『灯り憑く』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
竜胆柄の和服に臙脂の袴を履いて、その上下を包むように雪模様が銀糸で刺繍された宵色の羽織を纏った女性が、東京は神田の雑居ビルの並ぶ通りを進んで行きます。帯の柚色がお腹にちらりと見えるのをアクセントにしたその女性が足を踏み出す度に、下駄が乾いたアスファルトを打って良く冷えた空気に浸透してますが、その足取りは五歩か十歩の内に一度ならず止まり、それが返って足音が足音ならず何かの演奏のようにも聞こえます。
しかし人の耳には軽やかに聞こえる音を踏む彼女は眉尻を下げて弱り顔でした。
「うぅ……ここはだれ、わたしはどこ……」
彼女はきょろきょろと雑居ビルの壁を見上げて、スマートフォンに視線を落とし、地図アプリを拡大したり縮小したりして頑張って現在地と目的地を一致させようとしていますが、今日は地図を読む能力が低い日らしく段々と泣き顔に近付いていきます。
しばし呆然と彼女が立ち尽くしているところに、スマートフォンが振動して着信を伝えてきました。
「はい、
『お疲れ様です、先生。岡本です。もうすぐ時間ですけど、もしかして迷いました?』
「迷いました! 助けてください!」
紫月と名乗った彼女は、約束の相手からの電話に恥も外聞もなく縋り付きました。
岡本と呼ばれた男性も何度も同じことがあったので慣れたもの、紫月にそこから動かないように厳命してから、左右のビルに掲げられた看板を読み上げさせて居場所を探ります。
紫月は極度の方向音痴の上に、背の高い建築物が犇めく都会の情景に慣れてなく、さらに地図をちゃんと読める時と読めずに道に連れて行かれる時とまちまちで、要はその時々で迷子になったりならなかったりするという厄介な素質を持っているのです。
それを理解している岡本は面倒がることもなく、紫月を見付けてくれました。
「紫月先生、だから駅で待ち合わせしましょうかって言ったんですよ」
岡本に苦笑いを浮かべて呆れられて、紫月は面白くなさそうに頬を膨らませます。前に来た時は頑張って一人で辿り着けたので、今度も平気だと思っていたのです。
「この辺、ビルが増えたり移動したりしてません?」
「してませんよ。入ってる店は入れ替わってたりはしてるかもしれませんが」
「むぅ」
紫月は釈然としないで不満を募らせますが、狂っていたのは街並みではなくて紫月の方向感覚なので文句を言おうにもそこに正当性はありません。
岡本に連れられて、紫月は目的のビルの階段を昇り約束していた部屋に入りました。
部屋の中は暖房が掛けっ放しになっていて、もわりとぬくい空気を玄関に立つ紫月に吐きかけます。
「あつ……」
道に迷って歩き回ったのもありますが、元から雪国で生まれ育ち今もそこで暮らしているのに加え、冬のしんと身に沁み入る寒さを好んでいる紫月には、氷点下手前の気温でも震える都会の人のちょうどいい気温はそれなりの不快を感じさせます。
「この寒空の下を迷子になっていたのに、紫月先生は本当に寒さに強いですね」
「わたしからしたら、雪が降らないなんて冬じゃなくて秋ですよ、秋」
「雪なんて降られたら困りますよ、電車止まるんですから」
それぞれの季節感を交差させている間に、岡本は奥に引っ込んでお茶の準備を始めます。
呼び付けられた側である紫月は部屋の中に用意されていた椅子に腰かけ、トレニアの上に用意されていたお煎餅に齧りつきました。
少し待てば出て来たお茶を啜り、一心地吐きます。
「岡本さん、いい歳した男性の割にこういうの手慣れてますよね」
「女の子にばっかりお茶汲みを任せていると、その若い子達が怖いんですよ」
それなりに立場のある人なのに、そうやって腰が低いのは美徳だなと紫月は思います。彼女が緑茶を好まないのを覚えていて、煎茶を出してくれるのもありがたい限りです。
「すみません、早速なんですがこれが今回の資料です」
岡本が鞄から出した紙の束を紫月は手元に引き寄せて一枚ずつ目を通していきました。
「今回はなんというか、随分と中身が少ないですね?」
「ええ、はい。企画案を上に上げるに当たって、まずどんな未言が出せるのかというのを確認したいという段階ですので」
未言。それは未だ
かつて未言屋店主と名乗った人物を中心にして創られた造語群であり、それまでも世界に確かに存在していたのに、それまで言葉として表現されていなかったものへ与えられた言葉達。
そして岡本は、その未言をモチーフにしたソーシャルゲームの開発と企画を担う人物なのです。
対して、紫月は未言屋宗主として、未言屋店主の創作した未言のそのままを保全し伝えていく、謂わば正しい未言を判別するのを使命としています。
他の多くの作者がそうしたように、岡本も未言を扱うに際して、その監修を紫月に依頼しているのです。
そして今回は岡本が考えているゲームのシナリオ、そのテーマに相応しい未言を見繕ってほしいというのが紫月を呼んだ理由です。
「今回は光と闇の対立がテーマなんですね。なるほど、光が闇を侵略するというコンセプトは新しいですね」
岡本が次のシナリオに選んだのは、光の軍勢と闇の軍勢が争うという、それだけ見れば王道な設定です。しかし光の側が闇を駆逐しようと侵略を行っている、つまり光が脅威であり闇が防衛の立場となっていました。
プレイヤーも闇に味方をして光を退けることがクリア条件となります。
紫月にはその闇の陣営で中核となりプレイヤーがガチャで引ける未言と、シナリオを進めれば確定で取得出来る配布の未言という、シナリオの肝になる二つの未言を選んでほしいということでした。
「まだ、どうして光が闇を駆逐したいのか、その行動原理は決まってないんですね」
「はい。先生に選んでもらった未言を軸にその辺りの設定も築いてから、シナリオ作成をライターに依頼するつもりでして。このシナリオの実装も来年の秋頃を予定しています」
本当にまだまだ先の仕事の始まりの始まりで呼ばれたのだと紫月は理解しました。そしてふと、こんな早い段階で呼ばれた時のその後の展開を思い返して不安が過ぎり、でもそれは表情に出す前に流して、まずはお願いに応えようとします。
光の未言も闇の未言も数多くあります。その未言一つ一つの持つ物語を、その欠片を紫月は思い浮かべてゲームのシナリオとして整合性が取れるように組み合わせ、組み立てていきます。
「闇は侵略される側、なぜ攻められるのか……闇の領域は暗く静か、昼に生きる者には活動を休めるところ、逆を言えば活動を制限される。不夜城とは眠らずに活動する者の住処、闇を追い払うことで活動出来る時間が増える。ならそれは……人が利用できない森林を切り開いて街を作った開拓と同じ?」
紫月は思い吐きをそのまま途切れさせずに思考を流れる川のように進めていきます。
岡本は聞き取れた内容をメモに取りながら、紫月の思考が一つの答えに行き着くのを黙って見守っています。
「つまりこのシナリオの光の陣営の思想は、人の活動、それも資本主義的なとにかく利益を増大させるのを第一目的にしたもの。なら光に与する存在は人工的な光がメインになる。街灯、イルミネーション、栄光、スポットライト……未言なら、
紫月はさらさらと今回のシナリオに出て来る光の考察を進めて、未言を幾つか並べました。
岡本はその隙間に差し挟まれた『未言に人工の煌びやかな光は少ない』という事実になるほどと得心します。未言屋店主の奈月遥はあからさまな自然主義者で、自分の肉体は人であっても、自分の精神と魂は人間ではないと平然と宣う人物でした。人の作った社会通念よりも自然の理を是とする思想を持っていました。
未言にも人の造り出した街や機械、新技術に関わるものもありますが、それらも人が見逃していたもの、目を向けなかったものから生まれたものばかりです。
それもその筈。そもそもとして未言とは、今まで誰にも言葉とされずに見向きもされなかった物事を言葉にしたものなのですから。
「あ」
岡本がそんな未言屋店主の人格について想い耽っていたところを、紫月の未声がその意識を引き戻しました。
何かを思いついたらしい紫月の言葉を聞き逃すまいと、岡本はトレニアの上に身を乗り出します。
「ああ、うん、それなら面白いかも」
「面白いんですか、先生」
面白いと言われたら岡本も黙ってはいられません。だって彼は面白いゲームを作るのに人生を費やしてきた人なのです。
「きっと面白いです。プレイヤーさん、初めは光の側で行動するとかどうです?」
お、と岡本は目を開きました。先に接触した方が悪意や害意のある側だけれど、そこにある正義や一般人の振る舞いからプレイヤーはその行動を善意だと、その陣営を守るべきものだと思ってプレイしていって。
しかしシナリオを進める内に、『真実』が明らかになって自分の行動が悪に加担するものだったと気づいてしまうのです。自分が攻撃してきた相手に考えなしの行動を非難され、自分の罪を認め、そして本当に迫害されていた方へ味方するために立ち位置を変えるのです。
ゲームのシナリオとしてとても盛り上がる展開の一つだと言えましょう。
「そうすると、闇は自然の中のものになりますから、夜や鬱蒼とした森を背景にするといいんじゃないですか。未言は、うん、
鎮闇とは、光や音を飲み込んでしまったかのような、静かでそこにあるものの存在感を喪失させている深夜の闇、という意味の未言です。
この未言を闇の方のトップに置けば、光が闇に向かって攻撃を仕掛けているのも一見すると大儀があるように思えるでしょう。初見のプレイヤーを乗せるのにこれほど勘違いを誘発してくれる未言もそういません。
紫月は自分の出した案に対して満足そうに頷いています。
「鎮闇って色んなものを無効化しそうな未言ですよね」
「強キャラだからガチャが捗りますよ。ばっちりですね」
岡本もすぐにキャラクターデータの傾向を口に出したのですから、いつか実装しようと考えていた未言の中に鎮闇もあったのでしょう。
夜闇の更に深みに位置する鎮闇は如何にもファンタジーで高い能力を持った存在として説得力があります。
「それで配布の方ですけど、最初は光の方で最前線に投入されて酷使されてて、後から闇の陣営に協力するような、光と闇の両方の意味を持った未言だと、プレイヤーとずっと一緒にいられていいと思うんですよ」
「光と闇の両方の意味を持ってるなんて、いくら未言でもそんな都合のいいのあります?」
岡本が今回のテーマで光と闇の対立を考えたように、その二つは相反するものと言えます。いくら未言に複雑で複数の意味を一つに仕上げたものが多いとは言っても、光と闇程掛け離れたものを両方内包しているものがあるというのは、岡本には疑問に思えました。
「え、ありますよ。例えば、月関係の未言はみんなクリアしてますよね」
しかし未言の本質と元型を現在に伝える未言屋宗主は、あっけからんと実例を携えて普通の感覚を打ち破りました。
月は夜に上がるもの、そして闇夜に光を
「でも今回の光を人工のものにするなら、月という自然の光は合いませんね。それにもっといい未言がありますし」
「紫月先生、その未言というのは?」
未言屋宗主に未言の提案で勝てるつもりはさらさらない岡本は、焦らす紫月に続きを促します。元々、岡本は紫月にシナリオに相応しい未言を教えてほしいとここに呼んだのですから、なんの負い目もそこにはありません。
紫月は目を細めて笑みを浮かべてその未言を宣言します。
「
「あ、ああ!」
灯り憑く。灯りを落とした後に、残光や常備灯が維持されてぼんやりと光っていること。
光でありながら、暗闇を招かれた後にこそ現れる、そんな未言です。
その灯り憑くを出されて、岡本も納得と驚きで意味を持たない感嘆を上げるしか出来ませんでした。
「灯り憑くでしたら、暗闇の中、光の届かない敵陣の奥深くに切り込む役目も果たせます。光の陣営の戦力がほとんど届かないところへプレイヤーと共にゲリラ的に攻勢を仕掛けるというので、初動もすんなり行くんじゃないですかね」
「いいですね、それ。どんなに光が強くても闇の深みには手を出せない、そこを打開するというのは説得力がありますし、そこで闇の方とも接触出来て相手の真意も聞く機会が出来て後の展開にも繋がりやすい」
灯り憑くという現象には闇が必要ですから、灯り憑く自身も闇を完全に駆逐するのを望まないという展開にも出来ますし、光でありながら闇を必要とする灯り憑くを他の光が快く思っていないという設定にも出来ますし、なんならプレイヤーに説得をさせてもいいです。
灯り憑くは、ぼんやりとした光で人知れず存在している、かといって他の存在を飲み込むのでもなく、他の光や闇があれば自分の方が飲まれてしまうと、性能は自然と鎮闇に比べて落ちますが、逆に配布キャラとしてはバランスが取れるので利点になります。
「さすが紫月先生ですね。相談して良かったです。灯り憑くは思い付かなかったなぁ」
「お役に立てて何よりです」
どうにか呼ばれた分の仕事は果たせたと見て、紫月はほっと一息吐いてお煎餅に手を伸ばして個包装を破りました。
「それで、先生、物は相談なんですが」
岡本に話しかけられて、紫月はぱきりとお煎餅を咥えて齧り折った姿勢で固まりました。
とても嫌な予感がして動けず、舌に触れたお煎餅に唾液を吸われて口が乾いていきます。
お煎餅を咥えていて喋れない紫月の機先を制して、岡本は相談の内容を告げました。
「このシナリオ、紫月先生に書いて欲しいんです。お願いします」
ぐしゃりと、紫月の口の中でお煎餅が粉々に砕け散りました。
紫月もほぼ白紙に近い企画案を見た時に薄っすらと懸念はしていたのです。そういう時は大体、未言はこれがいいと言った後に、シナリオを書かされてきた前例がたくさんあると。
「ほぁあああああ!?」
お煎餅を噛み砕いて飲み込んで、と遅れて出された紫月の絶叫はとても間抜けな響きで部屋の中へと押し出されました。
「いやだって、シナリオの展開全部が紫月先生の発想じゃないですか! この通り! お願いします!」
岡本は誠心誠意、トレニアに額をくっ付けて紫月に懇願します。
そうまでされてしまったら、紫月にはとても知らんぷりなんて出来ないのでした。
未言源宗 『灯り憑く』 完
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