくれた。
鑑識係の人たちと一緒に牛嶋係長と七五三が家に入っていく。私と美緒先輩は、ぼんやりと待っている被害者のご老人に寄っていった。
細いし小柄なせいかリュックが異様に大きく見える。重たいものでも入っているのかパンパンだった。
美緒先輩が頭を下げる。慌てて私も会釈した。
「
すると鈴木さんは手を振って止めてくださいと苦笑いする。
「お姉さん、あまり怒らないであげてください。通りすがりの方は善意で通報してくれただけで、あれこれ話をして混乱させてしまったし、きちんと止めなかった私も悪かったのですから」
お姉さん? その言葉にピクリと眉を上げる美緒先輩。
「あれ? よく見たら同い年ぐらいに見えますね。もしかしてご
「え? あたしそんな風に見えますぅ?」
あ、美緒先輩の声が一オクターブ高くなった。
「二十代前半ですか? いや、お仕事もこなれているから二十五歳ぐらいかな? ああ、すいません。女性に年の話なんて」
「いえいえ、いいんですよお。実はこれでも三十二でぇ」
「なんと! お肌が透き通るように綺麗だったもので。ああ、これもルッキズムに当たるのかな。まあ、私の個人的な主観としてお二人が美人さんだなと」
誉められ相撲、はっけよいのこった! 鈴木さんの誉め張り手をノーガードのまま恍惚とした顔で受け止める美緒先輩。
そのまま押し出された美緒先輩の顔は、誉められすぎてお肌もツヤツヤ、唇ぷるん、引いた眉の下でおめめもぱっちり開いた満面の笑みに変わっていた。
「ああ、すいません。また話が逸れてしまって……ええと、何でしたっけ?」
私としてはついでに美人扱いされた件で待ったをかけたかったけれど、鈴木さんは怒れる女性警察官を宥めてくれたので不問とする。
「鈴木さん、本当にうまいんですからぁ。嬉しいな。ほら、
この鈴木さんは何者なんだろう。元ホストか何か? それにしては服もぴしっとしているし姿勢もいい。
「えっとそれでは……」
「いや、すみませんね。明日非番の方をお騒がせしてしまって。二年目ぐらいですか? 配属は地域課? 公務員さんは大変ですよね」
「え? あ、はい。おっしゃる通り地域課の二年目で昨日も未決をさばくのにいっぱいいっぱいで……って逆です、逆。私が鈴木さんにお話を聞かないといけないんです」
「そうでしたねえ。あっはっは」
調子狂うなあ。
「こほん。気を取り直して……先ほどもお伺いしましたが、改めて直前の状況をお聞かせください。鈴木さんが家の手入れをしに来た時にはガラス窓が破られてたんですよね? 何回か巡回でお伺いしたのですが、まだ一度もお会いしたことがなくて……」
「ええ、そうなんですよ。ここは私の親の家なんですが、もう十年ぐらい前に他界して空き家のメンテナンスをしているだけでして」
「お住まいは別にお持ちなんですね?」
「ええ。そっちに住んで二十年でしょうか。今さら市川に戻ってくるのもアレですし、そろそろ売ろうかなんて言っていたところだったんですよ。なので定期的に手入れだけはしている状態でして」
「お掃除に来たら窓ガラスが割れていて、近所の方が通報してくれたんですよね。もう一度お聞きしますが、盗まれた物はありませんでしたか?」
「いやいや。お巡りさんにもご覧いただいたように、あそこは水道だけ通してある状態で、置いてあるのは押入の布団一式だけでそれらも無事でした。きっと偶然、飛んできた物が当たって壊れたとかそういうことだと思うんです」
「ですが、割れた窓の下に風で飛ばなさそうな石もありましたし、やっぱり被害届を──」
「あっはっは。ですから、大丈夫ですよ。窓ガラスぐらい直しますし、被害届は出しません」
やっぱり。どうして被害届を出さないのかな? お金もかからないし、犯人が見つかれば弁償されることもあるのに。
ちらりと美緒先輩を見ると、聞いてみなと目で返された。変な理由じゃないといいな。そう思っていると──、
「不審に思われていますね? 何も隠してはいませんよ。現に鑑識の方が入られているぐらいですし。別に犯罪者に寛容というわけでもありません。正直なところ……面倒なのです」
「面倒、ですか?」
「私の家は
なるほど、それは大変だと思う。でも私は違うキーワードに引っかかってしまった。
「古民家と武家屋敷、ですか? 佐倉市って千葉県の北の方にある……?」
「ちょっ、菜花。そうじゃ……」
「おや? ご存じない?」美緒先輩のツッコミを遮るように、鈴木さんの目がキラリと光った。「チーバくんで言うと目尻のあたりにある割と大きな市なんですよ?」
チーバくん。千葉県を模した赤い犬のマスコットだ。
千葉県警のイベントには必ず出てくるゆるキャラで、県や自治体のペーパーにもだいたい登場する、千葉県民で知らない人はいないあの子のこと。
「お巡りさん……もしや千葉都民ですね?」
ああ、ついにバレてしまった。警察学校でずっと言われ続けていた代名詞。
「え、ええ……実は私、東京育ちで高校二年生の時にこの
すると大丈夫ですよと鈴木さんが笑顔を浮かべた。
「いやいや、責めているわけではありません。そうなるともうそこから東に行く理由もありませんからね。でも……お名前が香取さんなのに珍しいなと」
「どういうことでしょうか?」
「香取という苗字は
どこから出したのか佐倉市のロードマップを広げると、そこから鈴木無双が始まった。
佐倉市は名前が似ている桜を市の木にしているとか春には佐倉駅が桜駅になるなんてネタから、江戸時代は幕府の重要な人物がやってくる佐倉藩の下で栄えた土地で、今では佐倉丼なるB級グルメがおいしい、国立歴史民俗博物館なる日本人のルーツを辿れるような施設もあって噛めば噛むほど味が出るスルメのような土地だと。
私に広げさせた地図を指さしながら身振り手振り、まるでご当地テレビの名物リポーターばりの話っぷりに、最初は呆れていた美緒先輩も聞き入ってしまうぐらいだった。
結局鈴木さんの被害届を出さない意志は変えられず、鑑識作業で汚れたり壊れたりしていないか確認してもらってそのまま帰ってもらった。
狐につままれるとはこのことかな。
まあいいや。これでお仕事終わり。
意気揚々と私たちのベースである行徳駅前交番に戻ると、そこらへんのおじさん二人──じゃなくて、次の番の
ダメだ。いつまでたっても二人の顔を覚えられない。上司と大先輩なのに。
「どうだった? 面倒あったかな?」
佐々野所長が目尻に笑い皺を浮かべて聞いてくる。美緒先輩がやられたと声を上げた。
「……知ってましたね? 所長……」
「あはは。いや、一応牛嶋係長には伝えたんだよ。あの鈴木さんは私の同期が知っていてね。佐倉市でずっと教師をされている方で、大変生徒思いな教育者で有名だったんだ。時には市の教育委員会と喧嘩するほどのね。生徒や親御さんからのほとんどは好意的に見られていたけど、それが嫌いな生徒もいたらしいけど」
「ということは……お礼参りですか?」
「そこまで荒らされていなかったんだよね? 可能性はないと思うけど……去年と一昨年もやられてた可能性があるから否定はできないかな」
「三年連続ですか? 毎年春に?」
「私が現認したわけじゃないけどね。今回割られたガラスの見た目が去年も一昨年も違っていただけだから。きっと悪戯か何かだろうね。いずれにしても事案にならないなら予定通り二人は上がりで大丈夫だよ」
「それじゃ失礼します」
「お疲れさまでした」
帰り支度を始めると、佐々野所長と佐藤さんがパトロールへとでかけていった。
「今日も平和でありますように」
そのかけ声みたいなセリフで自転車を漕いでいく二人のおじさんの背中が、何となく愛らしい。
私と美緒先輩も朝の十時前で人も車も動き出した街を自転車で走り抜けていく。駅前交番からJR
すぐ近くにある寮のワンルームに帰ってティシャツとホットパンツに着替えて寝ころぶ。ここ最近なかった定時上がりで明日は非番。まだお昼前だから休みが二日あるようなものじゃない?
これ以上ない条件なのに──何だろう、このモヤモヤした感じ。大事じゃないけれど何か胸騒ぎがするヤツ。
よし。寝て忘れちゃおう。そしてさっぱりした頭で非番を楽しもう。
少し遅い朝ご飯を食べてお腹いっぱいのままお昼寝をして夕方に起きる。うん。最高。
さあ、何をしよう。といっても特にやりたいこともなかった。いいのか、
そんなことを考えながらうだうだとスマホでニュース動画を流している時、インターフォンが鳴った。
『タイミング 悪いベルは いつも姉』──ただの勘。だけど、きっと当たっているはず。
恐る恐るドアを開けると、やっぱりさっき姉と呼ばれてデレデレしていた美緒先輩がいた。ジーンズにシャツのラフな格好がまた美人だ。
「こ……こんばんは。どうしました?」
「やだ、そんな構えないでよ。大丈夫。朝の件でお説教しに来たわけじゃないから。いつも通り晩ご飯食べに来ただけ。ほら、今日はあんたの分もあるから」
「ありがとうございます……」
「んじゃ」
美緒先輩はずかずかと私の部屋に上がり込んでクッションの上にお尻を乗せると、コンビニのレジ袋からチキン竜田弁当に唐揚げと焼き鳥という、思春期の男子でももうちょっと緑色を入れるんじゃないかという真っ茶色なご飯を食べ始めた。
ガーリックの匂いが漂ってくる。あ、カップの芋焼酎も飲み始めた。
今日は長っ尻確定だ。帰ったら換気しようと心に決めて、一緒に出してくれたのり弁とお茶をいただく。
「それにしてもさあ、変なおじさんだったよねえ? 三回も窓ガラス割られてんのに被害届出さないなんて。……うん、おいしい」
「そうですよね。明日売りに出すんでしょうか? だとしたらなおさら相手を見つけないと売れないんじゃ? って思いましたけど……」
「あの言い回しも変よね……うん、唐揚げうまい……明日売れるんだとしたらもう売りに出してるってことでしょ? ……ずずず、あー、おいしい」
喋るか食べるか飲むかのどれかにしてほしい。
こんな性格と食欲なのに、そのボディラインとつやつやお肌の小顔美人は反則だと思う。
天が二物を与えちゃった。神様、私にも一物ぐらい欲しかったです。
「それにしても三年連続とかもはや執念よね。こういう仕事してると人の嫌な面ばっかり見るけど、それにしても異質というか不気味というか」
それは確かに私も思った。
つきまとい、嫌がらせ、執念。黒い感情を持つ人が暗闇に乗じて何かしているその後ろ姿を見ていたら、ふと振り返られて真っ白な白目の中に浮かぶ感情のない黒目を見てしまったような、そんな怖さがあった。
ふと何かが脳裏をよぎった。そうだ。今朝見た夢。そしていつも見る夢。
あれは誰なんだろう。
「まあ、大した話でもないと思うけどね。気のいいおじさんだったし」
「そうですよね。佐倉市? ってとこの観光名所をまるでガイドの人みたいに語ってましたし。あれ面白かったですね」
「佐倉のあのへんって観光スポットよね。
「香取市由来と言われても場所すら分からないぐらいですから。成田に空港があるのと、警察学校のあった
「まあ、そうよね。あたしは
「大網白里市って九十九里浜があるところでしたっけ?」
「そうよ。山への憧れが強い海の民なの」
「思い出しました。美緒先輩のあだ名、白里のマーメイドでしたっけ?」
「そうよ。毎日海で泳いでて、県大会じゃトップだったからね。そんな田舎娘だったから、行徳とかもう大都会のレベルだったもん。日本で一番人種の多い街だっけ? 千葉駅前なんてここが日本の首都だと勘違いしそうだったし。まあ、そういう変な思い込みをしないよう、ご当地の知識を深めるのも仕事の役には立つんじゃないかな。行ってみる? 佐倉」
思わずハイ! と言いかけた言葉を急いで飲み込んだ。
正直なところ、行ってみたかった。城下町で武家屋敷と古民家があって、市の木が桜ならちょうど今が見頃だろうし、すごく癒されそうな気しかしない。
癒される? そうだ、私は癒されたかったんだ。
高校二年生の終わりになって親の都合で千葉へ転校するはめになり、それまでの友達ともなかなか会えないまま満喫なんかできなかった女子高生の日々。
そして特に意気込みも夢もなくなんとなくで入った警察学校では、地獄とまではいかないけれどそこそこ大変でそこそこきつかった軟禁生活を過ごしてさらに友達を減らしてしまった。
いざこの市川南西警察署に配属となってからは仕事漬けの日々で、せっかく知り合えた同期たちとも連絡が取りにくくなってモヤモヤが募る日々。
唯一の同期である七五三はうざいしペアになった美緒先輩からしごかれ、今日みたいに休みの時間もつきまとわれる半同棲みたいな生活。
ガサツ系女子なのに美女だから異様にモテるし、だけど後輩だからアレコレしないといけないし。一緒に行動したら癒されるどころか神経使い過ぎで死んじゃいそう。
死因は先輩成分大量摂取で気遣い過多。間違いない。
「い、いやー……確かに楽しそうでしたけど、行くのはいいやって思っちゃいました。動画とかで充分かなって」
「えー、そうなの? 桜は見頃だし、スポット二十か所ぐらい回ってさあ。いいオトコいるかもよ? あー、出会いてぇ。あたしだけでも行ってくるかな。いいオトコいないかなー。あたしだけを見てくれて、年収はほどほどだけど子供思いで周りに気を使える、キャンプとか料理の得意なイケメン社長」
ほら、理想の男性像すら合わない。しかも年収そこそこでいいはずなのに社長とか設定もとっちらかってるし。ティーンズラブものの読み過ぎじゃないですか?
でも美緒先輩はモテるしマンガみたいな展開とかよくあるんだろうなあ。イケメン社長に言い寄られたことの二度三度あってもおかしくない。だからそういう発想になるのかなあ。
モヤモヤ。あー、モヤモヤ。頭の中に煙幕が立ち込める。
「げふぅ。あー、おいしかった。ごちそうさま。そいじゃ帰るね。分かってると思うけど明後日は日勤だから遅刻しないようにね。んじゃおやすみー」
そういって美人がげっぷをして帰っていった。にんにくの残り香とコンビニ弁当のガラを残して。
私にまとわりつき過ぎじゃないですか? 私が新任だから放っておけないの? でも一年は経ったし他の同期の子からは似たような話を聞かないし。
「あー、癒されたい」
部屋を掃除しながら呟いた。洗濯しようとリュックに詰め込んだワイシャツを出すと、何かの紙が落ちる。
それは佐倉市の地図だった。鈴木さんがそれはもう情感たっぷりに説明した後、私に押し付けるようにくれたものだった。
ふつふつ。私の中のマントルに抑えられていたマグマがゆっくりと昇ってくる。
「旅したい……」
喉を通って小さな噴火が口から噴き出した。
「佐倉市に行ってみたい……!」
中噴火。もう止まらない。
「一人散歩したい! 武家屋敷で妄想したい! 古民家カフェとかでのんびりしたい! 歴史を感じたい! 新しい発見をしたい! 知らない土地でリフレッシュしたいぃぃ……!」
ボルケーノ。ありったけの希望が噴火して私の部屋いっぱいに飛び散っていった。
そうだ。私は旅行がしたい。初めての旅行に行きたい。
小さい頃は旅行にそれほど興味がなかった。というよりどこか一抹の不安みたいなものがずっとついて回っていて、高校の卒業旅行も馴染みのない子たちと一緒だったのもあって楽しめなかったし、怖い気持ちのほうが強くて考えることすらしてこなかった。
親から教えてもらったけれど、小さい頃にどこかで迷子になったのがきっかけなんだと思う。
でも、今。私は猛烈に旅がしたかった。
鈴木さんの佐倉市の話にあてられたのがきっかけだけど、千葉県民で千葉県の警察官なのに何一つ知らないのがコンプレックスだった。
それを克服したくなったのと、迷子になったトラウマを乗り越えたかったから。
これをきっかけに旅行へのモヤモヤを払拭できたら、もっと色んなところへ行けるし人生楽しめる気もする。
まずは一人旅。うん、そうよね。
誰にも気兼ねなく何をするにも気を使わず好き勝手に行動して、千葉をしかと見聞しながら旅行を楽しみたい。
明日だ。明日やる。これは私の決意表明。
そう決めたら何だか楽しくなってきた。そもそも旅行って遊ぶことだし、「遊」って字の語源は野山に出かけて花とかを摘みながらご飯を食べる、季節を感じるピクニックのことだからね。
人として間違っていない。
うん。予定を立てよう。だけど何から手をつけたらいいかも分からない。
そうだ。もらった佐倉市の地図を見ながら調べてみよう。
というわけで、私は高校生の時に買ってもらったノートパソコンを引っ張り出して、佐倉市について調べ始めた。
闖入者防止用にカーテンを引いて明かりも落とした真っ暗な部屋の中で、光るディスプレイの明かりを前に前かがみになりながら検索してはメモをしていく。
親のパソコンでエロいワードを調べまくったあの日を思い出した。
ふっ。今の私はひと味違う。仕事に疲れ果てて癒しを求める大人の女なのよ。
まずは概要を知ろう。Wikipediaから攻めてみる。鈴木さんの言うとおり佐倉市はチーバくんの目尻のあたりにある自治体で、人口は約十六万人を抱える東京と成田のベッドタウンとして栄えている街らしい。
温暖な気候と主な産業が稲作という情報を元に地図を見ると、北に
目前に広がる街と田園がいい具合にミックスされた、典型的な郊外の雰囲気が分かった。
武家屋敷や古民家は日本遺産にもなっているらしいし、医科大学として有名な順天堂大学発祥の地らしく「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれたほどの医学の街という意外さもいい。
「もう行く。絶対」
でも、いくつか難問もあった。勘の鋭い美緒先輩を避けて一人旅に出かけられるか、そして行ったことを黙っておけるか。
じゃあ止める? それも嫌。いっそ行った気になって満足する?
「妄想……そっか」
私のアイデンティティがあったじゃない。シミュレーションしよう。いわば妄想の旅ね。
明日の旅行をしっかりとイメージしておけば不測の事態にも対応できるはず。
「燃えてきた……!」
中学生の頃に心の師匠と出会って鍛えられた妄想力を発揮する。
私はさらに調べまくった。朝から夕方までの約十時間で何ができるのか。
美緒先輩は二十か所派いけると豪語していた。怖い。でも私は違う。
移動時間や待ち時間、旅路のちょっとしたふれあいや街角の光景すらも余すとこなく楽しむプロセス派の私としては、二か所ぐらいの名勝を回るぐらいがちょうどいい。
まとめサイトやキュレーションサイトに左右されない、私だけの旅を創る。
せっかくだから、鈴木さんからもらった佐倉市の地図にそれをアウトプットしていった。
どこを通って何をするのか。マーカーでルートを引き、可愛くて買ったマンガの吹き出しみたいな付箋にメモを書き込んでは貼っていく。
一時間ぐらいで完成した地図を眺めた。
うん、上出来。あとはシミュレーションという名の妄想をするだけ。
いざ妄想旅へ出発!
「……あれ?」
おかしいな。中学生の頃は今ぐらいのテンションでダイブできたのに。
ふっ。やはり私は大人になったということだね。
違う。このままじゃシミュレーションできない。どうしよう。
そうだ。今の気持ちを言語化したらうまくいくんじゃないの?
私にとって妄想とは何か? 知的遊戯の一つ。それは純粋に楽しいこと。脳内麻薬がぶわっと吐き出される、悦楽の瞬間。
「……トリップ!」
ぶわっ。目を閉じて呟くと、少し体が浮いたような感覚になった。これこれ、この感じ。
そうして私は妄想の中の私の部屋に降り立った。
そう。旅行は現地から始まるわけじゃない。いつだってこの六畳ワンルームの部屋からなの。
いけない。素っ裸だった。服はどうしよう? ジャージ上下の装備で行けるのは徒歩五分のコンビニまでだし、いつもみたいなパーカーとジーンズじゃ色気がなさすぎる。
普段は着ないし着る機会もない勢いで買った白いワンピースとかどうかな? 淡いベージュのカーディガンを合わせてみる。
小さめのリュックにお財布とスマホにハンカチぐらいを入れてちょこんと背負いながら部屋を出てみた。
うん。完全にバカンスだ。きっと雲一つない青空。心地よいそよ風が頬を撫でるの。
いざ出発。
「菜花? どこ行くの? まさか一人旅? あたしも一緒に行く!」
はいゲームオーバー。美緒先輩に見つかってしまった。やり直し。
今度はこそっと部屋から出てみる。
「菜花? どこ行くの? デートでしょ!! あたしが相手をチェックしてあげるから行こ!」
ブブー。また見つかった! ってかどこまでお節介なの!
妄想の中ですら美緒先輩に付きまとわれる私。あんなトロフィー派の急先鋒みたいな人と一緒にお出かけしたら全てが台無しになってしまう。
ワンピースは少しはしゃぎすぎた。やっぱりいつもの格好で行こう。
パーカーとジーンズに普段使いのリュックだったらどうなる……?
「あ、コンビニ? 行ってらー」
よし、回避できた。ほんのちょっぴり後ろめたさを感じつつ、寮の最寄りにある東京メトロ
文字通り東京を東西に横断しているこの路線。
いつもは
シルバーに青のラインが入った東西線の車両に乗り込んだ。
地下鉄なのにこのあたりは地上区間を走っているから、市川市を東西に分断している
晴天の元、何艘も浮かぶボートや河原で遊ぶファミリーたちを見て和むはず。
そんな景色を横目に西船橋駅に着くと、今度は黄色い
ここからはもう私的には未知の世界。逆に妄想が捗っちゃう。
千葉県内では
駅と
ご当地ものよりも都心で売っていそうなスイーツに心惹かれつつ、地元の手作り和菓子の可愛さとかにわくわくしちゃう。
でも大丈夫。通りすがりの駅員さん――きっと二十代後半で制服の似合うほっそりイケメンに道を聞いて、徒歩五、六分のあたりにある
そして京成本線に乗った私は、京成佐倉駅へ十一駅、約三十分の道のりを楽しむ。
普段から電車に乗らない私だから、それはもう楽しいはず。何が見えるんだろう? ストリートビューで探したり航空写真で眺めるのもいいけれど、ここはやっぱり地図で妄想しよう。
警察学校の教官に地元の地理ぐらい覚えておけと言われて買ったロードマップを引っ張り出してきて開いた。
船橋から
最初はビルや商業施設を脇目に通りを歩く色んな人たちを、まるで私だけの映画のように車窓から眺める。
そして郊外へ行くにつれて見えてくるのは、そこに広がる田んぼや林、森という緑と大小様々な民家にその暮らしを想像しつつ、ちらりと見える小川のそのほとりを歩く高校生のカップルに目を細めながら、旅行感を高めていくの。
そうして気分が盛り上がってきたあたりで京成佐倉駅に到着する。
そこは本当に最低限の設備しかない駅みたい。潔くていいよねとか思いながら改札を出ると、もう本当に知らない街だった。
すぐ隣にある佐倉駅前交番をちらりと横目に心の中でお疲れ様ですと告げると、初めての土地というトリップ感に酔いしれながら変なテンションでまず向かったのは、駅前の小さなロータリーを越えてすぐのところにある佐倉市観光協会の建物だった。
まずは情報収集。ちょっとしたお土産にパンフレットとかが置いてあって、私みたいな何となくプランのある人には細かい情報を、ノープランな観光客にはおすすめルートを懇切丁寧に教えてくれるお姉さま方がいらっしゃるはず。
カップルや熟年のご夫婦に交じって私もカウンターでアドバイスをもらう。
「ここからぐるっと佐倉城址公園や武家屋敷を見て回ってJR佐倉駅をゴールにしようと思ってるんですが、見どころとか教えてもらっていいですか?」
「それでしたら、途中にある国立歴史民俗博物館は日本の文化を紹介していて知的好奇心を満たせますし、中のレストランでは佐倉のB級グルメでお腹も満たせますよ。城址公園の天守閣や中の史跡も楽しいですし、最後に武家屋敷とひよどり坂の写真をお土産に帰る、というのはいかがでしょう?」
そんな感じで、私より一回り年上ぐらいの綺麗なお姉さまに微笑まれながら地図とパフレットを見ながらする雑談が、旅に来た私をこの土地が受け入れてくれたような気持ちになって、心地よいまま観光を始めるの。
そうして成田街道という国道をのんびりふらふら歩く。
春の風を感じつつ草と太陽の香りで自然を満喫しながら、十数分歩いて左に見えてくるのが
日本の歴史と文化について、先史時代から古代、中世、近世、近代、現代と紹介しているらしい。
ここが楽しそうなのは、よくある歴史上の著名人だけにフォーカスを当てたようなものじゃなくて、全般的な情報を扱っていること。
その当時の庶民の暮らしや文化がどんなものだったかを教えてくれる。それって何が楽しいの? 推し武将とかが出てこないしつまんなくない? そう言われるかもしれない。
でもね、その当時の人々の生活が分かるということは、例えばあなたの推し武将がその時代にどう暮らしていたかが分かるということ。
日々の生活がイメージできるの。
知識が増えるということは妄想のディテールが細かくなるということ。それはつまり推し武将のことをより深く理解できるし、要は妄想がより捗るってこと。
知れば知るほど燃料が増える。自家発電。永久機関。そう、妄想は物理法則ですら破れるの。
私には推し武将はいないけれど、妄想は好きだから長居すると思う。一つ一つじっくり見て五時間ぐらいかな? 足りない気もする。
もちろん途中でお腹がすくので、館内のレストランにある佐倉丼をいただく。これについては絶対に下調べしないで臨む所存。
初めて出会ったそのファーストインプレッションすらも味わいたいから。
地元の人や観光客の人で賑わうお店の片隅でゆっくりご飯をいただき、身も心もリフレッシュした後にまた博物館に戻ってひたすら知識を貪る。
見たもの読んだものを咀嚼し、飲み込み、時には反芻したり。ここは知的好奇心のビュッフェ。
それにこれは私のお仕事にも役に立つはず。警察官の相手は人間で、日本の文化を知ることは日本人を知ることだから。
巡査としてちょっぴりスキルアップしたはずの私は、国立歴史民俗博物館のすぐ西にある佐倉城址公園へと向かった。
地図によるとこの博物館も城址公園の中の施設だったみたい。
西には
ここで男の人たちが刃を合わせて激しく戦い、そして散っていったかと思うと悲しい気持ちになると同時に、彼らがここで守っていた家族や子供たちのことにも思いを巡らせて、胸の奥底が熱くなった。
だって私たちはそういう風にして生き残ってきた人たちの子孫だから。
彼らが流していったその血を受け継いで今のこの世にいるの。そこには歴史の表舞台には出てこない無数のドラマがあったはず。
ちょっとしんみりしちゃった。気持ちを切り替えていこう。
それ以外にも気になるワードがあった。
一つは夫婦モッコク。モッコク? モッコク……うん、ごめん。
しんみりした後でどうしようもないし、男子中学生かよと言われてもハイそうですとしか返せないけれど――何だかエロいな、このワード。
何だろう。夫婦でモッコク。
これは調べても妄想度は減らないしむしろ増えるんじゃないかと思って佐倉市の公式サイトで見てみたら、それは意外なことに木だった。
モッコクという種類の樹木らしい。しかも千葉県指定の天然記念物だとかで、高さが十メートルもあるそう。
そこでページを閉じた。何で「夫婦」と名付けられたのかまで知っちゃいけない。
二本あるからなんだろうけど、なぜ二本になったのか、どうして夫婦と呼ばれるのかを想像するのが楽しいから。
いっぱいあった中から二本だけが残ったのならもうそれは運命だし、それが寄り添っているのか、それともちょっと距離があるのかで、ずっと仲良し夫婦だったのか色々あったけれど寄り添えているのか妄想が捗るでしょう?
入りがエロだっただけにひたすら申し訳ない気持ちになった。
次のワードは「子規の
あの
彼の一番有名な俳句『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』を中学生の国語の授業で聞いた時、最初、私は「そのままじゃん!」と笑い飛ばした。だって、柿を食べたら法隆寺の鐘が鳴ったよ。へえ、そうなんだ。で終わる話だと思ったから。
でも、その時の先生が教えてくれたの。まあ、待て待てお前ら。笑うのもいいが、ちょっと目を閉じてその情景を思い浮かべながら、もう一度読み返してみろ。さー、目を瞑れ。
いいか? 柿の季語は秋。秋の涼しげなひんやりとした空気感を思い出せ。
お前らは目の前にそびえる
そんな景色を見ながら柿を一口齧る。すると法隆寺の鐘が鳴るんだ。耳に残る音が、そのまま澄んだ秋の青空へと吸い込まれるようにして消えていく。
──柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。
どうだ? 見えたか? 秋を感じたか? 先生が言った。
みんなぽかんとしていたけれど、ぽつりぽつりと手が上がっていく。そして──私もそっと挙手した。
たった十七語の言葉だけで、私は一瞬にして法隆寺の境内に行き柿を食べながら秋をその肌で感じとることができたの。
そのことに私は猛烈に感動した。それから俳句にハマり、その根本にある想像力に気づけたのはまた別の話。
子規先生。私は立派な妄想女子になりましたよ。むしろ妄想力のおかげで何とか生きています。
警察官として、社会人として、女子として、妄想は危険予測、リスクヘッジにも役立ちました。本当にありがとうございます。
それはさておき。
子規先生がこの佐倉に来て何て詠んだんだろう。それはこの目で見て確かめないといけない。彼が詠んだ句と目前に広がる景色を重ね合わせてその言葉一つ一つに思いを馳せたい。
さて最後のワード。本命はこっち。
「姥が池」――姥は年を取った女性、つまりお婆ちゃん。池はそのままだから、お婆ちゃんの池ということになる。
どういうこと? これだって調べてしまえば終わりだと思ったものの、何だか不穏な予感がした私は好奇心に抗えず検索してしまった。
出てきたのは心霊とか伝説のワードが散りばめられたページたち。オカルト界隈の話らしい。そういうサイトにはアクセスすらしたくない。だって怖いから。
高い妄想力と相性が悪いのは怪談やオカルトなの。映像なら大丈夫なことが多いけれど、文章で怖い話をされると想像力が悪さをして本編より怖いことを考えてしまうから。
だけど現地でそんな思いをしたくないので予習しておこう。と言うことで、またしても佐倉市の公式サイトで探してみると――あった。
佐倉城が現存していた頃、まだ赤ちゃんだった若君を連れた乳母がその池へと散歩に向かい、岸から少し離れた場所に生える美しい水草を取ってあげようと手を伸ばしたところ、二人もろとも池に落ちてしまい乳母だけが助かってしまったという。
若君は亡骸すらも浮かんでこない。取り返しのつかない過ちを犯したと、乳母はその罪を自分の命をもって贖うためまた池に身を投げた。
その後、その池に「うばこいしいか」と聞くと水底から泡が湧き上がって水草の周りに消えていった――。
そんな伝説から姥が池という名前になったらしい。そこまで怖い話じゃなくて良かった。
ほっと安心したせいか違うページを開くと、面白い情報が掲載されているのを見つけた。
佐倉藩主の家臣が江戸時代に書いた「
江戸時代の頃の姥が池は鮒がたくさんいて、毎年春になると遠く離れた場所から数千匹のカエルが池にやってきて産卵していたそう。
集まったカエルたちが池の周りを囲んでパートナーを求める鳴き声が響き渡り、それがあたかも「カエルが両軍に分かれて嫁取り合戦をしている」ようだったという。
昼夜七日にわたるその合戦は、現代で言えば東京ドームに集まった婚活パーティー参加者の男性たち数万人が、中央にいる女性たちを取り合って大声を上げているようなものだと思ったら笑ってしまった。
男女平等、ジェンダーフリーが叫ばれる世の中。色んな愛の形があるけれど、いつだって恋は追う者と追われる者に分かれるのは定め。
逃げていく女性を追いかける男性、そんな女性に振り回される男性。そんなラブコメは未来永劫続くんだなと思っただけで、何かちょっと地球の未来は明るいとか思ってしまった。
きっと由来を示す看板があってそれを眺めながら妄想に耽っていると、私と同じように佇んでいる人もいて、その中には二十代ぐらいの男性もいるはず。
私が思わず呟いた「東京ドーム」に反応してクスッと笑う彼。そうしたら私も「え?」ってなって一緒に笑うの。まさか同じイメージが?
これが少女マンガだったら、それをきっかけに少し話をして興奮した私が何かに躓いて池に落ちそうになったのを彼に抱き留めてもらって一きゅん。
そして次の観光スポットで再会して二きゅん。
さらに帰ろうと駅に向かったけれどお財布が見つからなくてわたわたしているところにまた彼が現れて、
「これ、落としてましたよ。間に合って良かったです」
「あっ、それ私のお財布です! ありがとうございます! 一日に何度も助けていただいて……ご迷惑かけっぱなしですみません」
わざわざ届けてくれたってことは、この人もしかして──。
「あーっ。すいませぇん、うちのコがご迷惑おかけしてぇ!」
えっ、誰っ? 振り向くと美緒先輩がいた。
イケメンさんが差し出したお財布を私にスルーパスすると、彼にすすすっと寄っていって色目を使う。
そのイケメン、私のなのに! ってかいつのまについてきたの!? 怖!
朝、玄関で撒いたはずなのに。私の妄想なのに。やり直し!
イケメンだからダメだったんだ。私好みのガッチリめのヤサメンでルックス問わずだったらどう来る?
「これ、落としてましたよ。間に合って良かったです」
「あーっ、すいませぇん」
ダメだ。私より先に超反応して美緒先輩が寄っていっちゃう。
あの人のストライクゾーンについて知らなかったのがここに来て致命傷になるなんて。
まさか妄想の中でもイケメンを諦めないといけないの!? そんなのイヤ。
イケメンレベルは落とせない。それだったら……!
「これ、落としてましたよ。間に合って良かったです」
「ありがとうございます! あなたは子規先生の句碑のところでお会いした方……もしかして俳句を?」
「ええ、そうなんです。まだまだ素人ですが。
あっ、美緒先輩が出てきた! 視界の隅に現れたけれど──そっと去っていく。
勝った。イケメンゲット! でもこの流れだと相手はイケメンはイケメンでもロマンスグレーな年齢かもしれない。
まあいいや。私だって一瞬でもいいから男の人にちやほやされたいの。
「そうだったんですね。私も実は──」
子規先生の話から、自分の俳句がどこそこに採用されたみたいな話で盛り上がったりして、ひとしきり話をした私が思い出したように頭を下げる。
「本当に助かりました。いい人と同じコースで観光できて良かったです」
「あはは。でもちょっと違うかもしれません。あなたが気になって目で追いかけてたのもあったから、みたいな」
そんなことを言われてきゅん死する私。
でも美緒先輩みたいにがっつける性格でもないから、そのまま「どこかで再会できたらいいな」と星に願うようにして別れるの。
うん、これでいい。まるで私が主人公になった少女マンガの第一話だ。
イケメンとの交流を味わえただけでも大収穫でしょう。そこから芽生える恋なんて、それこそ小説が一冊書けるぐらいの妄想力をチャージできる。
よし、妄想を旅行に戻そう。
次は天守閣だったところを観光して若君と姫様の同衾シーンなんかを軽くつまみ食いしながら、一路南東へ向かって歩いていく。
ここはもう、ただただ目を癒す場所。
両脇に天高くそびえる竹林の中にある小道で、あたり一面が竹の放つ緑に染まるその光景は、日々の仕事で疲れ、違反切符を切った相手と先輩からの心ない言葉で蝕まれた心を癒せるはず。
あえて撮影はしない。この光景を目に焼き付けるの。そして目を閉じて思いを馳せる。
武家屋敷から佐倉城へ
その中では、挨拶や何気ない会話、時には捕り物や事件なんかもあったと思う。
そんな人々の有象無象を見守ってきた竹林を背景に、タイムラプスの映像みたいに流れていくその光景がもう愛おしかった。
過去から連綿と紡がれてきた命が、江戸時代のこの道を行き交う人々に繋がり、そこからさらに命を重ねて四百年後の私が見ている。
笑われてもいい。でも私はそういう狭い空間を、壮大な時間の流れで見るのが何より好きだった。
自分が世界と繋がっている。そんなことを再認識できるから。
「ありがとう」
きっと現地を訪れた時に言うはずの言葉を呟いて、存分にリフレッシュした私は本命の武家屋敷へ向かった。
江戸時代の佐倉藩藩士が実際に暮らしていたという三棟の武家屋敷を一軒ずつ訪ねていく。時代劇とかで見る生活をこの目で見られるのはかなり貴重だと思った。
でも私はそのさらに向こう側を覗く。壮大な妄想の後だから、ちょっとだけ遊んでみたくなった。
そこでの私は城下町の町娘で、ここのお武家様のお宅に奉公している少女。当主は藩の偉い人だし嫡男の人も口を利ける立場じゃないから、きっと三男坊とかと仲良くなっているの。
同い年とかで気心知れあった仲だから、顔を合わせれば冗談を交わしあい、時には憎まれ口をきくような関係で年を重ねてきたのに、ある日突然やってきた私の縁談で微妙な空気が生まれてしまい、実はお互いに好きあっていた同士だったことが分かったけれど、私の相手は三男坊のお父さんと敵対する人物の息子で、ロミオとジュリエットみたいに──みたいな妄想。
一軒ごとに違うシチュエーションでも妄想するから、トータル一時間は余裕で使うはず。
妄想力を補充してお肌と心をツヤツヤにしつつ、彫刻通りという謎のストリートを通ってJR佐倉駅へとたどり着いた私は、満喫した思いを胸に寮へと帰っていった。
ふっと車内を見ると、姥が池で視線を交わした彼が乗っている。慌てて周りを見渡したけれど、お邪魔虫はいなかった。
そうして彼を見つめていると、ふとした瞬間に目線が合ってお互いに微笑むの。
帰りの路線まで彼と丸かぶりだった私は、彼がどこの住人なのか、次もまた会えるのかとやきもきしながら行徳駅で降りて、一日を締めくくる。
そう。これが一番素敵でふんわりロマンティックな終わり方。
「……ウェイクアップ!」
私は現実世界に舞い戻ってきた。
ノートパソコンの時計を見ると二時間しか経っていない。私的にはトリップ時間にして丸一日の日帰り旅行を満喫したのに。
そんなことはどうでもいい。本当に楽しかった。
地図と数ページのウェブサイトだけをネタに、映画一本分ぐらいの時間を過ごせるのはさすが私といったところで、何てお手軽なコスパ最強の趣味なんだろうとは思ったものの、それは何より佐倉という街が楽しかったからだと思う。
国立歴史民俗博物館は知的好奇心を刺激してくれるし、佐倉城趾公園では気分転換の散策で心をリフレッシュ、姥が池や武家屋敷にひよどり坂では過去の出来事に思いを馳せながら過去と現在を行き来して、まるでタイムスリップしている気分になった。
旅の途中で出会った彼とはふわっとした形で別れたのもポイントが高い。これでまたどこかで再会したら、運命の相手だって言い張れるでしょ?
春というパステルカラーの季節にはぴったりの、爽やかだけど風に乗ってなびく桜の花のような淡さを持った出会い方が何よりいい。
これがこの季節の色なの。
春は出会いと恋の季節。
春よ来い、早く来い。いや、もう来てるし。毎年やってくるし。
「そう、毎年やってくるこの季節……」
こんなに楽しかったことなんて久しぶり。明日は絶対、佐倉に行こう。そしてあのイケメンとリアルで出会うんだ。
こんなに楽しみで寝られるかしら? そう思っていたら呆気なく寝てしまった。社会人って怖い。これが年を取るってことなの?
まあいいや。今は午前七時。
楽しい気持ちのままシミュレーションの結果を実行したい。歯を磨いて顔を洗って着替える。
服装はもちろん、脱出成功したグレーのパーカーにジーンズ。リュックも仕事用のヤツを中身だけ入れ替えて背負った。
これで美緒先輩に捕まることはないはず。早く行かないと。でも足が動かなかった。
美緒先輩、たまにうちの物音を聞いて押し込み強盗みたいに部屋に入ってくるよな──って思ったら、何かモヤっとした。
「毎年春にやってくる空き巣……」
気持ちを切り替えたはずなのに。事案としては終わった話なのに。
姥が池のあたりだったかな? 生まれた小さな引っかかりがずっと気になっていた。
毎年春に集まるカエルたち。彼ら、彼女らはそこが出会いの場だと知っていてやってくる。
じゃあ空き巣はなぜ毎年鈴木さんの家にやってきてガラスを割るの?
もぬけの殻だってことは三年前に分かっていたはず。だとしたら、狙いは毎年春にやってくる鈴木さんになる。
本人は「明日で終わり」みたいなことを言っていた。
『毎春の 出会いと別れ ワンナイト』──分かっちゃった!
思いついた私は玄関のドアを開けると、すぐ隣の部屋に行こうとして──、
「あ、おはよ。ちょうど菜花を起こそうと思ってたのよ。朝食がてら散歩でも、って」
目的の美緒先輩と鉢合わせた。
ジーンズに白のニット姿が今日も美人だ。
「わ、私も美緒先輩に用事があったんです。昨日の空き巣の鈴木さん、あの人もしかしたら……」
「え? あ、うん。そう。菜花も気づいたんだ? ちょうど良かったわ。連絡もしてあるのよ。所長にも話は通してあるし、一緒に行きましょ」
「え? あ、はい……?」
どこへ? と思ったら鈴木さんの空き家だった。こんな朝早くに行ってもいないのでは?
行徳駅へと向かうサラリーマンの流れに乗って向かってみると――そこには大きなリュックを背負った鈴木さんが一人佇んでいた。
「鈴木さん、大丈夫ですか? 怪我していませんか?」
思わず駆け寄ってしまった。でも鈴木さんは無事で服が破れたり血を流してもいない。
逆に私を見てぽかんとしていた。
「えっと……加瀬さん、どういうことでしょうか?」
「いえ、その……あたしも分かっていませんで。……菜花、何も聞かないでついてきたからてっきり分かってたと思ってたんだけど……何を想像してたの?」
「……あれ?」
おかしいな。何かみんな食い違っている? いや、私だけ?
「その……私、考えたんです。鈴木さんは生徒さん思いで、きっと人との距離が近いしお喋りも上手だからこの空き家のことも話したんだろうな、って。それを聞いた悪い生徒が、毎年春にこの空き家にやってきてガラスを破って中で……その、乱交パーティー的なことをしてたんだって思ったんです」
あれ? 誰も頷かない。
「でも鈴木さんはそれが生徒だから許してあげたくて被害届を出さなかったんだって……今日で最後なのは、鈴木さん自ら注意するからで、その生徒たちに返り討ちに遭うんじゃないかって……」
姥が池のエピソードを聞いて思いついた結論がこれだった。毎年、繁殖ならぬ快楽のためにやってくる子供たち。でも生徒思いだから叱れない。それが仇になったというシナリオ。
すると美緒先輩がくすくす笑い出した。鈴木さんも困ったように苦笑いしながら頭をかいている。
あれ? 正解だと思ったんだけれど……。
「どうしてそんな話になったのよ。でもまあ生徒さんが関係してるってところは合ってたけど。昨日、気になって鈴木さんに確認してみたら――教えてくれたの」
鈴木さんが頷く。
「ええ。本当に申し訳ないです。騙すつもりもなかったのですが、かなり変わった子だったもので……」
騙す? そのワードでまた一つ違う妄想が頭をよぎった。
「まさか、このおうちは鈴木さんのものじゃないとか?」
「確かに以前そんな事案があったけど、今回は違うの。鈴木さんが佐倉市でずっと教師をされていた方で、生徒思いな方だって話は所長から聞いたでしょ? それと重たそうなリュックで何となくピンと来たのよ。鈴木さん。お見せいただいてもいいですか?」
「そうですね」
鈴木さんが背負っていた重たそうなリュックを玄関先に下ろして、その中身を開ける。そこには――、
「えっ……!」
テレビでしか見たことのないお金の山がそこにあった。
美緒先輩がありがとうございましたと言って閉めてもらった。
鈴木さんが溜め息混じりに話し始める。
「……もうあれから十年ぐらいになるでしょうか。担任した学年には年に一人ぐらい家庭に深刻な問題を抱えている子がいるものでして、その子も肉親から激しい虐待を受けていました。しかし周りの気づきが遅れて自傷行為に追い込まれてしまい、児童相談所や教育委員会の判断を待てなかったので――独断でこの家に保護したのです」
「過去にも何度かそうやって生徒さんを保護されていたのですよね? こちらで」
「はい。十人はいました。彼も同じようにここで匿っていたのですが、親が精神支配タイプで外見上の問題が見えづらく、当時はそういう部署も及び腰で公的機関は動いてくれずで……地元警察も民事不介入の原則で介入してくれませんでした。それでも私は彼と何度も話をし、本人が理解した上で彼の希望として被害届を出し検査も受けさせようやく事件化できまして、親の逮捕をきっかけに彼も独り立ちできることになりました」
最初に思い浮かんだのは覚悟という言葉だった。相当な決意のもとに覚悟を決めなければできないこと。それはもう大変だったと思う。
「彼が独立するまで二年は一緒に暮らしました。素直で真面目が取り柄ないい子ですが、考え込むと視界が狭くなるタイプで……彼も相当悩んだと思うのですが、突然いなくなりました。お礼の手紙を残して。それ以来、一切連絡ができなくなったんです」
はっと気づく。
「その彼ってもしかして……三年前から続く空き巣の……?」
「ええ。十年経っても分かるものです。空き巣はあの子だと直感しました。でも物を盗みに来たわけじゃなかったのです」
「それがさっきのお金だったんですよね?」
美緒先輩の指摘に鈴木さんが頷いた。
「毎年一千万円ずつ、合計三千万円。最初の年は何も聞けず、去年は後姿を追ったのですが逃げられてしまい……今年はきちんと話したかったので、あらかじめ手紙を置いておいたのです。それが昨日でした。内容は、今日の朝この時間に会おうということで……」
鈴木さんが振り返る。玄関先の塀から物怖じするように現れたのは、三十代後半の爽やかな男の人だった。
ブランド物のスーツ上下に似合わない派手な色のリュックを背負っていた彼は、私と美緒先輩を見て少し驚いたようにしていたものの、鈴木さんに深く頭を下げた。
鈴木さんが目に涙を浮かべながらゆっくり寄って行って、恐る恐る、でもしっかりと彼を抱きしめる。彼も鈴木さんの背中をさすった。
さらに驚いたのは、彼の後ろから申し訳なさそうに現れた女性とその胸に抱っこ紐で抱かれた赤ちゃんだった。彼の家族らしい。
そうして美緒先輩が私も含めた自己紹介をし、話を聞きたいと行徳駅前交番に三人をお連れして聞いた事情は、ある程度予想していたという鈴木さんも驚くほどの内容だった。
八年前。いつまでも鈴木さんに甘えていられない、そんな気持ちが募って家出同然に鈴木さんの家を飛び出した彼は、様々な職を転々とした。
しかし素直で真面目だけど、融通の利かない性格が災いしてなかなか仕事が続かなかった。そんな時に今の奥さんと出会って結婚をし、彼女の収入で何とかやりくりをしていたものの、依然として生活は厳しい状態。
一度は鈴木さんを頼ろうとしたものの、それだけはダメだと彼はひたすら頑張った。
でも定職につけずアルバイトをしては辞めてを繰り返していた時――やけになった勢いで株を始めたらしい。最初は憂さ晴らしみたいな感じで少額からやってみたものの、その素直で真面目だけど融通の利かない性格が、セオリーをひたすら守って売り買いをするという特技に変わって――大成功した。
資産は数千万のレベルではなく、数十億だという。その額を聞いて私は目をひん剥いてしまった。
そして三年前、かつて自分を助けてくれた鈴木さんにお礼をしようと訪ねたものの本人はおらず、連絡先も覚えていなかったため――混乱した彼は「空き家の窓ガラスが割れていればきっと来てくれるはず」と思ってガラスを割って中に入り、一千万円入りのリュックをポンと置いて出ていくという暴挙に出たらしい。
それが三年連続で続き――三年目に人の知るところとなって今に至った。
今日こうしてスーツを着てきたのは奥さんからのアドバイスであり、彼女もその行動を知らず驚いていたそう。
そんな、一生遊んで暮らせるようになっても思いつめると視界の狭まった行動をするその人を、鈴木さんはまるで我が子のように接している姿を見て、私たちも大丈夫だとほっとできた。
それでも万が一があるので、警察としては佐々野所長や生活安全課にも手伝ってもらいながら裏取りをする。
その結果、一緒にいた奥さんとも結婚の事実が確認でき、家族のトラブルはなく、株で儲けたお金も証券会社で確認できて、現在の資産はフィナンシャルアドバイザーのアドバイスを受けて適切に管理されていてトラブルの種にならなそうなことも分かった。
逮捕された実父には居場所が分からないようになっていて、万が一接触してきた場合は奥さんから警察に連絡が行くような手はずになっていたのも確認済。
全て問題なし。オールクリア。あとは当人たちの問題だ。
鈴木さんと彼が話し合った結果、彼と似たような子供のセーフティネットとして使ってもらいたいという意向から、三千万円の全額を佐倉市にある児童保護施設へ寄付することになった。
施設や市の職員も最初は驚いていたものの、私たちの裏取りもあって話はスムーズに進み、全てが終わった。
鈴木さんが定期的に彼を訪ねることで話がつき、その一回目を今日にしたいという彼の要望もあって奥さんも含め鈴木さんたちが彼の家へ向かうことになって――一件落着。
気づいた頃には夕方で、私たちの非番ももう終わりだった。
今度は行徳駅から帰るサラリーマンたちと一緒に、美緒先輩と肩を並べて寮へ戻る道を歩く。
「久しぶりに人の暖かみにふれて疲れが吹っ飛んだでしょ? 気温的にはちょっと暑めだったけど」美緒先輩がハンカチで額をぬぐう。「それにしても菜花の筋読みは遠かったわね。まさかあそこで乱交パーティーを持ち出すとか、もう驚くより呆れちゃったわよ」
うう、恥ずかしい。穴があったら入りたい。妄想がすぎた。
「でも美緒先輩。どこで気づいたんですか? 私、今でもピンと来てなくて……」
「二十年も空き家をメンテナンスするのは使い道があるから。布団一式だけ置いてあるのは自分用じゃなく、一時的に泊まる人のため。それは誰か? 教育熱心で教育委員会ともやりあうなら、それは間違いなく問題のある生徒さんのこと。揉めるぐらいだから、一線を越えてるはず。だとしたら匿うための隠れ家かなって」
そんなこと思いつきもしなかった。
「匿われた生徒が恩を仇で返すのなら、きっと家中をめちゃくちゃにするはずだけど、一枚だけ窓ガラスを割るのは、それが目的じゃなくて手段だから。つまり家の中に入りたくて割った。そしてあの重たそうなリュック。重たいのなら車に置いておけばいいのにずっと背負っていたのは、大切なものが入っていたから。じゃあお金かな。あー、本当の意味でのお礼参りだったんだな、って」
すごい。もうそれしか感想が出てこない。
「決め手は何だったんですか? 今日何かある、っていうのは?」
「そろそろ家を売ろうかって決心したのに、メンテナンスは明日を最後にするって、なんか具体的すぎるなって思っただけよ。逆に考えて、家を売るきっかけが明日になると起きるって意味かなって思ったの」
あー。もう敬服しかない。私は隣を歩きながら頭を下げた。
「まあ、そういうもんよ。人の何気ない言葉にこそ事実が隠れているからね。慣れよ、慣れ」
慣れないなあ。まだ一年目だけど。きっとこの先もそんな人様の機微に気付けるようになる気がしない。
そんな鬱屈した何かを憂さ晴らししようと佐倉へ行こうとしたのにもうタイムアップ。
本当にタイムアップなの? 夕方だけど、今から行けばまだ日帰りできるんじゃない? 夜桜の下、あの彼と出会えたりして?
「あ、そうだ。私ちょっと用事が――」
「あ、そうだ。今日は非番だしさ、もうやることないでしょ? 二人で飲みに行こー!」
夜桜が! 彼が! 飲み屋で美緒先輩の元彼の愚痴なんてまた聞かされるの? 潰れてグダグダになった大人の面倒なんて見たくない!
まだワンチャンあるよね? 一人の時間の大切さを説けば何とかなる? それとも全てをぶっちぎって逃亡する?
でもね。警察官という完全縦社会の世界で先輩かつ巡査部長という二階級上の上司に口答えは許されないし、そもそも男社会の片隅に生きる女性警察官同士の輪を乱したら、こんな何の取り柄もない二十歳の女なんてすぐ干されちゃう。
「し……承知しました! お供します! サー!」
「何よそれ。軍隊じゃないんだから。んじゃいつもんとこ行くわよ」
もう終わりかあ。私も終わりみたいな大きなため息を吐く。その時だった。
「すみません」
振り向くと、そこにはセーターにジーンズ姿をした高身長のすらっとしたイケメンがいた。少し息が切れている。
「これ、落としてましたよ。間に合って良かったです」
それは美緒先輩のハンカチだった。さっき額を拭いていたヤツだ。
「あっ、すみません。ありがとうございます。ここまで持ってきていただいたんですか? 本当にありがとうございます」
ハンカチを受け取った美緒先輩。あれ? 普段の顔はどこへ? 何でそんないきなり目がぱちっと開いて可愛い顔になれるの?
「随分お疲れだったようですね。これからどちらへ?」
「あっ……」美緒先輩の目が一瞬で計算を完了した。「どこかご飯食べに行こうかって話していたんですけどぉ、この子がもう帰るって言い出してぇ」
こんなに分かりやすい誘われ方ある?
「あ、そうだったんですね。後輩さんかな? おうちは近いんですか?」
イケメンが私を一瞥する。あ、女としてカウントしていない目だ。
「すぐそこなんですよ。もう一人で帰れるわよね? ねぇ!?」
最後のねぇにものすごい圧が込められていた。私の本能が翻訳する。
──これは滅多にないチャンスなんだから邪魔するな、今から言うことはすべてイエスで返せ。オーケー?
「ア、ハイ」
「この子の家、すぐそこなんでもうここで大丈夫なんですよぉ」
「それは良かった。夜道は危ないですからね。私もご飯がまだで……良かったらすぐそこのバルでどうですか? おいしいウィスキーがあるそうですよ」
「えっ、いいんですかぁ!? ぜひぜひ!」
「センパイ、オツカレ、サマデシター」
「何よその言い方。まあいいや。お疲れー、また明日。『カイシャ』でね!」
「ハーイ」
私は努めてロボットみたいな声で頭を下げると、振り返ることなく寮へ向かって帰っていった。
マジか。どうしてこうなった。いや、鈴木さんや生徒さんが再会できたのはとても素敵なことだった。
だけど、だけど。うーん。
あの男が妻子持ちで一晩だけ遊ばれる罰が当たれー。そうじゃなかったら付き合ったとたんに甲斐性なしの本性を出すクズ男であれー。
人として最低な呪詛を心の中でで呟きながら寮へ戻ろうとした私は――ぐるっと回って警察署の裏に向かった。
沈みかけた夕陽でオレンジとブルーに染まる街の中、ひっそりとたたずむお店「ふさのいえ」と書かれた暖簾をくぐって中に入る。
「あら、菜花ちゃん。いらっしゃい」
紺色の作務衣を着たかっぷくのいい女性がにっこり笑って出迎えてくれる。
「あ、ママさん。一人なんですけど……いいですか?」
「もちろんよ。カウンターでいいかしら? いつもレモンサワーだったかしらね? ソフトドリンクもあるけど」
「あ、あの……レモンサワーでお願いします」
流れるようにカウンターに座らされる。でもいつも美緒先輩に連れてきてもらっているだけだから勝手が分からない。
「お腹は空いていますか? よければ二、三品出しましょう。苦手な食べ物はありますか? アレルギーもあったら教えてください」
カウンターの奥にいる茶色の作務衣を着たマスターさんが、目尻に笑い皺を浮かべながら聞いてくれた。
「特に苦手なものもアレルギーもないです。好き嫌いなくて……」
「なら良かったです。ではお通しにこれをどうぞ」
あ、これスーパーで見たことある。みそピーだ。それとこれは?
「イワシの
レモンサワーに一口つける。そして最初はイワシの卯の花漬けからいただいた。ほんのり甘酸っぱくてお通しにちょうどいい。
次はみそピー。千葉県の名物らしいけれど、食べたことがなかった。わりと粘りけのあるそれを一口食べる。
あまじょっぱい。ピーナッツの食感もあいまって、お菓子みたいな感じ。
「今日は美緒ちゃんも一緒じゃなかったのね。ヘルプかしら? それで菜花ちゃんが一人に?」
「あー、あの」何だか言いたい気持ちになってきた。「本当は二人でいつも通りふさのいえに行こうって言ってたんですけど……」
告げ口みたいだけど別にいいよね? 私はさっきの出来事を話した。美緒先輩が咄嗟に男の人を取ったこと。私なんて置いてけぼりだったこと。
「私、なんかこうガツっといくんじゃなくて、自然とまた出会うのを待つような、そんなのが好きなんですけど……それを否定されたようなのと、おいてけぼりとか色々モヤモヤしまして」
「なるほど、それでうちに来たのね。でも納得だわ。仕事熱心な美緒ちゃんらしいわね」
「え……仕事熱心? どういう意味ですか?」
「この街は東京のベッドタウンで繁華街じゃないし、しかも平日の夕方で駅から東京湾側に向かっていく女性の二人組はどう考えでも帰宅する子たち。普通、そんな女性を見つけてナンパなんかしないでしょ? 断られるに決まってるんだから」
「あ、そうですね。確かに。……でも、じゃあ……あの人はいったい?」
「よっぽど持て余してて爆発寸前なヤツか、それとも警察官と知ってて寄ってきたか。いずれにしろロクなヤツじゃないわね」
そうかも。言われてみて気づいた。手ぶらだった気がするし、ハンカチを落としたところからだいぶ歩いてから声をかけられた。
「美緒ちゃんは、菜花ちゃんが変なのに絡まれて嫌な一日で終わらないように守ってくれたのよ。きっと」
うあああ。思わず声が出そうだった。まさか美緒先輩が私を守ってくれてただなんて。考えもしなかった。
言葉も出ない。
「美緒ちゃんも菜花ちゃんのことが可愛くって仕方ないのよね。まだ新人なんだから、今は先輩からいっぱい教えてもらったほうがいいわね」
そっか、そうだよね。でも、後悔しかない。後で美緒先輩に何て話そう。頭がさらに混乱していく。
「これをどうぞ。お口に合うといいのですが」
カウンター越しにマスターが出してくれたものを受け取る。
ごはんと平たいつくねを大葉で挟んだようなものに、貝の味噌汁だった。
「お椀はふうかしというあさりの味噌汁で、大葉で包んであるのはアジのなめろうを焼いたさんが焼きという、どちらも千葉の郷土料理です。そしてご飯は魚にも肉にも合う、千葉県の品種、粒すけのご飯です」
「おいしそう。いただきます」
まずは味噌汁に一口つける。あれ? 思っていたより味噌が薄い。その分、あさりと昆布だしがきいていて、体に染み込んでいくのが分かった。
飲んだことがないのに懐かしい味。
次はさんが焼きというのをいただいた。ふわっとした食感で、味噌とアジの旨味がぎゅっと詰まっている中に大葉の香りが混じっていてすごくおいしい。
クセが少ないのは生姜とネギのおかげだ。食べやすい。お酒が好きな人はつまみになると思うけれど、私は初心者マークだからご飯が欲しくなっちゃった。
と言うわけで、湯気が出ているご飯を口に運ぶ。大粒でふっくらしたお米が、これまたさんが焼きに合っておいしかった。
炊き立てのご飯なんていつぶりだろう? それこそ前、このお店に来て以来かもしれない。
「粒すけは最近作られた品種なんですよ」
マスターさんがにっこり笑う。
「そうだったんですね。初めて知りました。すごくおいしいです」
「コシヒカリと千葉県の品種ふさこがねを掛け合わせて、両者の長所が出るように作られたそうです。大粒でふっくらした食感はふさこがねのいいところで──そのふさこがねも、ふさおとめという千葉県の品種が親でした。代々、いいところを受け継いで育ってきたわけです」
全部受け継がれてきたんだ。いいところを取り入れて育つ。まるで人みたい。
そうか。私も美緒先輩に色々教えてもらってここまで来た。まだ二年目だけど、もう二年目。次に入ってくる新人に教えなきゃいけない立場になる。
そこには美緒先輩からの教えと私の得た経験が入るはず。そうして代々受け継がれていくんだ。
もっときちんと教わろう。ママさんが言っていたのはそういうことだったのかもしれない。もしかしてマスターさんもそう言ってくれていたのかな。
目が合うと、またマスターさんが目尻に皺を作って微笑んでくれた。
ご飯を食べる。おいしい。もうその単語しか出てこなかった。
「粒すけ……本当においしいです」
「良かった。ごゆっくりどうぞ」
もう一度あさりの味噌汁を飲む。ああ、おいしい。
千葉都民と言われてギクッとしつつ、鈴木さんの佐倉市の熱弁を聞いて妄想旅行をし、実際に行こうとして失敗した上、勝手に美緒先輩を恨んだりして空回りしっぱなしだったけれど、ここのご飯で救われたような気になった。
今日はいい気分で終わることができそう。
あっという間にご飯がなくなった。
「あ、あの……ご飯のお代わりってできますか?」
「もちろんですよ」
そうして私の非番の夜は更けていった。
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