『夜鯨』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 夏の終わり、秋の魁、そんな時季の夜の海は一番静かでおそろろしくて、夜鯨よいさなに逢いに行くのに相応しいのだと、なつめは信じていました。

 昼間の残暑はアスファルトに日籠ひこもって、じわりとサンダルを履いた足元から肌に張り付いてきますが、海から来る風は涼しく背中まで伸ばした髪を撫でつけるのです。

 海から一段上になっているコンクリート固めの堤防を歩くだけでも、昼間より重たく響いて聞こえるうねりが海をより近く感じさせます。

 波が防波堤にぶつかり、引いていく、そのリズムに合わせて棗は歩みを進めて、月明かりに伸びた薄い影を海に浸し、いつもの場所を目指します。

 こんな夜半であれば滅多に人のいない入江の薄く海が浸透する磯の広場は、棗が夜鯨との時間を過ごす逢瀬としてとても大切な場所なのです。

「えっ」

 そしてその薄く海が浸透する磯の岩の真ん中に、人の立つ影が見えて、棗はきゅっと胸が締め付けられました。

 滅多にないことが、滅多に起こってしまって、棗は気が動転して指先から凍えてしまいそうで、このまま身外みはずして気を失い、その後に目覚めたらやっぱりそこには誰もいなかったという空想を無意識に脳裏に描きます。

 しかし現実を見る棗の瞳には、波の鼓動に合わせて足を進める程にはっきりと、棗が夜鯨と逢うためにあるその場所に、何者かが立っている景色が映ります。

 棗はたった一人で大切な存在を感じられる場所に、そのときに、自分以外が立っていることが信じられなくて、今にも逃げ出したくなりました。

 なのに心とは裏腹に棗のあしは自分の居場所へとずんずんと進んで行き、磯の岩を器用に渡り、月明かりに仄かに影を浮かべるその人の元に辿り着いてしまいました。

 編み込みの革紐で足を包むグルカサンダルを履き、その足首を晒すくらいの丈でつるりとした月色のスカート、生成りの麻のブラウスはゆったりとして余った生地がふわりと上半身を包んでいて、腰に締めたベルト代わりの葵色のリボンをアクセントにした女性は、海まで迷い込んでしまった泉の精霊のように棗には思えました。

 そうであったなら、ささくれ立ってしまった棗の心も幾らか慰められます。

 その女性は足元でつきざさく海の水面を見下ろして、棗が見かけたその瞬間から足の立ち位置を何度か持ち直しただけで、何をするでもなくそこに立っているのです。

「つきひたす、うみのはるかのひとひらを、あしもとよせる夜鯨しづか」

 泉の中から腕を持ち上げるような淑やかさで、彼女は淡い声を夜鯨に触れさせました。

 棗は、どうしてと息を詰まらせます。

 どうしてこの人は、夜鯨を知っているのかと困惑が棗の動悸に針鼓はりこを刺しました。

 そこまで縺れることもなく、岩を踏み潮を避けて速やかに動いていた棗の足が、場違いな精霊のような人の側に迫るその前に、ゆるゆると止まりかけていきます。

「どうして、夜鯨を知ってるの……」

 昼間の喧騒の中であれば、棗がぽつりと溢した声は雑踏と波の音に飲まれて消えてしまったでしょう。

 しかし鎮闇しづやみに夜鯨の遊ぶ波ばかりが溶ける静寂しじまで、人が聞き逃してきた物事を掬い上げて新たな言葉を生み出していった人物と全く同じさとさを持った女性の耳には、棗が意図せず転がしてしまった声も耳紛みみまぎれて聞き流されることはなかったようです。

 月夜の磯に立つその人は、麻の袖を揺らして棗に振り返りました。

「どうしてと言われても、これでも未言屋宗主ですので、未言は全て知っていますよ」

 涼やかな顔でそう告げた後に、彼女は戸惑いを表情に浮かべます。翻訳をすれば、棗に対して一体誰だろう、こんな時間にこんな場所にいるだなんてどういうことだろう、と言ったところでしょうか。

 しかし棗にはそんな彼女の疑問に取り合う余裕もなく、自分の抱いた疑問が胸いっぱいに溢れていました。

「そんな、未言は、夜鯨はあたしとお母さんだけの言葉でしょう?」

 棗の哀しみ滲む問い掛けに、或いはこれは糾弾とも言えるでしょうか、未言屋宗主と名乗った女性は困ったように笑みを浮かべます。

「いえ、未言は未言屋店主が生み出したものですし、閉じた関係だけでは未言はすぐに滅んでしまいます。その言数ことかずはお二人のものでありましょうが、言霊は誰でも宿せるのが未言の在り方ですよ」

 棗は見も知らない人に急に難解な文章をするすると注ぎこまれて、冷たい水をかけられたように頭が真っ白になってしまいました。

 そのお陰と言っては何ですが、棗は自分が出会い頭に失礼な発言をしたと気付きます。

「あっ、と、ごめんなさい、いきなり変な事を言ってしまって……」

「いえいえ、わたしもいつも変な事ばかり言ってと周りに叱られますので」

 棗が焦って謝罪をすると、未言屋宗主はにこやかに失言を水に流してくれました。

「でも確かに、夜鯨は独りきりの時に、独りきりになりたい時に逢うのにとてもいい未言ですよね」

 未言屋宗主はさらりと垂れた揉み上げを耳にかけて、少し腰を屈めて夜闇に染まる海面を見下ろしました。

 棗もまた息を飲み込んで、足元の小夜波さよなみから辿って遥けき沖の彼方まで意識を浸して、夜鯨の息吹を、大きさを、肌に触れる存在感を探り、確かに自分が夜鯨に包まれていると実感して安堵します。

 このちっぽけな命を飲み込んでくれる宇宙のように大きな存在。

 目に見えず、声は海の波音を借りて、息遣いは夜闇に冷える空気に、ただそこにいるという存在感だけで人の意識を丸のみにする圧迫観が夜鯨の実態の全てです。

 それはこの世界にひとりぼっちでいることを知らしめるようで、ひとりぼっちでいてもいいんだと許されるようで、棗はいつも夜鯨に救われています。

 たった一人いなくなっただけの世界で喪欠もかけたまま、出される手も口も煩わしく思う自分を、唯一本当に慰めてくれる存在がこの世にまだあるのを実感して、涙を零したくなるくらいに幸福になれるのです。

 夜鯨に心を飲まれて貰えると、死の中に浮かんで揺蕩っているような、波の揺り籠で眠っているような安らぎに命を浸していられるのです。

「夜鯨に心が呑まれる心地好さに浸るまではいいけれど、身も呑まれたいと惹き寄せられてはいけませんよ。心と違って人の体は夜鯨の海に身投げして死んでしまえるのは一度きりで還って来れないのですから」

 優しく諭す声に、棗の心臓がびくんと跳ねました。

 何度、臨んだ事でしょう。このまま足を進めて、夜鯨の体である海そのものに体も呑みこまれてしまえば、どんなに幸せになれるのだろうかと。

 そしてその度に、棗の本能は死を畏れ惨めに生に縋り付き、足は竦んで動かなくなるのです。

 こんなにも甘美な死を、心は何度体験してもまた戻れるからと、次を期待して夜鯨と別れて家で眠るのです。たった一度だけしか死ねない肉体の儚さを、なんと物足りないと思ったことでしょう。

 死を想えばこんなにもお母さんの温もりを実感出来るというのに。

 ほろりと棗の目淵まぶちから雫が落ちて頬を伝い、重力に惹かれてそのまま夜鯨に舐め取られました。

「あなたはなんでも知っているんですか?」

 つい、棗はそんなことを思ってしまいました。一度も会ったことがないのに、こんなにも棗の気持ちを言い当てるだなんて意味が分かりませんでした。こんなふうに棗を理解してくれるのは、お母さんと夜鯨しかいないと思っていたのに。

 そう思うと、この精霊は実は夜鯨自身が人の形を作って立っているのかも、と思えて、でもこの人に海は似合わない気がすると棗は思い直します。

「いえ、なんでもは知りません。でも、わたしは宗主として未言の総てをり守るのが役目なので……未言をとうしたところだけは人間のこともよく見えるみたいです」

 月明かりが彼女のはにかみを浮かび上がらせました。

 棗は、胸の内で、ああ、そうかと納得します。この存在は夜鯨そのものではなくて、夜鯨を含めて未言を統べる者なのだと直観しました。

 棗がお母さんから教えられた未言は、夜鯨、小夜波、夢海ゆめみ夢波ゆめなみ、月ざさくくらいですが、目の前の方は棗には想像もつかないくらい多くの未言を知っているのだと感じました。

「わたし、海って嫌いなんですよ」

 こんな時間にこんなところにずっと立っていた癖に、棗の前にいる不思議な存在はさらりと、そんなことを言ってのけました。

 これには棗も何言ってるんだ、この人と訝しく思います。

「でも、夏の過ぎ去った夜の海は好きです、潮でべた付かないし、匂いも薄くて、煩くない」

 つまり、潮風が肌にべた付くのとか、磯の生臭い匂いとか、波や人の騒がしさが嫌いだと宣言したようなものです。

「孤独になれますよね」

 綴られた続きは、ぽつんと宇宙の真ん中で立つみたいに取り残されて、そしてそうあるべきなのだと、そうあるのが一番美しいと思える声で響きました。

「静けさに風虫かざむし水琴みずごとがあるとより静かだと思えるように、孤独にもほんの少しの何かがそこにいるとちょうどいいんでしょうね」

 誰も自分に見向きもしない教室で座っている時みたいに。

 フリースローの瞬間に敵も味方も審判も観客も自分の一挙手一投足を注視している時みたいに。

 自分に触れない他人が溢れ返っている時に人は一番孤独になります。

 それはとても嫌な、そのまま息が詰まって死にたくなるような他人の不躾な手垢に穢された孤独です。

「だから気配だけがそこにある夜鯨は、いい孤独にしてくれるのです」

 小夜波に洗われて、心にまとわりつく色んなぐちゃぐちゃを丸呑みにして、綺麗な魂にしてくれる夜鯨のもたらす孤独はこんなにも美しいと、愛おしいと、心地好いと思えます。

 ひとりぼっちという幸福を許してくれる優しく甘い、心の死をくれるのです。

 棗は、良かったと思いました。

 遠くから見付けた時は、居場所を踏み躙られたようで怖くて恐くて仕方なかったけれど。

 こうして話を聞けて、よかったと思いました。

 大切なお母さんから貰った夜鯨という言葉が、一層大切に想えるようになれたから。

 自分が今まで知っていた夜鯨よりも、さらに美しい夜鯨に出逢わせてくれたから。

 大人はみんなこんな時間にこんな危ない場所に行くのを止めて来たのに。

 ここでこうして夜鯨に逢うことを認めてもらえて、棗は嬉しくなったのです。

「あの」

 だから棗はこの人に聴いてほしくなったのです。

 棗のお母さんがどれだけ夜鯨が好きで、その愛情を棗にどんなふうに共有してくれたかのかということを。

 夜鯨に包まれて、この人に聴いてもらえたら、もっとお母さんが大好きになれる気がしたのですもの。


未言源宗 『夜鯨』 完

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