『光冷ゆ』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
それは
それだけに
その真ん中で振袖にパンジーの紫の花を咲かせ、芒色の狐の毛皮を襟巻にした女性が空を見上げて立っていました。
氷点下を下回って体の芯から凍らせるような
普通の人なら寒さに震えてしまうような厳格な世界で、微動だにしていない彼女が月と雪と星の光に照らされて仄かに立ち姿を浮かび上がらせていると、何だか冬に満ちる光を吸い込んで行っているようにも見えて、きっと神秘の住人なんだろうと思ってしまいます。
ただ彼女の口から立ち上る白い息だけが、確かに生きている者なのだと教えてくれるばかりです。
浮世離れしたこの冬の精霊かいっそ神霊にも見間違えてしまうこの女性は
「おや、宗主様。おはようございます」
やがて地球が巡り太陽の光がようやく山の稜線を描いた頃、彼女に落ち着いた老婆の声が届きました。
紫月が振り返れば、そこには小さな女の子が杖の代わりと老婆の手を引いてまだ黎明の遠い夜闇の中を歩いてきておりました。
老婆の方は紫月と顔見知りでしたので、紫月は自然と微笑みで相貌を崩して神秘的な雰囲気をさらりと脱ぎ捨てて、人間っぽさを醸し出しました。
そして挨拶を返そうと口を開きかけた時に、老婆の介助をする子供が人差し指を紫月に突き付けます。
「不審者」
端的にずばりと言葉少なに言われて、紫月は開きかけた口をきゅっと結びます。こんな冬の、下手をすれば狸だって凍死してしまいそうな一番気温の低い早朝に、首に毛皮を巻いているとは言っても手は素肌を晒して冷たい空の大気に伸ばしているのですから、紫月は不審者と呼ばれる自覚がありすぎます。
ぐうの音も出ないで口を噤んでしまった紫月は、どうにも取るべき態度が見付からなくて、結局はにへらと老婆に向けて誤魔化し笑いを浮かべます。
「これ、宗主様に失礼を言うんじゃないよ。すみません、孫が失礼なことを。子供の言うことなのでどうかお許しください」
「いえいえ、わたしが不審者なのはその通りなので」
腰を折り曲げて深く頭を下げる老婆に紫月は申し訳なさが先立って手を振って自分の非を押し出します。
「そうしゅ?」
そして老婆の手を握って支える少女は紫月を指す肩書きが聞き慣れなくて問い返します。
興味を持たれたのが嬉しいのか、紫月はにんまりと笑って猫のように暗闇の中で目をはっきりと見せ付けます。
「はい、未言屋宗主の紫月と申します」
「みことや。知ってる。ママに聞いた」
老婆の娘が未言屋のことをさらにその子供にまで話していると聞いて、紫月は、おや、と驚きます。
紫月が伝え聞くには、老婆の娘は未言屋を強く警戒していて未言屋店主は会う度に睨み付けられていたと言うのですから。
「警察を呼ばなくてもいいくらいの、不審者ね」
少女が力強い声と共に再びびしりと人差し指を紫月の鼻先に突き付けます。
「……まぁ、警察呼ばれないからいいか」
職務質問からの交番に連行されてしまうと、折角光冷えるのを浴びに来たのに一番いい時間を逃してしまうと考えた紫月は、それが免れたというだけで気を抜かしてしまっています。
そんな心が広いんだかずぼらなんだか分からない紫月の態度には、尊敬の気持ちを大きく持っている老婆も苦笑を零してしまいます。
「でもお嬢ちゃんもこんな朝早くにお外に出ているじゃないですか」
紫月は意趣返しというのではないですけれども、人気のない暗闇に出掛けているのは老婆に付き添う少女も同じだと付き返します。
すると少女はムッと紫月を睨み返します。
「あたしはおばあちゃんが死んじゃわないように見張ってるの」
少女の返しに紫月は成程と頷きます。
幾ら何十年と住み慣れていると言っても、高齢者がこんな寒い中に散歩に出て心臓が止まってしまうかもしれません。一人で出歩けば誰にも気付かれずにそのまま凍り付いてしまうかもしれませんが、こうして少女が付いていればすぐに救急車を呼ぶくらいは出来るでしょう。
「それはとっても偉いね」
紫月は心から少女の善行を称えたのですが、少女は子供扱いされたと感じたようでさらに眉の間に皺を寄せて紫月を睨む目付を鋭くします。
けれどそんな不審者扱いも人に疎まれるのも慣れている紫月は、少女の視線なんて気にせずに両手を広げて、たった今、背炙山の平らかに引かれた稜線をやっと乗り越えてきた旭をなるべく多く受け止めています。
少女にはそれが陽溜まりに寝転んで暖を取るふてぶてしい野良猫か、日光から活動に必要な温度を吸収しようとする山の岩場に横たわる蛇のように見えました。
「雪月夜の静かに光冷える空気を浴びるのもいいですが、鋭く光冷える旭に刺されるのも、とっても生きてるって感じがしていいよね」
山と同じように体の輪郭を灼けるような鮮烈な光に描かれた紫月は、やはり神を降ろした巫女か、それともまさに神霊そのものが戯れに人の世に降りてきたかのように見えなくもありません。
老婆はその姿と一日の最初の太陽光とに眩しそうに目を細めて、自らも世界が光冷える煌めきをお裾分けしてもらっています。
少女は深い夜闇に慣れて開いた瞳孔に突如として射した旭の鋭さに、嫌そうに目を眇めて紫月を睨むよりもさらに表情を険しくしてしまっています。
暁の前の緋色の、玉鋼を鍛える炉の火にも似て黄金よりも少し白味の強い眩さが、会津盆地を覆う固い根雪の粒の間を通り抜けて反射し、硝子の世界のように街並みをきらきらと目覚めさていきます。
けれど気温は相変わらず一日の最低をさらに掘り進めていますので、人々はまだ眠りの中、体を起こすために炊く火の煙や水蒸気もまだ見えず、街の空気は光冷えるままに澄み切って透き通っています。
誰もいない、誰も目覚めない、誰もが冬の眠りに身を縮こませている中で、今は紫月と老婆と少女の三人だけが停まったように進む
「まぁ、あちこち煌びやかで綺麗かもね」
ぽつりと、認めたくない負けを惜しむようにして、少女が暁闇を切り裂いていく明けの緋を称賛しました。
けれどそれでは全くもって足りません。この世界で命に授かる幸福は光ばかりではありません。
だから紫月は意地悪い猫のようににんまりと笑って少女の勘違い、もしくは視野の狭さを払拭しようと、両腕を広げたままくるりと回って振袖をはためかせました。
「いいえ、いいえ。煌めくばかりでは光冷える美しさを半分しか堪能していません。それでは勿体ないですし、会津の冬に申し訳ないです」
こんな唇も凍りそうな寒さの中でいきなり饒舌になった紫月に、少女は、なんだこいつ、という警戒を隠しもしないで後退りします。
それでも大切な老婆の骨ばった固く冷える手を離さなかったのは少女の矜持に誇って良いでしょう。
「光が冷える? いや、光って暖かいもんでしょ」
猫だって蛇だって、それから人だって、太陽の日射しから温もりを得て活力を得るのです。
光の持つエネルギーは人を温める、義務教育の中に身を置く少女だって習っている当たり前の事です。
しかしその当たり前を打ち破って世界に潜む神秘の美しさを見出してこそ、未言を伝える宗主の生き様であるのです。
「確かに光はいつも熱を持つでしょう。しかし太陽はこの地球からは遠く、そして光のもたらす熱を立ち昇らせるのには少しばかりの遅れが生じます。いいですか、光は熱よりも早く人に齎されるのです」
それは少女も理科の授業で聞いた事のある話でした。太陽の光が最も多く地球に届くのは正午なのですが、気温が最高になるのはそれから遅れて午後の二時になるというのは、少女自身も学校のテストで解答して丸を貰った知識です。
「光と熱は繋がりを持っていて、しかして別物です。寒さもまた。けれど光と熱が共に人に射し込めるように、光が冷たさをこの身に刺してくる瞬間もまたあるのです」
なに言ってんだ、この不審者、という思いを、紫月に気圧された少女は口にする事は出来ませんでした。
少女の小さな手の先で繋がる老婆は嬉しそうに目を細めて紫月の高説に聴き入っています。
「そう、この肌に、そして瞳に刺して来るの。寒さも、光も。人を射貫くようにして、命を突き穿つようにして。視力を損なってしまうような眩しさ、体温を砕いてしまうような冷たさ、厳しさとは殺しかねない程に美しいもの」
少女の手袋に包まれた指先に触れた光が、確かに体温を奪っていくような錯覚がしました。光が当たった頬が凍り付くような思いがしました。
こんな会津の雪深い寒さの中でも昼間の日射しは確かに温かく少女の体を包んでくれるのに、今この朝の日射しはそんなものとは全く別物なんだと宣うように、矢のように少女の全身を刺して磔にしてくるような心地がします。
警察を呼ばなくてもいい不審者だなんてとんでもありません。警察なんて呼んでもまるで意味がない怪異が目の前にいるだと、少女は体の芯をぶるりと震えさせました。
「深まって行く夜の月と星と雪の光冷える麗しさもとても好ましいけれど、でもやっぱり光冷える景色と言ったらこの黎明の鮮烈で一番凍える日射しこそ美しい。ただ生きるのに良いものばかりを享受していては、そう温もりばかりを求めていては命を止めてしまいそうな光冷える景色の美しさを知ることは出来ないの。時には死に自ら足を向けてこそ見る事の出来る世界の神秘が、確かに現実に存在しているの」
凍えそうな光に両手を目一杯広げて突き刺されながら、けれど吐く息は白く蒸気機関のように立ち上らせて、言葉とは裏腹に命を焚いて頬を
こんな今にも死にそうな寒さの中で僅かばかりとは言っても素肌を晒して燥げる神経が、少女からすれば畏ろしくて仕方ありません。
きっと命の体温を奪ってしまうような凍える光を降り注ぐ神というのは、この人と全く同じ姿で全く同じ言葉を振り撒くのだろうと、少女は確信してしまいます。
けれど、けれども。
少女は老婆に繋いだのとは逆の手をゆるゆると体から離して。
手袋を口で咥えて外して素肌を晒し。
やっと本体の丸みを三分の一ばかり見せた太陽に向かって小さくてつるりとした手を伸ばします。
太陽の最初の光は山の稜線を描くのと同じように、少女の紅葉のような手の輪郭を縁取って僅かに大きく見せるのです。そしてその光の輪郭からは体温が奪われて、凍って行くように冷やされていきます。
その光には微かに、少女の血潮が透けて赤味が掠め取られているようにも見えました。
そして少女と同じように会津盆地を覆う、昼間に融けてそして夜に凍り付いてと繰り返してすっかり固まった根雪の氷も、内側を漉いて跳ね返る光で膨らんでいるのです。
山は稜線からさらに光が垂れ下がってきて雪に埋もれて膨らんで丸まった薄墨に白い姿を顕わにして、放射冷却を万全に行った空は澄み抜けて青く、けれど天紗が薄っすらと白く被さって朝陽の反射板となって光を増やしています。
きっと光冷えるというのはこうやって凍らせるように世界を、その中にいる小さなものも大きな景色も等しく浮き彫りにして、時間を停めるようにして美しさを固めてしまうのを言うのでしょう。
そこで魂が抜けていた少女ははっとして、そんなまやかしを自分に魅せた恐ろしい相手をもう一度睨み返します。このままでは抜け出た魂をそのまま奪われて行ってしまうのだと思ってしまったからです。
少女は自分の分も、そして老婆の分も渡しはしないと気を張って、眼光で拒絶の壁を立てて守るのだと意気込みました。
そんな少女の眼差しに、紫月はきょとんと目を丸くしました。
「あれ? ここはなんて綺麗なのって未言を好きになってくれるところではないのです?」
自分が警戒されるのはどうでも良く思っている紫月ですが、未言は誰にだって好いてほしいと努力しているつもりなので、思ったのとは違う着地点に戸惑っています。
「親子揃って同じ反応をするし、店主様と宗主様も揃って同じやらかしをいたしますねぇ。血筋、と言えばそれまでなのでしょうけども」
ただ一人、老婆ばかりが訳知り顔で何時かの昔と同じやり取りを目の前で繰り広げられて、楽しそうに笑っているのでした。
未言源宗『光冷ゆ』完
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