『畳胼胝』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 まだまだ夏重む暑さが息締めて来る日曜日の昼下がり、街外れに『未言屋 ゆかり』と看板を掲げた店の奥にある畳の部屋に三人の人物が寛いでいました。

 一人は所在無さそうに、付き合いで此処に来た男子高校生で。

 一人は彼の幼馴染でいつもお守りをされている女子高生で。

 そして最後の一人は、その彼女に足を擦られている、この店唯一の従業員である紫月ゆづきという大人の女性です。

「ほわー。先生の足、すべすべだねー」

「なんでわたしは知弦ちゃんに足を撫でられてるのかしら?」

 知弦と呼ばれた女子高生は紫月の足に触れる指がするすると滑るのに感心しきりで、けれどそんな不思議な状況に陥らされた紫月は若い子の手が自分の足に触れているという背徳感も相まって苦笑いを浮かべています。

 そんな女子特有の距離感の近い振る舞いが目に毒なのか、それとも無関心でいるのか、男の子の方は二人の事は視界にも入れずに本のページを静かに捲っています。

 紫月がなんでこんな目に遭ってるのかと問えば、暑くて投げ出されていた素足が艶やかに午后の日射しを滑らせていて、知弦の好奇心を大いに刺激してしまったからです。

 裾に百日紅さるすべりを爛漫にした浴衣は、知弦が摘まむだけでぴらりと足の全てを露わにするような無防備だったのも、要因だと言えば要因であります。

「ねぇねぇ、先生」

「なぁに? ちょっとくすぐったいんだけど」

 知弦は足の甲の一点が気になったようで頻りにそこに指を這わせて来ました。

 そうやって指先で細かく擦られるのは、つまりはくすぐられるのと同じですから、紫月はもじもじと足を引いて、曖昧に表情を萎ませます。

 でも知弦の指は逃げる足に連れて追って来て、放してくれようとはしませんでした。

「ここだけなんだか、石みたいに固いよ? ふしぎ」

 知弦が言うこことは、紫月の足の甲の、ちょうど真ん中辺り、足首から伸びる骨と足の指に繋がる骨が噛み合って山なりになっている箇所でした。確かに紫月のその部分は皮膚が皺を寄せて固まっていて、引っ掻いてくる知弦の爪と比べても遜色ない硬さになっています。

「ごつごつして、なんか感触がおもしろい」

「ああ、畳胼胝たたみだこね」

「たたみだこ?」

 知弦は聞いた事のない言葉を鸚鵡返ししてきょとんとします。

 そして直ぐにはっと気付いて瞳を丸く見開きました。

「もしかして、未言ですか!?」

 そうであったらいいな、とわくわくと目を輝かせる知弦が可愛らしくて、紫月もつられて、くすりと喉を鳴らしてしまいます。

「そうよ。畳胼胝。日常的に長時間畳に正座する人の、足の甲や膝頭に出来た胼胝。礼節を体現して、畳に正座する人は、命が磨かれている」

 紫月は詠うように、畳胼胝という未言とその意味を諳んじます。

 その内容に隅で気配を消していた男子がちらと本から顔を上げて、眉に皺を寄せてからまた本に目線を落としました。

「正座? 先生、いつも正座してるの?」

 今時の女子高生は正座どころか畳に座る事もないので、紫月が胼胝が出来るくらいに正座しているだなんてびっくりしている。

 知弦の周りで胼胝を作るのなんて、剣道部の友達とかテニス部の友達とか、そういう毎日毎日運動をしている友人しかいませんので、いつもお店に来れば寝転がっていたり机にべったりと上半身を乗せていたりするインドアマックスな紫月には胼胝なんて言葉がとても似合わないと思ってしまうのです。

 知弦は悩み過ぎて、そもそも正座ってなに、とまで迷走してしまっています。

「正座は毎朝毎夕一時間ずつしてるよ?」

「え、なんで?」

「なんでって、勤行と唱題を上げてるからね」

「ごん、ぎょー? しょうだい?」

 またもや聞き慣れない言葉が紫月の口から出て来て、知弦はこてんと首を傾げます。

「読経と念仏を上げてるってことだろ。そんなことやってるのか。……やってそうだな」

 そこに知弦の背中に解説を挟んできたのは、男子高生の方でした。彼は紫月の顔をまじまじと見て、普段から奇怪な行動をしているこの未言屋ならそれくらいやっていても納得だと勝手に自己完結している。

「え、先生、そんなことしてるの? なにかお願いがあるの?」

「そうね、世界の平和と民衆の幸福、それと未言でみんなが幸せになる事は毎日祈ってるわよ」

「ほわー」

 知弦はなんだか分かっていそうな分かっていなさそうな顔をして、有り難そうにすりすりと紫月の足の甲の畳胼胝を撫で始めます。

「ご利益がありそう」

 知弦の手付きはもう、有名なお地蔵様を撫でる観光者と同じものになっています。

「ねぇ、ナオも撫でさせてもらったら?」

 そして知弦はくりんと首を捻って、背後の幼馴染にも勧めて来ました。

 すっかり偶像扱いで拝まれている立場になっている紫月は、のほほんと宙を眺めて好きなだけいいよと足を差し出しています。

「え、いやだよ」

 そして話を向けられた彼は心底嫌そうに顔を顰めています。

 知弦は信頼している相手に向けてそんな態度を幼馴染が取っているのに対して、嫌な思いがして、むっとします。

「なんでよ。先生だからきっといいことあるよ」

「だからだよ。自分に都合がいいことが実際に起こるだろうから、こえーんだよ」

 彼からしたら、例え良い事であっても人知の及ばない軌跡が起こるのは恐ろしいんだと怯えているのです。自分に理解出来ないものに恐怖するのは人間の常なのでしょう。

 真に畏れ多いのは、好意がある知弦にしても、親近感を一切懐いていない彼にしても、紫月ならそれくらいの功徳は実際に与えてくるだろうと思っているところでしょう。

「まぁ、男の子だし、わたしの足を撫でるのはどうかと思うよ?」

 紫月はどうにも彼が困っているのが見て取れて、人道の観点から知弦を窘めます。

 知弦はふむ、と頷いて、確かに紫月のすべすべした足に彼が触るのは問題があるな、と思い直します。

「むむ、確かに……じゃあ、ナオの分もあたしがもらっておくね。いつも一緒にいるから、きっとナオにもおすそ分けされるよ」

「はいはい。好きにしろ」

 知弦はそう言って、尚更熱心に紫月の畳胼胝に手を這わせます。

 そして撫でられてる本人である紫月はずっと蚊帳の外で話が進められていて、ちょっとだけ目が虚ろになっている。

「やっぱり偶像崇拝なんて碌なもんじゃないわね」

 拝まれてる方は身動きも取れないし、勝手に崇め奉られるし、しかも結果が出ないと神力がないとか言われるし、ちっともこっちの事なんか考えてくれないと不貞腐れます。

 やはり神頼みだなんて碌なものじゃないから、自分がしっかりと祈っていなくてはいけないと今一度決意を新たにしてのでした。


未言源宗 『畳胼胝』 完

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