『夕錆ぶ』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人は、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 午後四時と時刻で言われるとまだまだ夜も遠いように思えてしまいますが、冬至も近いこの頃はもう傾いた陽は色の幾らかを欠けさせた状態で目に飛び込んできて、夕蜜ゆうみつに田と家々の田舎風景を光景ひかりかげています。

 けれどその色合いは甘ったるいばかりではなく、むしろ空も田んぼの土にひこばえも家の屋根も何処か寒々しく青褪めていて、白い壁や溜まった水達がそこに蜂蜜色の光を跳ね返しているのです。

 冬の暮れ方らしい寂寥感に満ちた夕錆ゆうさびる景色の中、田んぼの合間を走るアスファルトの農道を、竜胆の咲く振袖揺らし藤納戸の袴を編み上げブーツで蹴って歩く人影がぽつんと一つ混じっていました。

 彼女は袴の裾を弄ぶようにして足をわざと高く蹴り出しながら、春や夏や秋と違って青味が勝ってちっとも赤くなく、白いに金のような色合いを混ぜて今日の最後を伝える夕日に向き合って散歩しています。

 時折、田んぼにお残りしている水の煌めきに手を伸ばしたり、すさませる鋭い風を擽るように或いは爪弾くように指先を揺らしたりして、いつものように冬だけ訪れる独特な夕景を楽しんでいるのです。

 そして会津の西を塞ぐ山々の上に蹲る雲の中に夕日が隠れて囲炉裏の炭のように眩い緋色の上光かみみつばかりを魅せて、太陽から注がれる色を喪っていよいよ灰勝ちに青く錆びていく世界に、ほぅ、と息を吐きます。

「なんて見事に夕錆びていく町なのかしら……」

 胸にうたぐむその感傷を声にして身の内から逃がさないと命が膨らみ過ぎて張り裂けようになるので、彼女は堪らずにこの世への賞讃を口から溢してしまったのです。

「違う! 寂れてなんかない!」

 けれどそれが呼び水になってしまって夕錆びる静寂は急き切るような叫びに引き裂かれてしまいました。

 夕日がゆるゆると山の向こうへと退散するのを眺めていた彼女は振り返り、まだ数歩分は離れて後ろに立っている制服の少女を見付けます。

 背丈から言って少女は中学生くらいでしょうか、高校生にも見えなくはありませんが着ている制服は彼女が知る市内の高校のものとは違うように思えます。それに野暮ったくて厚手な生地が中学生の制服らしく見えます。

 急に否定の叫びを受けた彼女がほんのりと戸惑って少女の真っ赤な顔を瞳に映してから微かに首を傾げている間に、少女の方はずかずかと大股で近寄ってきて彼女の目の前でびしりと人差し指を突き付けました。

「この町は寂れてなんかない! 都会みたいに煌びやかじゃなくても、若者が遊ぶところがなんにもなくても、中学校が潰れてても! この町は昔ながらに田んぼと畑を大事にしてみんなが生きてる!」

 少女は肩を怒らせて主張を述べました。

 河東町は平成に会津若松市に合併されたのですが、令和になってもお年寄りは市の中心街に行くのを、市へ行ってくる、というくらいに、何と言うか除け者意識があるというか華やかさを自分から区別しているというか、そんなお人柄の土地なのです。かつて町だった大部分が農地と農家の住居で、そこにぽつぽつと飲食店や工場が間借りしているようなそんな自意識なのです。

 けれど少女に怒鳴られた振袖に袴姿のちょっと立っている時代を三つばかり間違えている彼女は、こてんとさっきと逆向きに首を倒します。

「ええ、そうですね。そもそも河東は会津平を見渡せるお土地柄で、会津平の何処よりも早く栄えた歴史ある地域です。今は都市の中心が駅の方へと移ってますが、河東には大きな蔵のある広い敷地の家がたくさん残っていていずれ地主の方が建てたものが今でも残っているのだろうなと、見て回るだけで楽しくなっちゃいます」

「えっ」

 今度は振袖の彼女の方がさらさらとこの人影寂れた町を褒め称えたものですから、制服の少女は毒気を抜かれてたじろいでしまいました。

 そんな様子を見て時代錯誤な大正浪漫姿の彼女は、あれ、何かおかしいこと言ったっけ、とばかりに頬に手を当てて眉をへにゃんと萎ませます。

「わたしは河東の素晴らしさを主張されたのでは……?」

「そ、そうだけど」

「ああ、良かった。間違ってなかった。よし、ちゃんとコミュニケーション出来てる、偉いぞ、わたし」

 ぱんっ、と柔く柏手を打って喜ぶ彼女ですが、そもそも会話する人に聞こえる声でコミュニケーションに成功しているとか喜んでいる時点でだいぶダメダメです。

 ただそんなダメダメっぷりが少女の中にあった敵意とか警戒心とかやっつけてやろうといかいう気概を挫いているので怪我の功名ではあるのでしょうけれども。

「あんた……なに?」

 堪らず少女は目の前の相手を問い質します。誰、でなく、何、と訊いてくる辺り、ちょっと人間扱いされていないのですが、問われた彼女はむしろそれを嬉しがるように笑顔を咲かせます。

「はい、わたしは未言屋宗主の紫月ゆづきと申します。未言とは、これまで人々が言葉にしてなかった物事を言葉にした、所謂造語ですね。まぁ、最初の未言は平成の終わりに生まれてますので、そうは言ってもそこそこに時を重ねてはいるのですけれども」

「平成の終わりって……、え、うちのお祖母ちゃんだって令和生まれなんだけど……」

 紫月と名乗った彼女が口にした年代が祖父母を越える古さであったので、少女は紫月の黒い髪の天辺からブーツの靴底が袴の隙間に除く足元まで、まじまじと何度も見返してしまいます。

「ゆうれい……?」

 どう見ても二十歳そこそこの紫月の姿で平成終わりに言葉を生み出したと言われて、少女はやばい奴に話し掛けてしまったと今更ながらの後悔に恐れ戦いています。

「え、いえ、最初の未言を生み出したのは未言屋店主という別の生き物で、わたしはその孫です」

 紫月の訂正に少女はほっと胸を撫で下ろしました。知らないでバケモノと会話してしまったなんて怪奇現象の実体験なんてしたくないものです。

 そんな少女の落ち着きを確認して、紫月は二人の影も喪われていく青く滲みる夕闇の薄明りの中で両腕を広げます。すると竜胆の揺らす振袖は鶴の翼のようにはためいて、自然、紫月の存在感を強く少女に与えます。

「それから、わたしは寂れたと言ったのではなく、夕錆びている、と言ったのです。夕錆びる、というのも未言の一つです」

 紫月は巫女が降す託宣のように言葉を連ねながらくるりと腕ごと体を回して少女の視線を西手の山の稜線へ潜って黄金の光でその縁取りをするだけで最後の自己主張をしている冬の夕日へと誘います。

「夏や秋の紅く暮れ炉を焚くでもなく、春のときぼらけを燻らせるでもなく、彩度の低い光だけで沈んでいく冬の夕景の、青味が勝って灰勝ちにくすんだようを表現した未言、それが夕錆ぶ……夕錆びる、です」

「夕、錆びる……?」

 少女の鸚鵡返しに紫月は厳かに頷きます。

「もちろん、夕錆ぶにも、寂れるとの音の繋がりからのニュアンスの借用はあります。冬は暮れる夕方でもう寒いもの、一足も遠退いて、春や夏や、茜空愛でる秋と違って、人気ひとけのない季節ですもの」

 紫月はそこで一息飲んで、とても大切な物を差し出すように一拍の間を取りました。

「紅き夕さえも、冬には錆びて寂れていくものなのよ」

 それでも、とは言わずに紫月は続く声を強めます。

 それは悲しいだけではないのだと、言い含めるように。

 そこには足りないからこその好さがあるのだと、告げるように。

 世界は片方だけの正しさなんかで表現出来る程に単純でもなくて、だからこそ淋しくなんかないのだと、主張するように。

「大阪城の屋根を彩る緑青、ルビーに閉じ込められた赫、燻された囲炉裏の上の梁の黒さ、古きを伝えてそのままに残る町並み、全く違う物だと言いたがる人は多いですが、時に錆びることで美しくなるものもあるのです」

 古くなることを多くの人は嫌います。朽ちて、彩度が欠けていって、脆くなるのだと言ってしまうのです。

 しかしながら。古くなれる程にそれが姿を保てているのは、そもそもそれだけの年月を耐えられる強さがあったからです。華やかさを喪っていって質実に研ぎ澄まされたものに、いぶし銀だと美を見出したのもまた人間です。最後の最後に頼りになるのは普段口数の少なく重石のように動かない老人であったりするではありませんか。

「不思議なものですね。冬には空気が澄んで光を散らさないからこそ、夕日は赤く染まらないで青を残したままになる。けれど光量は確かに少なくて青が残っているせいで錆びて見える。実態とは裏腹の人の感じ方が、それでも確かに真理を衝いているように胸に迫る」

 落ちていった冬の夕日の頼りない夕残ゆおごりは山の頂上近くの空を微かに橙色にするばかりで、紫月の姿はすっかり影を被ったようにシルエットが認識出来るだけになって少女からは顔色も分からなくなってしまいました。

 それが、このおかしな存在は、妖怪なんかよりも余程畏るべき者ではないのかと、やっと少女に思い知らせます。

 世界のありのままに語る、そう思えてしまう目の前の時代錯誤な女性は、人を祟り罰する神のように少女には思えてきました。

 少女は言葉も失い、思考も削られて、逃げることも出来ずにただただ寒い風と闇の中で突っ立って、ゆきむ田んぼの香りを吸い込みながら紫月の語る夕錆びる景色に身を委ねるしか出来ないでいます。

「世間の人が言うように、都市的に街が発展すれば、このような薄暮にはもう外灯が所狭しと輝いて、LEDの強い白光りは夕錆びる弱々しい感傷など追いやってしまうでしょう。昔のままに生きていくしかない、そのような環境にこそこの胸を冷やしてけれど懐かしく、物悲しくも幸せを擽られる景色は残される」

 そこまで言い切ってやっと、紫月は少女へともう一度向き合って眼差しを降ろしてきます。

「あなたも、そんな美しさを世界の片隅でもいいから残したかったんでしょう?」

 その通りではありますけれども。

 そんな、それこそ都会の煌びやかな街灯りみたいに、夜の闇を駆逐するみたいにつまびらかに全てを明かされてしまっては、少女の中にあった言葉にしきれなかった使命感とか大切なものへの親近感だとか、そういうものがやけに陳腐に思えてしまって。

 ああ、こんな存在に声をかけるんじゃなかった、と少女に深い後悔と。

 そしてこれからも自分の想いを誰にも否定させてやるもんかという強い決意を、抱かせます。

 冬の日はとっぷりと暮れて、寒い闇と冷たい風の中、重たい雲から明るく雪が舞い降りてきました。静かに鎮やかに、二人を包み隠して、ただただ沈黙の中で巡る思考の精錬を、静寂が守っているのでした。


未言源宗『夕錆ぶ』完

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