湯屋「あいあい」
黒辺あゆみ
一話 湯屋の釜焚き
1 漁師の娘
雨風で大川が荒れることもずいぶんと減ってきた、秋も終わりの頃。
「う~、さぶっ!」
加代が庭の落ち葉を掃いていると、最近冷たくなってきた風が強く吹き付けて、思わず首をすぼめた。
庭といっても、長屋にあるような猫の額ほどもない小さなものではない。
ここは深川にある南部様という大名の屋敷で、庭もたいそう立派なものである。
だがそれも「加代にしてみれば」の話であった。
どうやらここは下屋敷という控えとして抱えている場所らしく、南部様が実際に住まう上屋敷は別にあり、そちらの方がより立派なものだという。
その上言ってはなんだが、近隣にある他の大名の下屋敷に比べてここは少々小ぶりなこともあり、庭掃除が加代一人で事足りるのは幸いなのか、なんなのか。
まあ小ぶりだからこそ、加代のような漁師の娘が住み込み働きを許されているのだろうけれども。
これが他の大きな屋敷であったならば、きっと働けるのは大店などのお嬢様に違いない。
けれど加代は、そちらの大きな屋敷が羨ましいわけではない。
――おとっつぁんが探してくれた奉公先だし、あたしはここでいいんだ。
漁師の娘として生まれた加代は、弟と妹が一人ずつと、父親との四人暮らしだ。
加代はとてものんびりとした性格であった。
一人で呆けていることが多く、幼い頃に長屋住まいの子どもたちと遊んでいても、どこか余所を見てじぃっとしている加代を放ってみんな家に帰り、父が慌てて探しに来たことは数知れず。
弟や妹が大きくなると、逆に加代の方を心配される始末である。
加代自身としては、しゃんとしているつもりなのだが、自分が思っているよりも、長く呆けているようなのだ。
そんな加代なので、周りからは「変わった娘だ」と思われているのは、本人も承知していることである。
一方で、末っ子の妹が生まれた時、母親は産後の肥立ちが悪くて死んでしまい、それ以来加代は弟妹の母親代わりとして面倒を見てきた。
そうやって年を経て、末の妹がなんとか自分の面倒を自分で見られるようになった頃には、加代は年増に片足を突っ込みかけていたというわけだ。
なんなら妹は年頃になったら、加代を差し置いてさっさと嫁入り先を見つけてしまったのだし。
変わっている上に年増とあって、余計に嫁の貰い手が遠ざかっているというわけだが、本人としては別にこのことで己を憐れんではいない。
このまま女一人で生きていくのも乙なものか、くらいに考えていたりする。
けれど、父親の方がこれでは加代が哀れだと思ったらしい。
加代がこれからなんとかいい縁談に恵まれるようにと、あちらこちらに相談した結果、大名の屋敷奉公をして箔付けをすることになったのだ。
そんな巡り合わせでここにいる加代だが、この屋敷には人が少ない。
というよりも、屋敷に住まうのは加代以外だと、留守居役の遠山源十郎様という老人が一人いるだけ。
あとは数日おきに加代のような町人の奉公人が、通いで二人来るのみだ。
加代がここへ奉公を始めてひと月になるが、南部家の御家臣様とは未だに遠山様以外に出会ったことがない。
その遠山様はおおらかなお人で、漁師の娘として育ったために少々でなく大いにがさつな加代の言動にも、さして咎めたりはせずに笑って流してくださる。
お偉いお武家様というものにこれまでの人生で近しく接したことのない加代にとって、その方々に対して粗相をするかもしれない恐怖が少なくて結構なことだ。
そして今は、その唯一のお偉い人である遠山様も屋敷にはいない。
朝から湯屋に出かけたっきり戻っていないのだ。
大名の屋敷なので、ここにはもちろん内湯がある。
しかし江戸では火事を起こさないために火の取り締まりが厳しく、たとえ大名の屋敷だとしても湯を焚くことにはうるさく注意される。
湯を焚く時間や見張りの人手や、風の吹き具合などでガミガミ言われ、簡単に湯を焚くわけにはいかない。
特にこの屋敷は内湯を焚くには住み込みの人手が加代しかいないので、万が一の際の火の始末をするには人手不足と見なされるし、遠山様はそんな面倒をするくらいならと、湯屋に行ってしまうのだ。
いや、遠山様は湯に入りに行くというより、湯屋の二階で碁を打ちに行っているのかもしれないけれども。
湯屋の二階は遊戯部屋となっていて、そこで碁を打てるのだ。
この近隣には碁会所があるのに、遠山様はそちらではなく湯屋の二階を好むのだから、お偉いお武家様なのに変わったお人だ。
なんでも碁会所は堅苦しくて駄目らしい。
――きっと今頃、碁を打っていらっしゃるなぁ。
いつも昼の八つの鐘が鳴らないと戻らない遠山様のことを、加代がそう想像を巡らせていると。
「湯屋ぁ、湯屋でござぁい、焚き物はありゃせんかぁ~」
通りの方から、そんな声が響いてきた。
あの声は、湯屋「あいあい」の釜焚き男の声である。
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