1-5 豆腐の反対はこんにゃく

 五月初めの緩んだ空気を肌に感じながら、今年こそは五月病にかかるものかと意気込んでいた――そう、つい数秒前までは。


 五月の大きなイベントといえばゴールデンウィークが最初に思い浮かぶが、ぼっちの俺にはただの大型連休でしかない。ちなみに外出は一切しないで積みゲー未プレイゲーム消化クリアするつもりだ。


 あとは中間テストだろうか。これについては、いつも通り一夜漬けでなんとかなるだろう。思い浮かぶのはそれくらいなのに、俺の高校生活史上、一、二を争う重大なイベントが現在進行形で発生している。


 いつも通り一限が始まるまでスマホでトラ猫ワルツを遊んでいただけなのに、どうしてこんなことになっているんだ。状況が全く理解できず、まるで敵の攻撃で状態異常デバフを受けて石化したかのように体が硬直する。


 行動するにしても、まずはデバフを解除しないと。石化の解除に必要な定番アイテムといえば金の針だよな。これも針と言えなくないから同じ効果があるはずだ。机の上のシャーペンを指定して脳内コマンドで使用するがアイテムが使用できない。


 ああ、そうか。石化は仲間にアイテムを使ってもらわないと解除できないデバフだった。もちろん、この教室に俺の仲間なんてひとりもいない。くっ、一生このままなのか。スマホの画面には進軍失敗という文字が表示され、ボロボロの猫たちがクエストの失敗を悲しんでいるが今はそれどころではない。


「夜空くん、おはよう。いつも、なにを遊んでいるの?」


 女子生徒の声が横から聞こえてきた。俺に話しかけてくる人なんて、この教室にはいないから夜空という人物がもう一人いるのだろう。きっとそうに違いない。


「……私の声、聞こえていないのかな?」


 ここで声がした方向を向くと実は別の人に話しかけていたというオチだろう。俺は騙されないぞ。そんなことになったらクラスメイトたちに自意識過剰なぼっち野郎のレッテルを貼られる。俺の平穏な高校生活のためにも、ここは耐えるしかない。


 教室中から刺さるような視線を、ひしひしと感じる。この教室にいるもう一人の夜空くん、早く返事をしてあげなさい。汗ばんだ手で支えているスマホの画面をじっと見つめていると何かが視界を邪魔してきた。


 よく手入れされている女の子の手だ。それが俺の顔の前でぱたぱたと振られている。爪が綺麗な曲線を描いて切られている。爪切りをしてもヤスリを使わない、俺のカクカクのローポリ爪とは大違いだ。


「瞬きしてないけど大丈夫かな。息をしているから、たぶん生きている……よね?」


 この手は生存確認だったのか。純粋に心配している声を聞くと罪悪感が湧いてくる。現実逃避をしていても、この状況は終わらないか。諦めて声がする方向を向くと、綺麗な手の持ち主が安堵の表情を浮かべた。


 雑誌のモデルのように整った顔。ダークレッドの髪をシュシュで束ねたサイドテールは動くたびに軽く揺れて、つい目で追ってしまう。


「よかった、やっとこっちを向いてくれた。私、同じクラスの一ノ瀬愛良、よろしくね。夜空くんで合っているよね?」

「そうだけど、俺に何か用……ですか?」

「……同級生なんだから、もっと砕けた感じでいいんだけど」

「えっと、何か言いましたか?」


 一ノ瀬さんの呟きが聞き取れなくて俺が聞き返すと、一ノ瀬さんは首を横に振って何事もなかったような態度を取った。


「ううん、なんでもないの」


 まあ、隣で話しているから普通に聞こえていたんだが、面倒ごとになりそうだから難聴系ラノベ主人公よろしく聞こえなかったことにした。


 その理由は、今もずっと感じている周囲からの鋭い視線にある。取って付けたように敬語にしたのも、これが原因だ。どうせ一ノ瀬さんを狙っている男子が数多くいるのだろう。ここは無難に振る舞い、穏便にやり過ごそう。


「話しかけても全然動かないから、幽霊に話しかけているのかと思って少しだけ怖かったよ」


 俺は石化していたのではなく幽霊になっていたらしい。赤い帽子の配管工が主人公のゲームに登場する白い幽霊は人に見られていると動かなくなる。なるほど、俺は幽霊だったのか。それなら金の針を使わなくても俺が動けるようになったのも納得できる。


「ねえ、今遊んでいたのはゲームだよね?」


 俺の持っているスマホの画面を、一ノ瀬さんが屈んで見てきた。ぼっち歴が長くて疎いだけでクラスメイト、それも異性のクラスメイトとの距離感はこれが普通なのだろうか。


「こんなゲームもあるんだね。私、ゲームはぬいぬいしか遊んだことがなくて。これは、どんなゲームなの?」

「……えっと、遊んでみますか?」


 つい条件反射で聞いてしまった。そもそも、このゲームは言葉で説明するよりも遊んだほうが早いというのもある。


「えっ、いいの? でも、もう授業が始まっちゃう。後で遊ばせてね」


 そう言うと、一ノ瀬さんは自分の席に戻っていった。緊張の糸が解けて椅子の背もたれに体を預ける。クラスメイト、それも校内アイドルの一ノ瀬さんがトラ猫ワルツに興味を持つなんて。


 目の前で自作ゲームをつまらないと言われた子供の頃の記憶が蘇り、スマホを持つ手が微かに震える。ネットでの批判は相手の顔が見えない上に、酷評されてもコメントを見なければどうとでもなる。


 教室のドアが開き、先生が入ってきたことで現実に引き戻された。脳を支配していた後ろ向きな思考を振り払う。俺はまだ、トラウマを克服できていないのか。この日はゲームを遊ぶ気分になれず、モヤモヤとした気持ちのまま珍しく授業を真面目に受けた。


 それから一ノ瀬さんが話しかけてくることはなく、一日、二日と時は過ぎ、気づけば一週間が経過していた。あれはきっと、ぼっちの俺を心配しての行動だったのだろう。


 一ノ瀬さんは俺と話すきっかけが欲しかったからゲームの話題を振ってきたのだろう。最近、誰かに見られている気配がするが一度会話をしただけで意識してしまうなんて自意識過剰もいいところだ。


 昼休みの開始を知らせる授業終了のチャイムが鳴るのと同時に教室を出る。購買で惣菜パンを買い、教務室で鍵を借りてから向かったのは第二美術室。ここを昼休みに使えるのは美術部員の特権だ。


 木炭デッサンで食パンを使うから、同じパンである惣菜パンの持ち込みもセーフだよな。まあ、木炭デッサンなんて授業でも部活でも一度もやったことはないんだが。


 それにしても今日も酷い見た目だ。名状しがたい表情をしている三色だんごパンの顔にかじりつく。購買意欲を高めるためにチョコペンで模様が描かれているはずなのに、ここまで食欲をそそらないのは、ある意味才能だ。


 紙パック飲料のストローを抜き取ると、なんとなくチョコで描かれた三つの顔のひとつをストローで弄ってみた。ここをこうして、こうすればいい感じに……げっ、更に悪化した。たった数秒で蒸し暑い日の悪夢に出てきそうなクリーチャーが誕生してしまった。俺も人のことは言えないな。


 まあ、うん。何事も中身が重要だ。味がよければ見た目なんてどうでもいいんだよ。どうせスマホ片手に食べるから、顔なんてあってもなくても全然気にならない。スマホの時計を見ると、昼休みは残り十五分になっていた。あとは午後の授業を受けて帰るだけ。今日も何事もなく一日が終わりそうだ。


 スマホを操作して食べながら続けていたクエストの周回を続ける。このレベル帯だと操作をしなくても放置プレイでクリア可能だから楽でいい。操作をすれば早く終わるのは確かだが、育てたキャラでの放置プレイもまた一興。


 紙パックにストローを戻し、ココアを飲みながらスマホを眺めていると、誰も来ないはずの美術室のドアからノック音が聞こえてきた。そして俺が今、一番会いたくない人物が入ってきた。


「ここに居たんだ。さっきおおとり先生と廊下で会ったら、美術室にいるかもって言っていたから来てみたんだけど当たりだったみたいだね」

「ど、どうして……」

「どうしてって……この前、夜空くんにゲームを遊ばせてほしいって私がお願いしたよね。いつも昼休みに居なくなるから、どこにいるのかわからなくて探したんだよ」


 あれは俺が提案したことであって一ノ瀬さんからのお願いではなかったはず。自慢じゃないが俺は触れたら崩れるような豆腐メンタルの持ち主だ。だから毎日この第二美術室に待避していたのに退路が絶たれてしまった。


 豆腐メンタルの逆はこんにゃくメンタルというが、きっと一ノ瀬さんはこんにゃくメンタルの持ち主なのだろう。


 これがゲームならラスボス前にセーブポイントがあるのに、リアルには存在しないなんて無理ゲーもいいところだ。俺はゴクリと唾を飲み込むと、ラスボスに挑むような気分で聞いた。


「そ、それなら……今から遊んでみますか?」

「うん。夜空くんが嫌じゃなければ遊んでみたいな」


 落ち着け俺、今はまだ慌てる状況じゃない。一回遊べば満足するだろう。音楽は一応出しておいたほうがいいか。ミュートを解除するとチュートリアルクエストを受注してから一ノ瀬さんにスマホを渡した。




 ―――――――――――――――

 今回のゲームネタ【石化】


 ゲームに登場する状態異常デバフのひとつ。アイテムなどで石化を解除するまで、デバフを付与されたキャラクターは行動不能になる。


 最後のファンタジーでは金の針というアイテムを使用することで石化が解除できる。なぜ金の針で石化が解除できるのかは神話やおとぎ話、風習を参考にしたからなど諸説あるが一番有力なのは「ファンタジーだから」である。

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