『蜜雨』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 いろはは肌に雨が触れた気がして、不思議そうな顔をして眼鏡越しに空を見上げました。

 大きなけやきの芽吹きが穂先に柔らかなオレンジを点す空見代そらみしろの向こうにはやっぱり雲一つない初夏の青空が澄み切っています。

 雨の気配がこれっぽっちもない空に向けられたいろはの頬に、またぽつりと雨点あめともった感触がします。

 一体何処からこの見えない雫は降ってくるのかと、いろはは戸惑います。

蜜雨みつぁめが触れるのが気持ちいい。風虫かざむしに揺られてよく降ってるのね」

 そんないろはの耳にどうやら疑問の答えのような声が風に乗って届きました。

 蜜雨、風虫、という聞き馴染みのない言葉にも耳控みみひかえられつつ、いろははその声の主へと眼鏡の内から視線を巡らせます。

 見ればその女性は鉄線の柄が入った浴衣を檸檬色の帯で締めていて、いかにも和風の趣を好む風体をしています。

 浴衣の女性は微笑ましく欅を見上げて、澄んだ眼差しを向けています。

 それは何かを楽しんでいる風情に、いろはには見えまして、声を掛けたら邪魔になるかもしれないと気後れしてしまいます。

 けれど訊かないでいれば自分の胸でくすぶる疑問が解消されないと意を決して、いろはは履き草臥くたびれたローファーを踏み出します。

「あの」

 教室の中ではクラスメイトの雑談に紛れて消えてしまって、いつも聞き返されるような小さな声がいろはの口から放たれました。

 しかし、これでは五歩分も向こうにいる女性に届かないといろはは焦り、こくりと唾を飲み込んでもっと大きな声を出す準備をします。

 そうして一拍空いた沈黙の合間に。

 欅を見上げたままだった女性が浴衣の裾の鉄線を揺らして、きょとんと真ん丸とした瞳をいろはに降ろして来たのです。

 相手の眼差しを思いがけず受けていろはは出そうと決意していた声をごくんと飲み込んでしまいました。

 ぱちぱちと浴衣の女性が瞬きを繰り返していろはを見詰めます。

 そうしてその女性は最後に微かに首を傾げてから、いろはから視線を外して欅を見上げてまた気持ちよさそうに目を細めました。

 どうやら声を掛けられたと思ったけど勘違いだったらしいと結論付けられたのだと、いろはは遅れて気が付きます。

「いや、あの、声かけました!」

 今度は場違いに大声が喉から震えて出て来た、いろははきゅっと口を閉じます。

 不審がられたらどうしようかといろはの背中に冷や汗が噴き出しました。

「あ、やっぱりわたしにご用事ありました?」

 しかしそんないろはの不安を素知らぬ顔で浴衣の女性は軽やかに笑みを見せてくれました。

 なんだか愛想のいい猫みたいに思えました。

「どうされました? あ、こんなかっこしてますけど妖しい者じゃありませんよ。普段着です」

 念押しをされると逆に怪しく思えるのはどうしてだろうといろはは後退りしたくなる自分の足を懸命に踏み留めます。浴衣が普段着というのも変ではありますが怪しいとは言えません。言えないはずだと、自分に言い聞かせます。

「あの、蜜雨って、なんですか? この天気雨と関係あります、か?」

 いろはは天気雨と言ってから、肌に触れる雫の感触が本当に雨なのかどうか分からなくて、上手く伝わってなかったらどうしようかと口の中がからからに渇いてしまいました。

「んー、天気雨というのはだいぶ違いますね。そも蜜雨は気象予報士が言う雨ではありませんし」

 そううそぶきながら浴衣の女性はざりじゃりと草履を鳴らしながらいろはの目の前まで近寄ってきました。

「貴女はこの雨が触れるのを感じているのですよね?」

 女性の問い掛けに、いろははしっかりと頷きました。

 こうして話している間も時折はっきりと肌に雫が触れるのを感じています。

「これは欅の蜜です」

 目の前の女性は端的にその正体を告げました。

「え?」

 けれどいろはは欅の蜜なんて今まで聞いた事のないものを啓示されてとても理解が及びませんでした。

 いろはの戸惑いを見て、浴衣の女性は徐に頷いていろはの気持ちを落ち着かせようと試みます。

「欅は新芽を開く初夏に花も一緒に咲かせます。その花は蜜を弾けさせて散らすのです」

 欅という街を歩けば度々見かける樹の、話にも聴いた事がない生態を教えられて。

 いろはは自分の直ぐ横で大空に向かって立ち、芽吹いたばかりの淡いオレンジや緑の葉を付けた枝でその広い空を覆う欅の大木を見上げます。

 当たり前にそこにいるありふれた樹の、不思議な話にいろはの瞳がじんわりと開いていきます。

「その欅が初夏に降らせる蜜を、蜜雨と未言にした人がいるのです」

 厳かにいろはへ教えを告げていた女性が、最後に何が面白かったのかくすりと声を漏らしました。それは楽しいというよりは可笑しいという感じです。

「でも、蜜雨っていう言葉は初めて聞きました。季語ですか?」

「おや、俳句をしてるのです?」

「いいえ、本で読んだだけです!」

 いろははとんでもないと手を振って女性の追及から逃れます。俳句も読むのは楽しいと思いますが、いろはは自作する程に興味がある訳でもありません。

「でも、蜜雨はまだ歳時記に載ってないはずですね。未言なので」

 女性は、未言、という言葉を強めに発音しました。それこそが大事であると伝えようとするように。

 いろはは、みこと、みことと記憶の中を探りますが、その言葉もまた蜜雨と同じく見当たりません。

「まぁ、未言は季語と類似性は強いですから。あめる――雨が触れる、というのもほら、季語みたいですね?」

 浴衣の裾を少し蹴り上げて弄びながら、女性はいろはの思考が噛み合うのを待たずに論考を続けます。

 いろはは軽くパニックになって思考も身体も固まってしまっています。

「蜜雨、雨が触る、どちらも未言、未だことばにあらざるものとして人知れずに未言屋店主によって生み出された言葉なのです」

 今まで言葉でなかったものを言葉にした、未言屋、という言葉にいろはははたと思い出すものがありました。

 それは此処暫くずっといろはが話し掛けても無視するばかりだった親友が突然して来た電話の中で出て来たものでした。

 親友が言うには『未言屋宗主とかいう変なやつにあった。いろはも絡まれないように気を付けろ』とのことです。どうやらその未言屋宗主という人は親友の家に植えられた椛を眺めていて、浴衣姿で、未言と言う聞いた事のない言葉について語ってくる妖怪か何かに近いものだと教えられました。

 いろはは改めて、まじまじと目の前の女性を眺めました。浴衣を着ていて、未言という聞いた事のない言葉について教えてくれて、欅を眺めている不思議な存在でした。

「もしかして、未言屋宗主さんですか?」

「え、わたしのこと知ってるの?」

 どうやら当たりだったらしく、未言屋宗主こと紫月ゆづきは自分の細い指で自分の顔を指してふにゃんと表情を崩します。

 気を付けろって言われたのに自分から離し掛けちゃったな、といろはは乾いた笑いを口から零します。

「親友から話を聞きまして」

「親友……もしかして髪の毛がピンクゴールドな感じの?」

「そんな感じのです」

 いろはは高校に上がると同時に奇抜なデザインに髪を染めた親友を頭に思い浮かべながら紫月の確認にはっきりと頷きました。

「あー、怒ってなかった?」

「不審者扱いはしてました」

「しょっく」

「彼女、警戒心が強いので」

「よかった、警察呼ばれなくて」

 警察を呼んだ場合、目の前の浴衣の女性よりもパンクなファッションの親友の方が連れて行かれそうだから呼ばれないと思う、とはいろはからは言えませんでした。

「でも、雨が触れるってそんな新しい言葉でもないような気がしますけど」

 それこそいろはだって、蜜雨の感触に、肌に雨が触れると思ったくらいですから。

 けれど紫月は妖艶に微笑んで大人の余裕を見せます。

「ただ雨粒が接触するという意味で使えばそうかもしれませんが、雨が触るという未言のみょうは、人がどんな時に雨が触れたと思うかという点を極めたところにあります」

「どんな時に?」

 どんな時にも何も、それこそ雨粒が肌に触れた時だといろはは思いました。

 むしろそれ以外にどんな時に雨が触れたと人が思うというのでしょうか。

 しかし、未言屋店主が着目したのは、それ以外のどんな時に、ではなく、その中でどんな時であれば、だったのです。

「雨の存在を人が認識する時、まず聴覚が最初の入り口になります。雨とは音から存在を知られるものであるのです」

 屋内にいる時、傘を差している時、雨に降られて濡れている最中でも、人が一番強く雨の存在を知るのは雨音からです。

「それから雨があると知って人は雨を窺うように見るのです。出歩けば濡れるのか、早く止みそうなのか、洗濯物はこの後干せるのか、雨の雫を影の暗きに見て、もしくは雨の雫に跳ね映える光に見ます。しかしながら音で聞き、目で視ている間、人はその身に雨が接触していても触れているとは思考しません。存在が明らかになっている雨がその身に降るのを、人は雨に打たれるというのです」

 雨は触れていても、その接触を触れるとは思わず、雨に打たれると考えている。改めて言葉にしてみれば何ともちぐはぐな気持ちになりますが、確かにそちらの方が正しい日本語だといろはにも思えました。

「では人が、雨が触れていると考えるのは何時如何なる時なのか。それは雨の存在が明らかでない状況で肌に雨が触れた『気がする』時なのです」

 あ、といろはの思考に意味になれなかった言葉が湧き出ました。

 いろは自身、さっき肌に雨が触れたと感じた時は、雨が降っているとは思えなかった瞬間だったのですから。

「雨の降り始め、霧雨よりももっと細かく少ない雨、あるかどうか音もなく目にも見えない微かな雨の存在を肌でしか感じられない時に、人は雨が触れた、と考えるのです」

 まるでこの蜜雨を浴びる時のように。

 曖昧で気のせいにも思える雨の存在を感じられるのは、聴覚でも視覚でもなく、触覚なのです。

「けれど、人はそのあるかないか分からない雨が肌に触れてそうだと知れることを、言葉にしてこなかったでしょう?」

 そう突き付けられれば、はい、仰る通りです、としかいろはには考えられませんでした。

 確かにその意味での、雨が触れる、は辞書の何処にもなくて、でも人が自然に思っている、言葉になっていなかった言葉であると信じられます。

「そして蜜雨はいつとても、雨が触れることでしか人に知られぬのです。まるで分かりにくい誰かの、表現が真逆な優しさみたいに、ね」

 降っているのに、降っているのかどうか分からない優しさ。

 それをいろはも知っています。それを優しさだと感じられたからこそ、いろはは絆を結びたいと思ったのですから。

「ちなみに、蜜雨ってけっこうベタベタするんですよね。この時期の欅の下に車を停めてると割と悲惨なことになりますよ」

 最後に未言屋宗主はおどけるように笑います。

 確かに、いろはの眼鏡にも此処に来る前になかった汚れが点々と浮かび上がって視界を損ねていました。

 そう言えば、照れ屋な親友もどんどん過保護になっていって、いろはからしてもうんざりするくらいに纏わりついてきたのを思い出します。

 そんなところも、欅という意味の苗字と長雨という意味の名前を持つ親友は似ているのだなと、不思議な符合にいろははこっそりと可笑しく思ってしまうのでした。


未言源宗 『蜜雨』 完

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