『雪の澄む』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
葉の落ち切った枯れ木ばかりになった山に四方を囲まれた盆地は、冷気が窪みの底へ降りて溜まるために、十一月にはもう酷く寒いものです。
身を切るような風から逃れるように彼女は店の奥、畳の部屋に置いた炬燵に足どころかお腹まで入れて暖を取っていました。
炬燵の天板には色鮮やかな組紐が散乱していて、彼女は羽織った袢纏から出した手で淡路結びを結い重ねています。
この寒空の下ではお客さんも一向に来ないような寂れたこの店は『未言屋 ゆかり』と看板を掲げておりまして。
この店でのんびりと日々を過ごしている彼女は、その名を
紫月はふと手を止めて視線を窓の方へと向けました。何を察した訳でもなく、ただなんとなく、そろそろ外を見ると美しいものがあるかもと思い至っただけなのです。
けれど彼女の体内時計はなかなか敏感で、窓の向こうには
紫月は炬燵の電源を切ってから、竜胆色に雪模様を散らした小紋の着物、それから京鼠の袴を引き出して立ち上がります。お腹に差した月光のように淡い黄色を隠すように袢纏の前を袷せて寒さを遮り、長く座っていて痺れた足取りでふらふらと、時折戸枠や棚に手を付きながら、紫月は店の入り口をからからと開けて外を覗きました。
晩秋の、霧に洗われた朝のような澄んだ水の香りの外気を吸い込むと、肺の中が浄められているような心地がしました。
「もう、
まだ四時でありながら景色の彩度を損なっている空の下で、紫月は瞼をしっとりと閉じて、かき氷を口に入れた時に広がるのと同じ冷え切った香りを楽しみます。
「あれ、店の人いるじゃん」
「ほんとだ」
そんな紫月の至福はほんの一秒も経たずに人の声で破られてしまいました。
紫月は緩慢に声の方へと顔を向けると、そこには随分と厚着をした二人の若い女性がいまして、一目見て地元民じゃなくて観光客だろうと察します。
「あら、まぁ……」
口振りからして、お客さんらしいと気付いて、紫月は愛想笑いを浮かべました。人は間違いをすると、つい笑ってしまうものです。
さて、どうしようかと、紫月が頭を悩ませていると。
二人組の片方、ふんわりとした髪の女性が紫月の前に足を伸ばして来て、にこりと笑顔を見せました。
「あのお店の中見せてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろん。どうぞ」
さらりと距離感を詰めて来た彼女に、人馴れしていない紫月は内心の動揺を表情に出さないように努めて、店内へと二人を促します。
声を掛けてきた彼女はほわほわと足取り軽く店の中へと入っていき、もう一人の連れ合いの背の高い女性は折り目正しく紫月に会釈をして姿勢正しく店に足を踏み入れました。
紫月は他にお客さんがいないか一応首を左右に巡らせて確認してから、店の戸を閉じました。
「お茶を淹れるので、好きに見ててくださいまし」
紫月は一声掛けて、二人の返事を聞く前に奥へと引っ込んでしまいます。
「あ、お構いなく」
背の高い彼女の声も、さらりといなくなった紫月の背中を追いきれずに、尻すぼみに店内に解けて消えました。
田舎者の習慣としていつでもポッドにお湯を満たしていた紫月は、数分と経たずに細い口の先から湯気を立てる急須と三つの湯飲みをお盆に乗せて返ってきます。
その間に、ふわふわした彼女は狭い店に飾られた品々を興味深そうに見て回っていて、もう一人の連れ合いの彼女は窓際に備えられたテーブルに腰を落ち着かせていました。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
紫月が三つの湯飲みにお茶を注いで、その一つを座っている彼女に差し出すと、やはり丁寧に頭を下げてお礼をくださいました。
「由美、お茶をいただいたよ」
「あ、うん。ありがとーございますー」
連れ合いが声を掛けると、由美と呼ばれたふわふわした彼女は、雲のようにするりと棚の影からテーブルまで移動してきます。
彼女がやって来るまでに、先に腰掛けていた彼女は湯飲みを口にして、ほぉ、と息を吐きます。
ありふれた煎茶ですが、それが却って飲みやすく、気持ちを落ち着かせます。それが十度を下回りそうな外にずっといて冷えた体で口にすれば、なおさら身も心も温まるものです。
「素敵なものがいっぱいですね」
友達の横の椅子を引いた由美は、腰を降ろしながら和やかに紫月に語り掛けました。
飾り気のない言葉がなんとも嬉しくて、紫月も頬を緩めてしまいます。
「待ってて良かったね、香奈」
「そうだね」
二人が仲睦まじく目を交わして微笑み合うのを前にして、紫月はなんだかこそばゆくなりました。後はご自由にとまた奥に引っ込みたいけれど、唯一の店員としてそんな不作法も出来ません。
「ここは雑貨屋ですか?」
香奈と呼ばれた彼女の方が紫月に訊ねてくるので、紫月はやはり逃げの手を失います。
飾り紐、硝子細工、写真、サイダー、コースター、壁に掛かった大きな絵画は他と毛色が異なりますが、香奈は店に並ぶ商品を不思議そうに見渡しています。
紫月は居心地の悪さをどうしようかという思考を一旦は中断させて、問い掛けに応えました。
「そういうジャンルでいうなら、ここはクリエイターズショップですね。本質としては、未言の具現を扱っております」
「みことの、ぐげん?」
紫月が述べた説明を聞いて、由美の方が鸚鵡返しをしました。聴き慣れない言葉に上手く漢字を当てられなかったようで甘やかな響きで声の音だけをなぞっていました。
まぁ、初めて聞いた人は大抵似た反応をしますから、紫月も慌てずに鷹揚に頷き返します。
「未言とは、
「未だ、言葉にあらず――」
今度は香奈の方が反芻するように紫月の言葉を繰り返します。
まだ言葉でない。解るような、解らないような言葉です。
「未言を産み出した人は、こんな説明を付けています。『まだ世界に定着していないお手製の造語。いつか、たくさんの人に使ってもらえる言葉となりますように』」
「お手製の造語……お母さんの手作りみたいな感じがして、なんだかあったかいですね」
ほわほわと由美が感じたままを言葉にして、香奈は包み込むような眼差しを彼女に向けました。
紫月もまた大切なものを、柔らかな手付きで撫でるように触れてくれる由美に嬉しさを感じます。
「そのお手製の未言? ていうのをテーマにしたものだから、ここにあるのはみんな優しい感じがするんですね」
由美はさっきまでまじまじと見ていた店の作品達をもう一度見渡して身を揺すります。その動きに連れて、ふんわりとした髪もゆさゆさとそよいでいました。
「さっき言ってた雪の住むっていうのも、未言なんですか? 雪が空気に住んでるだなんて、雪国の人は妖精みたいなこと言うんだなぁって思ってたんですけど」
紫月はさっきの独り言の呟きを聞かれていたのだと知って、目を丸くしました。人の言葉を零さずに聴き拾うだなんて、彼女はふわふわした見た目や仕草に反してとても
だから紫月は心が跳ね出して、そっと席を立ち、傍らの窓を開け放ちました。
夜に向けて
そんなまた一段と雪の澄む空気を中へと招き入れて紫月は未言を二人に伝えようと思ったのです。
香奈が微かに眉を落として上着の上から腕を擦ります。
正直な態度に紫月はくすりと笑ってから、声を紡ぎました。
「Snows live in this airではなく、Snows clear this airなのですよ」
紫月は神託を受けた巫女のように外を向いたまま言葉を二人に送りました。
その言葉を聞き入れて、由美はくりんと香奈に目を向けて訴えます。
「香奈、訳して!」
「由美、君は英文科だろう……」
「なんちゃってだもん。あと文章専門です」
大学生らしい二人の攻防、というか香奈の嘆きはさておき。
「Liveの住むじゃなくて、Clearのすむ……綺麗にする、浄化するという意味合いの……そうか、澄み切るのような意味での、澄む、ですか? 文語的な用法かな」
「はい、そうです」
差し出したヒントから答えに至った香奈に対して、紫月は教授のように正答だと告げました。もっとも紫月は口にした言葉をヒントではなく丸っきり答えだと思っていたのですが。
そんな認識の齟齬はいつものことなので、紫月も慣れたもので話を進めます。
「文語というか、古語ではありふれた語形が現代語では縁遠くなったものですね。そもそも文語と口語、古語と現代語の区別については物凄く言いたいことがたくさんありますが、まぁ、止めておきましょう」
紫月がすらすらと述べる解説を受けて、それこそ由美が大学で専門外の講義に間違えて入ってしまった時のように乾いた困り笑いを浮かべていました。
その顔を見て紫月も脱線ではあるかと思い直して、澄むという言葉の所属については不問にします。
「雪は白く、積もった雪は音を呑み込んで静けさをもたらし、冬の大気は塵や汚れが少なく青空は澄き抜けて美しい。冷えた日本酒は雑味がなくなり、キンと口の中を透き抜けます。雪とは浄化の振る舞いをするのです」
香奈は悩ましそうに眉を寄せて、由美はきょとんと瞬きを繰り返しています。解るような、解らないような、未言というものを教えられた時と同じ感覚に二人は囚われました。それもその筈、雪の澄むもまた未言の一つなのですから。
「この冷え切った空気に、氷の香りを感じませんか? 吸い込めば心まで綺麗になってしまいそうな爽やかで、けれど穢れを許されないような厳しさもある、そんな美しい香りを」
紫月に流し目を送られながら語り掛けられて、由美と香奈は揃って窓から入り込んで来る冷気、それを孕んだ空気を肺一杯に吸い込みます。
二人が大学に通う街であれば、もうとっくに真冬の気温に冷やされた空気は、キンと頭を打つように喉から体を冷やし、
けれど紫月にとってはまだまだ秋の送別も終わっておらず、冬の前触れでしかないので、窓の前に堂々と立って涼しい顔をしています。氷点下を越えないのなら、まだまだ冬とは言えません。この程度は袢纏一つあれば、火照る体を気持ちよく冷やしてくれる安らぎであるのです。
それでも、その澄んだ香りは。
霧が洗った後の朝のような香りは。
雪が積もった夜の浄められた後のような香りは。
良く冷えた水の、或いはそれが凍てついた氷の発する聖域に満ちるような香りは。
寒さに慣れている慣れていない、耐えられない心地いい、そんな些細な差別では覆りようもないのです。
雪を視ずとも冬を懐かしむがいいと、冬の女王は美しい季節の訪れを先んじて贈ってくれているのです。
「なんだか、魂が綺麗になってく感じがする。いい香り……ずっと吸ってた空気のはずなのに」
「うん。こっちに来て空気が美味しいって思ってた。でもどう美味しいのか、それは今やっと理解出来た気がする」
由美と香奈が存分に雪の澄む空気を堪能したと見て、紫月はからりと窓を閉めました。
鼻先を赤くした由美も、腕を擦っていた香奈も、物惜しそうに閉められた窓を見て、恨めしそうに窓を閉めた紫月を見ます。
「ずっと開けられたら寒いでしょう?」
でも紫月は意地悪く笑って椅子に腰を下ろして、今の間にすっかり冷えてしまったお茶を飲み干しました。
「それと、雪の澄むをきちんと理解した上ではなら、雪の空気に宿っているという意味の住むもまた意義あるものになります」
一度はそうではないと間違いを指摘された由美が首を傾げました。
期待通りの態度に、紫月の胸の内に喜びが湧き上がって来ます。
「こんなにも空気が美しくなるのは何故か。それは雪が空気に宿って浄化しているからです。目に見えなくとも、まだ生まれて来なくても、雪はもう空気に宿っている。もうすぐ雪が降る季節になる、そんな期待をもって、雪の澄むという未言は生み出されたのです」
命はいつ生まれてくるのでしょうか。その姿がこの世に現れた時でしょうか、その声が世界を震わせた時でしょうか。では胎児の時は生きてはいないのでしょうか、いえ、そんな訳もありません。
命の誕生については、どれほど言葉を尽くしてもたった一言で覆ってしまいます。
けれど、雪については、この雪の澄む香りを感じたその時に、雪は空気に住んでいるのです。見えないまま気温が下がり切らずに失せてしまうのか、やがて時が来れば冷えた空の上で実現するのか、そこまでは未言屋店主にも未言屋宗主にも分かりませんが。
その命の存在を彼人達はしっかりと識っているのです。
「どうしよう、香奈、思ってよりなんだか重いよ。胃もたれしそう」
「私もだ」
紫月からしたらまだまだ語れることは溢れるほどにあるのですが、目の前の女性達はこれ以上の情報を受け止めるのは無理なようです。
初めて未言に逢った人がそうなるのはいつものことなので、紫月はちっとも気にせず、改めて温かいお茶を出そうと急須を手に取って立ち上がりました。
「でも重たいけど……すごく綺麗で素敵だと思う。わたし、好き、かも」
上り框に足を乗せた紫月の耳にそんな言葉が届いて、けれど紫月はにやける顔を振り返りもせずに、
未言源宗 『雪の澄む』 完
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