『くくみうた』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人は、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 その日は後の月とも呼ばれる十三夜でして、紫月ゆづきは片見月なんて無粋を致さないようにと山の奥にひっそりと佇む自宅の縁側に白玉団子に焼き栗を並べていました。

 その焼き栗を焼いていた庭の焚き火の始末を知弦がおっかなびっくりとやっていて、今当にやるせない溜め息を吐いた幼馴染の男子にバケツを取り上げられたところでした。

 知弦の幼馴染である直哉は雑な手付きでざっぱーんとバケツに並々と入っていた水を焦げ付きた落ち葉にぶっかけます。

 紫月がちょっと目を細めて注視すれば、焚き火だった残骸からは一筋の煙もなく、周囲もしっかりと濡れていて山火事になる心配はもうなさそうでした。もっとも例え再び火が熾きたとしても、月を見上げるのと同じ方向にあるのですから紫月がすぐに気付くというものです。

 そんなことに意識が向いてないのか、それとも生来の責任感故か、直哉は栗を取り出すのに使ったトングで焚き火の跡を掻き回して火種がないのをきちんと確認しています。

 それで焚き火の跡をしゃがんで覗き込む知弦が邪魔者扱いされています。でも紫月が直哉の立場だとしても知弦に向けて危ないからと声を掛けて離れて貰うので、全くもって正当な文句です。

 紫月だったら知弦が退くまで焚き火の跡を弄りませんが、直哉は文句の口数が多いけれども知弦にトングがぶつからないように注意して確認作業を続けているので、彼の心に仕舞われた想いも傍目からは良く分かってしまうものです。

 紫月は大好きな青春の一場面を特等席で見られて、にまにましちゃっています。

「先生、焚き火の始末おっけーだよ!」

 知弦が元気良く折り曲げた膝を伸ばす勢いで立ち上がりながら腕も限界まで伸ばして紫月に安全をアピールしてきました。

「ありがとう、二人共。ほら、こっちおいで」

 しっかりとお手伝いをしてくれた高校生達を、紫月は食べ物の準備が万端になった縁側に手招きします。夕方に水平線を登って来たらしい十三夜の月もようやくこの山奥の木々の隙間にも差し込めていて、月見を始めるにもちょうどいい頃合いです。

 知弦は紫月に呼ばれるとそれは嬉しそうに、ないはずの尻尾が勢い良く振っているのが見えるくらいの喜びようで駆け寄ってきまして、対して直哉の方は仕方なさそうにポッケに冷えた手を突っ込んだまま普段歩くよりもさらに遅くて幅の狭い歩幅で近寄って来ます。

 先に到着した知弦はぴょんと跳ねて縁側にお尻を乗せました。その拍子に紫月の葛の花が伸びる振袖を踏んでしまいまして、ひゃあ、なんて可愛らしい悲鳴を上げています。

「あ、ごめんね」

 いつもこの縁側には一人でいるせいで気兼ねなく袖を広げてしまっていた紫月は挨拶のように知弦に謝って、いそいそと生地を手繰り寄せます。

「あ、いえ、わたしこそ、ごめんなさい、先生!」

 知弦ちゃんは謝る時も元気が良いのね、なんて紫月はその眩しさに微笑ましくなってしまいます。こんなに明るい子がいたら折角の名月も透けてしまうかしら、なんて心の中でだけ冗談を言ったりするくらいに紫月は若者と一緒に月見する今日に浮かれています。

「なにやってんだよ、バカ」

 やっと縁側に辿り着いた直哉は一部始終を見て知弦を言葉短に叱り付けて知弦の隣に腰を降ろします。

 自分と悪いと分かっているので知弦は素直にしゅんとしました。

 その横で縁側の真ん中に置いた白玉団子の山の前に座ってしまった紫月は、人の並びが片方に伸びてバランスが悪くなってしまった、なんてどうでもいいことを一人で反省しています。

 それもすぐに、ま、いっか、と自分で流すような気軽な悩みでして、それよりも今日の本題をたっぷり楽しもうと気持ちを切り替えてしまいます。

「ほらほら二人共。折角のお月見なんだから、お月様を見なきゃ」

 紫月はちょっとテンションの下がってしまっている高校生達に声を掛けて、森の梢が縁取りする空見代そらみしろを見上げます。

 木々の天辺がぎりぎり掠らないくらいの微妙な位置に十三夜の栗名月は差し掛かっていました。

 少しおでこが掛けているのが紫月にはしっかりと判るような、ちょっと物足りない姿に思えるもののその物足りなさがなんとも胸の奥をくすぐってくる絶妙な美意識の月でして、これを愛でる習慣を持っていた古き日本人は本当に感性豊かだったんだと改めて感心してしまいます。

「見て見てナオ! 綺麗な満月! すっごく明るいね!」

 しかし知弦にはその月のやくは判断付かなかったらしく、無邪気に満月に迫る明るさの見事さに燥いで、月に向けた人差し指を振っています。

「満月じゃねーよ。十三夜だっつの」

 生真面目な男子はいつも抜けている幼馴染の女子に冷たく間違いを訂正します。

「え、お月見なのに満月じゃないの?」

「お前、十三夜って言葉の意味分かってる?」

 直哉に繰り返し指摘されても知弦はまるで分かってない顔できょとんと瞬きを繰り返します。

 そして首をくりんと逆方向に巡らせて縋るように知弦に問い掛けました。

「先生! 今日って満月じゃないの?」

「後の名月は十三夜だからねー」

 紫月はのんびりと、男子高校生が言ったのと全く同じ言葉だけを知弦に返しました。

 ちょっと意地悪かもしれませんが、ちょっと意地悪するのが楽しかったりするのです。

「でも、丸いよ?」

 知弦は二人から全く同じことを繰り返されても、自分の感じたままの主張を掲げます。

 そんな幼くもある態度が可愛らしくて紫月は喉の奥だけでこっそりと笑いを転がします。

「十三夜ってことは、月齢が十三ってことだから」

 それでやっと紫月は確信を一つ知弦に伝えます。

 知弦は何の意味があるのか、指折り数えて十三と十五にまで至りました。

「満月より二日も早い!」

「情報が結び付くのが遅ぇんだよ」

 驚愕する知弦の後頭部に直哉の冷たい言葉が間髪入れずに浴びせられていて、紫月は息ぴったりで羨ましいだなんて思ってしまいます。

「でも美しいでしょう? 少しも欠けてない完全な姿は誰もが賞讃しやすいでしょうけど、そんな姿へと至ろうとしている途中の出来上がっていく時の美しさも感じ入るのが、和の心、なのかもね」

「おお……なんか未言っぽい」

 紫月は正しくその通りと頷きます。それに気付かない人もいるけれど、自分はそれを美しいと思い、また他者にその感動を伝える日本人がずっと伝えて来た繊細な感性こそ、未言屋店主が未言を見出した原点なのです。

 知弦は感心頻りでまた栗名月を見上げます。

 黄金にも近くて、けれど清らかに白んだ月明かりを浴びていると、自分の中へと、なんというか命というものが注がれているような気分になって、知らず知らず、知弦の瞳と表情が澄み切って色合いを失くしていきます。

「ねぇねえ、先生」

「なぁに?」

 知弦が紫月と、二人だけの話を始めたので、直哉は焼き栗を一つ手に取りました。まだ熱を指に刺してくる栗の鬼皮を爪を立てて割り開いて、ホクホクとした実をちまちまと口に運んでいきます。

「今ね、お姉ちゃんが妊娠してて家に来てるの。もうお腹おっきくてね、なんていうか、あったかいの」

「あら、それはおめでたいね。羨ましい」

 紫月はそれはもう子供が好きで、特に赤ちゃんなんて何時だって抱き上げて嗅ぎたくなるくらいなのです。自分の子はまだ産めていないので、欲望のままに匂いを嗅げる赤ちゃんがいないもどかしさは時折強く紫月の心を透かしてきます。

「それでね、こないだお姉ちゃんがお腹を撫でながらくくみうたを歌ってたの。なんだかこう、優しくて、お母さんって雰囲気でね。素敵だった」

「そう」

 知弦が素晴らしい光景に出逢えたのを知って紫月は慶びで目を細めます。

 佳きものを好いと思える素直な心は、とてもとても好ましく思えるのです。

「わたし、それでさ、くくみうただ、って言ったの、お姉ちゃんも聞こえたみたいでさ。まだ子守歌じゃないよ、って言われたの」

「ああ。くくみうたと子守歌はイントネーションが一緒だもんね」

「えっ!?」

 紫月がさらりと聞き間違えられた理由を零すと、知弦はそれはもう猫のように目を真ん丸にして驚きました。

 その驚き様と言ったら、逆に見ている紫月の方が驚いて、びくりと身を竦ませてしまったくらいです。

 けれどゆったりとした振袖を着ているせいで紫月の一瞬だけの動きは知弦に気付かれなかったようで、知弦は口元に軽く握った指を当てながら、くくみうた、こもりうた、と未言と言葉とを交互に繰り返しています。

「ほんとうだ! なんで!?」

「なんでと言われても、そういうイントネーションだからとしか」

 紫月も知弦の深く深く掘り進めていこうとする疑問に苦笑いしてしまいます。

 そういうものだから、と世間の親なら投げ出してしまうような子供の疑問と同じ類ではありますが、くくみうたとは未言の一つであり、紫月は未言屋店主よりその源宗を引き継いだ未言屋宗主であります。

 なんでと言わても、とか返して苦笑いしている癖に、紫月はちゃんとその未言と言葉の繋がりを知っているのです。

「そもそもくくみうたと子守歌は地続きだからね」

「地続き?」

 紫月は知弦の鸚鵡返しにゆったりと頷いて暖かそうに後の月の光を浴びます。

 冬も訪れようとする秋、それも雪国である会津の夜風はひんやりと肌から体温を奪っていくのですが、紫月の頬はそれこそ焚き火にでも当たっているかのように色を増して見えました。

「子守歌は、赤ちゃんを寝かし付けるために、赤ちゃんを包み込む歌。くくみうたは、お腹の中の胎児が良く育つようにと、胎児を包み込む歌。命を包む、その命に注ぎたいと思った慈愛をカタチにした歌であるのが、どちらにも共通する原点」

 紫月は柔らかな黄金の光を注ぐ欠けた月に向けて、すっと手を伸ばしました。その光に籠っている想いを受け止めるようにして。

「きっとそれは月や太陽の光とも同じ。命を包んで育もうとする、雄大で優美が慈悲の顕現。知ってる? 育むって言う言葉は、羽で包むの意味である、はくくむが語源なのよ。親鳥が雛を羽根で包んで大切に守り慈しみ、育てる様子が本義」

「はくくむ……」

 知弦は紫月から教えられたばかりの言葉を、ゆっくりと味わうように自分の声に乗せました。

「くくみうたの、くくみ、もその、くくむ、から来ているの」

 今は失われた古語の美しい音を汲み上げて未言にするという手法は、未言屋店主が特に好んでいたものです。

 今の言葉にも繋がっていくその音は、日本語の美しさを担う要素であり、未言屋店主が日本語を好きな点の一つでもあるので、当然の振る舞いではありますが。

「そして、くくみうたの意味の本義とされたのは、なにを隠そう子守歌なのよ。既に生まれてきて腕に抱ける子供へ歌は子守歌と呼ばれるけれど、それならこれから生まれて来るお腹の中のまだ見えない子供に母親達が自然と口遊くちずさむ愛情にはどうして言葉がないのか、ってね」

 そこで、それを表す言葉がないなら自分で作ってしまえばいい、と実践したのが未言屋店主という存在でした。そこにあるのに、ないように扱われるなんて、我慢が出来ない人だったのです。

「子守歌とくくみうたは、言葉としての大元が同じ……あ、だから、地続き?」

「ええ、そうよ」

 教えの皮切りにした言葉の意図を知弦が確かに理解してくれたという事実に紫月はとても嬉しくなります。

 それではたと思い出したものがあって、すくっと立ち上がりました。

「ちょっと待ってて」

 それで一言だけ残して、紫月はさっさと縁側から立ち去って家の奥へと行ってしまいました。

 ぽつんと取り残された知弦は目を白黒させて呆然と紫月の背中を見送ったままに顔の向きを動かせません。

 暫くもしないうちに、家の中からどたばたと何かを引っ繰り返すような音が縁側まで響いてきました。

「未言屋はなにやってんだ?」

 この騒音には黙って栗を摘まんでいた直哉もつい声を上げてしまう程です。

「あったあった、あったよー」

 良く見えるように紙の束を掲げて、にこやかに戻ってきた紫月ですが、何を探しに行ったのか、そもそも探し物をしに席を立ったのすら知らなかったので、無邪気さを売りにしている知弦も今回ばかりは戸惑っています。

「えっと、ね、これ。ここ」

 そんな知弦の動揺をまるで無視して紫月は肩をホッチキスで止められた紙の束を捲って、ある一点を指差して知弦の目の前に持ってきました。

 そこには短歌が並べて印刷されていて、その短歌の一つを知弦に読んでほしいようです。

『たらちねの母の積みゆく含み唄ああして僕もできたのだろう』

 たった一行の短歌に、上に名前と何かのIDが、下にハッシュタグが二つ添えられていました。

 その名前に知弦は覚えがあって瞳孔が大きく黒を広げます。

「桜枝巧……この人、未言のもう一人の祖」

 知弦の知識が全く正しいので、紫月は悠然と頷いて返します。

 それは未言屋店主をして、自分の知らない未言の一面を多く見付けて自分を驚かせたと言わしめる存在で、草創期に未言屋店主に次いで多くの未言を文芸作品に仕上げた人物なのです。

 その彼人が詠んだ歌に、知弦は改めて意識を注ぎます。

 すると、ああ、と知弦の喉から息が吐き出されました。

 それからお腹を撫でながらくくみうたを歌うお姉ちゃんに対して抱いていた感情が、始めて言葉になって知弦の胸に満ち溢れて息を詰まらせます。

「ああして、わたしも」

 その後の言葉を知弦は声に出来ませんでした。

 先程、紫月から教えてもらったくくみうたと子守歌の正体を深く深く実感を持って想います。

 その正体は、命を包んで育てる慈愛。

 その愛情に包まれてきた時の、意識もなかった自分の記憶にもならない思い出が、今もう一度知弦の命の全体を柔らかく、けれど力強く包み込んでくるのです。

 それは羊水の中で息苦しく思いながら微睡んでいた胎児の時の記憶で、喉が張り裂けそうなくらいに泣き叫んで自分を愛せと親に訴えていた赤ちゃんの頃の記憶で、今、月の光に暖かさと麗しさを感じる知弦自身の想いであるのです。

 ああ、だから、わたしはあの光景を見て、くくみうたと呟いたんだ。そんな自分の本心を今更ながらに教えてもらって。

 知弦はもう一度、紫月が差し出してくれた短歌を、一文字ずつ、ゆっくりと指で辿っていきます。

『たらちねの母の積みゆく含み唄ああして僕もできたのだろう』

 この歌に触れる度に、きっとわたしは、わたしが出来上がっていくように注がれた愛を思い出すと確信して、知弦は胸と喉の奥が熱いくらいに温まるのでした。


未言源宗『くくみうた』完

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