『雪鳥の巣』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
彼人は、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
夕日も重たい山際の雲の陰に隠れてとっぷりと暗くなっているのに、民泊している宿から
外は広がる田んぼが
鴨達は景色の手前にある田んぼの中にいるのでしょうが、その声は遠くから届いてくるように匡利には聞こえました。
日も姿を隠した後の染み渡るような宵闇の中では、やけに大きく感じられる樹木の影以外には何者の姿も、見分けられるものではありません。
それでも匡利は、持ち前の興味で以て双眼鏡を覗いては僅かにうねりを見せる銀世界の中に、鴨や雁の姿を求めています。
そんなところに、一台の軽自動車がやって来て、道の端に除けようとした匡利の手前で停車しました。
匡利が昼間も会津の野鳥を探して歩いたこの農道ですが、元からどうにか車が擦れ違えるくらいの幅しかなくて、しかも除けられた雪が両脇に山積みになっている今はさらに道幅は狭まっています。
運転手がドアを開け閉めする音が影絵のような景色の中でやけに大きく響くので、匡利は暗い中で人が突っ立っているのが邪魔に思われたのかと、恐縮と怯えで肩をびくつかせました。
上下でスキーウェアにもなる防寒着をしている匡利からすると、車から降りてきたのは女性は目を丸くするような薄着でした。
紫の縞柄に裏地の柚子色を映えさせる半纏を着ているものの、その丈はどうにか腰を覆うくらいで、その下にはどう見ても部屋着な生地の軽そうなタートルネック、下半身は綿のズボンに踝までのブーツです。
車だから暖房が利いていたのかもしれませんが、彼女は白い息を吐きながらエンジンを切ってハザードを焚いた軽自動車から離れてざくざくと道端の
呆気に取られている匡利の耳に、なんだか間の抜けたように聞こえる鴨の声がまた届きます。
「ああ、やっぱり鴨だ。なんだって今日は騒がしいわね。明日は
車から降りてきた半纏の女性はまるで匡利に気付いていないように、もしかしたら本当に気付いていないのかもしれませんが、闇の中でも薄らと白を湛える雪海に向かって独り言ちました。
「あ、飛んだ」
彼女の呟きに前後して、バタバタと特有の煩さを、外灯の一つも立っていない農道の
夜闇の中でその柄も分からなかったでしょうが、折角の観察の機会を逃してしまうくらいに匡利は茫然自失としています。
相変わらず傍若無人といった雰囲気で、匡利のほんの数メートル先に立つ彼女は耳に髪を掻き上げます。そうすると鴨の声が、もしくは鴨の言葉とかが、良く聴こえるのではないかと思えてしまいます。
「鴨がこんなに警戒するだなんて、明日は随分と降るのね。
あー、やだやだ、とでも言いたそうに、でも何処か楽しげに期待を滲ませた声を零して、その女性はふらっと踵を返して、その拍子に瞬くハザードに浮かび上がる匡利の姿に初めて気づいて、ほんの一瞬だけ目を大きく見開いて動きを硬直させました。
けれど、その緊張による停止は匡利にはとても分かるものでなく、速やかに会釈へと繋げられて、彼女はいそいそと車へと戻ろうと足を踏み出しまして。
ずるり、と音が聞こえそうなくらいにはっきりと足を滑らせて。
あっ、と匡利が思わず足を踏み出して、雪のざれた道に足を踏み外して大げさに転びます。
その目の前で足を滑らせたまま動きを逃がして即座に二の足を踏んだことで体を安定させていた女性は、まるで人に見付かってしまったた野良猫のように動きを止めてまじまじと、体を冷たい雪と氷の礫の中に投げ出してしまった匡利の姿を見詰めています。
そして数秒の吐息が白く揺らめいた後に、その女性はおずおずと匡利に手を差し出しました。
「だいじょうぶですか? なんか大袈裟な防寒してますけど、もしかして都会の人です?」
「ええ……まぁ、はい。ありがとうございます……」
匡利は随分とバツが悪くて恥ずかしさで口籠りながら、女性の手を借りて立ち上がろうとして、また足の下の雪を崩してしまって腰から体勢を崩してしまいました。
そんな匡利の背中を、女性が咄嗟に抱き上げてくれて足が無様に一瞬浮いて、それから水底を確かめるように曖昧に地面を捉え直します。
くっついた女性の髪の合間からどきりとする香りが鼻に届いて、匡利の心臓がどくどくと早まってしまいました。
「雪の表面を踏むんじゃなくて、その下の硬いのを踏みしめるようにするといいですよ。スノーブーツ履いてるんですから、足が沈んだって雪、入ってこないでしょう?」
言われた通り、匡利は彼女のよりも随分と長く脛まで包むブーツを履いています。彼女のように雪海にずっぽりと足を踏み入れるならともかく、毎朝除雪がしっかりとなされているこの農道でならブーツの全部が沈むなんてことにはなりません。
というか、今更ながらにですが匡利は彼女こそ脛まで雪に沈めてその欠片がズボンにくっ付いているのに、靴の中まで雪が入り込んで冷たくないのだろうか、だなんて場違いな心配を思い浮かべてしまいました。
「立てます? このまま手を離すとまた転げますよ?」
「あ、はい……ごめんなさい」
女性に声を掛けられて物思いから現実に復帰した匡利は、どうにか女性がくれた助言を解釈して足の裏から真っ直ぐに体重を降ろして雪を踏み躙ります。
ぐちゃ、という音の下で硬く確かな感触が匡利に安心感をもたらしてくれました。
その音を聞き届けて、女性は匡利の腰に回していた手を解いて、二人の体に隙間がやっと戻ってきました。
「慣れてないのにこんな暗い雪道は危ないですよ? 泊りですよね? 駅前ですか? 送ります?」
彼女は雪慣れてない匡利を心配して矢継ぎ早に疑問を重ねてきました。
匡利は情けない姿を見られて恥ずかしいやら見ず知らずの人の世話になるなんて申し訳ないやらで、思考がしどろもどろとして言葉にまでなってくれません。
「あの、雪鳥の巣というのは? 聞いたことないですけど、こちらの方言ですか? この時期に巣を作る鳥って早くないです?」
その挙句に口を吐いて出た質問に、匡利は自分のことながら、やらかした、と顔を覆いたくなりました。
立春も過ぎたとは言っても、会津のこの時期には雪
大寒波で普段以上に雪が増しているのはさておくとしても、鴨の声が窓の向こうから聞こえただけで、防寒具をこれでもかと着こんで外へ飛び出してしまうくらいには命知らずです。
雪と寒さの対策はしっかりとしているので、知識をきちんと扱えているのでしょうが、その分だけ好奇心に突き動かされる様は微笑ましくなくもありません。
「あ、いや……うーん……」
今度は半纏の女性の方が言葉を濁らせる番でした。
なまじ車で送ろうかと言い出した手前、不審者っぽくもある匡利と関わらないという選択には遅きに失して困っているようにも見えます。
でも実は、彼女は別に匡利のことを怪しんでいるのでは全くありません。ただ、匡利の質問に答えるのは少し言葉選ぶが難しいと、そう悩んでいるのです。
そんな彼女の内心は露知れない匡利であるので、ただただ見知らぬ女性を困らせてしまったと認識して、今すぐにでも走って逃げた方が相手のためなんじゃないかと思い詰め始めます。
そんな気配を目敏く悟ったのか、半纏の女性は地面の雪に落としてしまっていた視線を匡利へと向け直しました。
「ええと、雪鳥、というのは別に鳥の種類じゃありません。概念です。んーと、分かりやすく言うと妖怪みたいな?」
女性がまだ会話を続けてくれるのにほっとして匡利もそこに乗っかりました。
「妖怪? この地方に伝わるものですか?」
「あ、いえいえ。昔からの妖怪ではないですし、実は妖怪でもありません。雪鳥は……あれ、いつだっけ? 平成には間に合って……んと、とにかく平成の終わりか令和の頭に生まれた言葉なのです。んー、未言、というものを聞いたことはありますか?」
「みこと? いえ、ありません」
彼女が口にした概念とやらを、匡利は寡聞にして知らないと正直に伝えると、これまた半纏の女性は困ったように唸り続けてしまいます。
そんな折に、また鴨が鳴き出して、半纏の女性はついそちらに気を取られて声のした方へと顔を向けます。
その眼差しは雪に沈んで静寂を広げる暗闇の中でも、はっきりと鴨の存在を捉えているように真っ直ぐに、そして情愛を湛えています。
「ああ、と、ごめんなさい。鴨の声が可愛くて」
「いえ、分かります。水鳥ってなんか喋ってるみたいに鳴きますよね」
「そうそう! こないだも猪苗代湖に白鳥見に行ったんですけど! 岸の近くにいた子達をずっと見てたら、沖から声がして二羽が近づいてきて! そしたらその声に連られてバラバラだったみんなが一つに集まりだしたんですよ! あれ、絶対に会話してました!」
あ、この人、自分と同類だ、と匡利はテンションの高い声で直ぐに気付きました。つまり野生の鳥が、鳥だけではないかもはしれませんが、兎も角人間じゃないものを人間のように親しみを持って語っちゃう系の、一般人からするとオタクに分類されるタイプの人間です。
ちょっと話が合いそうで嬉しい、だなんて匡利は不遜にも思ってしまいました。
「あ、と。こほん」
そして彼女の方は不躾に推しの尊さを語ってしまったという後悔をして、わざとらしく声で咳払いを表現して場を取り直します。
「寒くて風邪を引くといけませんから、送っていきますよ。うーん……あの、本当に鳥とか関係ないですしちゃんとお伝えするにはものすごく時間が掛かるんですけど、それでも良いなら、明日時間あります?」
申し訳なさそうに肩を縮こませてそう提案する彼女に、匡利がこっそりと渡りに舟だなんて思ってしまうのでした。
民泊先まで送ってくれた半纏の女性は、噂に聞く民家の宿泊利用に興味深々だったらしく、物珍しそうにあちこち見て回ってからその日は帰っていきました。
車の中で軽く自己紹介と連絡先の交換して、匡利は彼女が
未言――言葉にされてなかった概念を言葉にした人物が平成から令和にかけて存在した、というのが匡利からすれば驚愕に尽きます。
けれど匡利も野鳥だけでなく、文学にも好きだったので紫月の語る未言、そして雪鳥というものに大いに興味が惹かれたのも事実です。
造語と言われると、匡利の知るものはどれも、耳に馴染まないというか角があるというか、現実離れしたものが多いという印象でした。でも雪鳥という言葉はすんなりと、昔からある方言なのでは、と思えてしまうくらいに耳障りがなかったのです。
それだけでも未言を生み出した人物の言語感覚が優れていたのが理解出来ます。
そして夜が明けて、けれど
「おはよーございまーす。やー、雪でタイヤが取られて嫌ですねー」
紫月はあっけからんと言うのですが、そんな悪路を運転させてしまったので匡利は頭が下がるばかりです。
しかも降る雪の多さと厚さは、濃霧に匹敵するくらいに視界を白く埋め尽くしているのです。数センチの雪が降れば運転を控える匡利からすると、危ないから予定はキャンセルで、と言われずに約束通りに会いに来てくれた紫月に感謝しかありません。
「こんな天気に来てもらってすみません」
「あ、いえいえー。必要があれば普通に運転するくらいの雪ですよ。スタットレス履いてますし」
雪国の人って強い、と匡利は乾いた笑いが口から洩れてしまいました。
昨日は半纏だった紫月ですが、今日は人に会う前提だからかフードの付いた暖かそうでつるつるした防寒具に袖を通して車から降りてきます。
「外出る時に着てこなかったんですか?」
「運転してると暑いんですもん」
「空調をいじればいいのでは?」
「え、そもそもエアコン入れないで走ってますけど」
雪国の人間、強すぎて怖い、と匡利は思わず喉まで出掛かりました。とても同じ生物に分類されるとは思えない寒冷地適応です。
でもそれは紫月が特別におかしいのかもしれない、とふと思い至ります。なんて言ったってこの女性は未言というものを生み出した人物の理念を現代に伝えるから、未言屋宗主と名乗っていると言うのですから。
「ま、行きましょうか。雪鳥の巣、走ってる時も見えたんで」
匡利を怯えさせているのに気付いているのかいないのか、紫月は今日も綿のズボンで雪を蹴って轍を作りながら先導します。
匡利は紫月が描き分けてくれた即席の道をなぞって歩くことで、どうにか降ったばかりでも目に見えて嵩を増していく
「雪鳥の巣という未言についてですが、先に雪鳥という未言を知って貰った方が分かりやすいと思います。雪鳥の言うのは……今」
前を歩きながら話す紫月が不意に一点を指差しました。
そこには雪を積もらせる裸木が立っています。拉げたように枝を伸ばすそれが何の木か匡利は知りませんでしたが、会津の名物であるみしらず柿の木です。
農家さんの高齢化で放置されて、萎んで見る影もなくなった実がまだ枝に付いているのですが、雪を被っているので匡利には柿だと言われても分からなかったでしょう。
しかも紫月はそんな丁寧に当たり前に生えている果樹の説明までしてくれる訳でもなく、そしてそんな間もなく直ぐに積もった雪が自重だけでどさりと地面に落ちたのです。
それはちょっとした地響きを起こしたような、あの下にいたら無事では済まないと匡利でも理解させられてしまうような、そんな恐ろしさのある現象でした。
「あれが、雪鳥です。つまり、木の枝や屋根に積もった雪が自重で勝手に落ちるのを、鳥が止まって雪が落ちたのに例えた未言です。見えない鳥がやって来て雪を落としたんだっていう捉え方ですね」
匡利は聞きながら、幽霊の正体見たり枯れ尾花、という慣用句を思い出していました。
科学が発展してなかった昔には、人の知識ではとても説明しきれないものがたくさんありました。そういった現象の幾つかを古代では神の御業と言って、時代が下ってくると妖怪の仕業だと言ってきた、そんな歴史の辿ってきた言葉の通り道をイメージします。
未言というのは、科学の行き渡った現代で、そういったものを面白おかしく妖怪に仕立てたものなのかと匡利は頭の中で分類の引き出しに手を掛けます。
「雪鳥自身は目に見えない存在です。雪が落ちたから、雪を落とした何かがいる、きっとそれは雪鳥だ、とこういうお話です」
紫月は語りながらくるりとステップを踏んで回りました。その拍子に降ったばかりの綿雪がその軽さで舞い上がって、紫月のたった一歩だけの踊りを飾ります。
雪は生きてないから勝手に動かない、だなんて重力という科学を知らない時代の人なら真剣に考えたかもしれない、と匡利はぼんやりと思います。
「でも、未言屋店主が言いたいのはそうではないのです。雪が、どさりと落ちた。その衝撃を、心が動かされる現象を、きちんと誰にでも伝えられるようにしたかったのです」
「え?」
続けられた紫月の否定の語りに匡利は思考が追い付きませんでした。
それの原因が、目に見えない存在だとか、重力という法則だとか、そんなものはどっちだっていいのです、と雪を舞い上がらせた彼女は告白したのです。
「雪鳥がいたよ。いたずら好きだから、雪を被らされるんじゃないよ。雪が落ちたね、雪鳥が飛んでったね。そんな、庭に猫がやってきたよ、鵯がうるさいね、雉が来た! みたいな、楽しみを楽しめるように。楽しんでもらえるように」
そのためにこそ、未言は生まれてきたのです。
そこまで紫月ははっきりと言ってはくれませんでした。
分からないならここまで。
分かるなら言わなくても。
穏やかに微笑む彼女は、まるで人の心を試す女神のように匡利には思えてなりません。
分かりますか、どうですか?
本当に知りたいですか?
貴方が訊いた雪鳥の巣は、まだちっとも語られていませんよ。
ふてぶてしく縁側に居座る猫のように、紫月は黙っているだけです。けれどその真ん丸の瞳からは確かにそんな声が聴こえてくるのです。
何処か遠く、町の光が点る夜闇の中で、鴨が鳴いた声がしたような気がしました。
匡利はその声が聴こえたから、姿は見えないと思っていても、賢く温かい家の中で耳を澄ませるのではなく、馬鹿らしく防寒着を重ねて外へと飛び出したのです。
匡利はもう一度、紫月の語った雪鳥という言葉を噛み締めました。
雪は相変わらず、ずんずんと降って、道に、田んぼに、屋根に、そして木々へと幾らでも積もっていきます。
匡利が見上げた木の枝が、雪の重みがじんわりと撓んできました。
あ、と匡利の脳裏に声が思い浮かぶよりも前に。
とさり、と少し静かに雪鳥が地面に跡を落としました。
「雪鳥は見えないけど、雪鳥がいそうな雪の重みは目に見える」
匡利がぼんやりとそう呟いた瞬間に、紫月は柚子が香るように笑顔を弾けさせました。
「はい、正解です。雪鳥の巣とは、木の枝に積もった雪の、枝の細さではどうも抱えきれないだろうと思えるくらいの塊です。そしてそれを見た人は思うのです。あ、雪鳥がいそう、って」
それは雪鳥という未言を知らなければ像を結ばない未言です。
でも雪鳥という未言を知っている身からすると、つい期待を込めて見上げてしまう、そんな現象なのです。
ただただ降り積もる雪に、外に出られない、危ない、死んでしまいそうだと嘆くばかりではなく。
雪鳥が孵って飛んでいくかもしれないと、ほんのちょっぴりの楽しみを、歓びを人に芽生えさせる、そんな未言が、雪鳥の巣なのです。
それこそは未言が生まれてくる時の願いなのです。
妖怪なんて、言霊なんて、いてもいなくても、あってもなくても、いいのです。
人は、言葉そのものできちんと幸せになれるのですから。
未言源宗『雪鳥の巣』完
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