28 目が離せない
「俺に失態をさせて恥をかかせてやろうって輩がいたもんで、もう面倒になって乗ってやったのさ。
おかげで上手く勘当されたってもんだ」
「ほうほう、なるほど、だからえらく広く鬼の里の醜聞が広まっているわけだな。
どれ程の馬鹿者であったのかと思うたものだが、さような事情であったか」
激した千吉に、そう述べた喜右はつり上がった目をぱちぱちとさせる。
確かに、千吉の勘当の話が広まるのは早かった。
それも、千吉を追い出した連中が、千吉からやり返されることを恐れたためであろう。
けれど生憎と、千吉はやり返すほどの執着を、あの鬼の里に持っていやしない。
まあそれでも里を出たばかりの頃は、なにもかもが嫌になって山を焼いてやろうかというくらいには、気持ちがくさくさしていたのだけれど、今は心底どうでもいい場所だ。
喜右が思ったよりも激しい反応を見せなかったことで、千吉も頭が少々冷めてきた。
けれど思えば、里を出てからこのことをこんな風に話したのは、初めてかもしれない。
というよりも、口にしたくもなかったのだ。
しかし三年も経てばこの気持ちも「文句の一つも言ってやりたくなる」くらいのものになっていて、我ながらずいぶんと気持ちが落ち着いたものだ。
千吉がそう思い、息を吐いていると。
「……ふむ、我も里の
上に立つとは面倒を押し付けられるというだけのことよ」
喜右がこんなことを言ってくるではないか。
「もしかして、お前は里の頭領になる予定なのか?」
千吉が尋ねるのに、喜右は尻尾をぶん、と振る。
「選ばれるかもしれぬ、というだけのことよ。
我はあのような退屈な役目なんぞ御免であるし、我を選ぼうなんぞという好きものはおらぬよ」
「そっか、そうだよなぁ」
喜右の言葉に、千吉は肩から力が抜ける。
なんと、この狐が千吉の気持ちをわかってくれるとは思わなかった。
というより、この狐はこれで案外偉い狐であるようだ。
しかし、これも道理かもしれない。
弱者は強者に下されることの多い「妖の者」であるので、弱いから群れないと生きていけず、強いから喜右はこうして誰とも群れることなくふらふらとできるのだ。
そして強い者は得てして、どこぞの主に祭り上げられるものである。
「それで、お前はどうして人の暮らす町に棲まうことになったのだ?」
興味のままに尋ねる喜右に、千吉は喜右に対する話し方の角を、ほんのちょっとだけ緩めてから、「なんてことない話だ」と前置きをして語る。
「足の向くままにふらふらとしていたら、いつの間にかこの江戸の町に流れ着いたってぇだけさ。
どうするわけでもなく歩いてそこいらの寺の軒下で寝ていたら、この湯屋の爺に声をかけられたんだ」
曰く、力が強そうだから、釜焚きに良さそうだと。
つい先だって、釜焚きが一人辞めてしまって代わりを探していたのだそうだ。
「けれど、人に紛れて働くのも案外悪くない」
ふらりと入り込んだ人の町というのは、様子が違った。
人間は他の生き物に比べてとんと鈍くできているもののようだ。
千吉が人に化けて多少妖力を抑えるように気をつければ、この町ではほとんどの連中が千吉のことを気に留めない。
ただ人間に比べて大きなこの身体が目立つだけだ。
それでも妖力による魅了は多少残るようだが、それも鬼の里にいた頃に比べれば大したことではない。
「妖の者」の間では、千吉に対する誰かの反応というのはどこに行っても似たようなもので、それも千吉に嫌気を持たせていた一因であった。
それが、千吉が軽く撫でてやっただけでも死んでしまいそうな人間に混じって暮らすことが、これほどに息のしやすいものだとは思いもしなかった。
――それに、お加代さんに会えたしな。
加代との出会いは、千吉にとっては最上の幸運である。
最初は加代のことを、これまで見たことのない極上の精気の主であるというくらいしか思っていなかったが、あれでなかなかに惹き付けられるお人だ。
あの加代には千吉の妖力の魅了なんて効いていないどころか、千吉の方が魅了させられてしまう。
まさかそんな人間がいようとは、世の中は不思議なものである。
千吉が自然と口元をにやりとさせていると。
「ふむ、人の町とはさように楽しい場所なのか」
千吉の内心なんぞわかるはずのない喜右は、そう言ってひげをそよがせていた。
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