『雪月夜』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 降り、積もり、日に当たり、風にならされ、夜に眠るように凍て付いて。会津の雪はそれを繰り返して、平らかに広がります。

 田んぼや畑は、道路と違って人も立ち入らないから、尚のことです。

 そしてその平らかに広がり景色を覆う雪が、月と星の明かりを滑らせるように反射させて、静謐せいひつに青白く光をたたえています。

 その美しさに惹き寄せられて、静香しずかは夜の中を歩いていました。

 雪光に誘われるままに足綾あしあやと、あてもなく彷徨さまようように、けれども少しの不安もなく、歩いて、気付けば随分と家から離れていました。帰り道はきちんと分かっているけれど、辺りにはもう家屋もなく、雪の敷かれた田畑の向こうには直接山々が見えてます。

 街灯は少なくても、月明かりが足元を照らしてくれていました。むしろ月と雪の明かりだけで世界が氷銀ひぎん光景ひかりかぐ色合いこそ、世界のありのままにも思えるくらいです。

 そんな少しばかり興奮のような、夢遊病のような、浮かれているようで夢波ゆめなみに浚われていくようでもある曖昧な意識の端を。

「あしあとの、まろびすべりて雪月夜ゆきづくよみたるふゆのさむきをかざる」

 三十一音の旋律に耳控みみひかえられました。

 動かした視界に飛び込んできたのは、氷銀の光を受けて、瑠璃色の闇にひっそりと浮かび上がった女性でした。

 白い着物は振袖に桐の紋が入っていて、帯には柚が実り、濃紫の肩掛けが首から合わせ目に被り手元まで守っています。

 静香の瞳には、まるでそれは舞い降りた鶴ように美しく、それどころか天女が降り立ったのかと思ってしまう程に神々しく映りました。

「ゆきつく、よ」

 静香は月を見上げる女性が詠った内に秘められたそれを、確かめるように舌に乗せて発音しました。

 静香も、まで呼ばれたような心地で此処に立っているのです。

 惹かれるままに歩き、夜の底まで来てしまったのだと思い当たりました。

 自分でも分かっていなかった本当の心を言い当てられたと、すとんと腑に落ちてしまったのです。

「神、様……?」

 ぼんやりと、静香の口はおもいてしまい。

 それが聞こえたのか、彼女は月へと向けていた顔を、静香の方へと降ろしました。

 ひゅ、と静香は息を呑み、心臓まで止まってしまいそうになります。

「わたしは、神ではなく、仏菩薩ぶつぼさつですし、どちらかというと魔女の類ですよ」

 ほんのりと優しさを乗せて、けれど感情に乏しそうな顔立ちをしているのが、やっぱり次元の違う存在の証明のように静香には思えました。

「まじょ……」

 静香は、他に並んだものとは、一つだけどうしても似通わない言葉に戸惑い、声に乗せて転がします。

「ええ。ああ、でも、今日は雪月夜に呼ばれてお散歩してますし、魔女でも化け猫でもなく、雪のせいかもしれませんね」

 まるでその時々で自分の存在を変えていると言うような彼女の口振りに、静香の知能は常識を破れなくてとてもついていけてません。

 でもきょとんと戸惑う静香を面白がって、雪月夜に立つ女性はふにゃりと笑います。

「雪の精わかります? 雪女とかコロポックルとか、そんな感じです」

「ころ?」

 静香は雪女はなんとなく分かりましたが、コロポックルの方は聞き馴染みがありませんでした。

 自称、雪の精であるという彼女は、白い手を頬に当てて、思案気に顔を曇らせます。

「コロポックル、知らない? 有名だと思うけど。アイヌの雪の精霊で、蕗の下にいるのよ」

 コロポックルを精霊とするか、妖怪とするかは世論が分かれそうですけれど、彼女はそのように説明をしました。もっとも、それを指摘しようものなら、本来は背の低い原住民ですものね、とさらに深い知識を掘り下げてきそうです。

「ああ、でも、わたしが魔女でも化け猫でも雪の精でも蛇でも水子みずこでも泥でも、その全てをして在り方を定めるのであれば、未言屋ですね」

 みことや、と聞いて、静香は巫女に関わる妖怪なのだろうかと頭を悩ませます。

 静香は余り普段から妖怪とか伝承とかに接する訳ではないから、ころころと名称だけ並べられても、それがなんであるのか見当も付かないのです。

 そんな静香の思考は置いてけぼりにして、未言屋を名乗る彼女はさらに言葉を重ねました。

「未言とは、未だ言にあらず。未言屋店主によって生み出された、それまで世界に確かにあったのに、言葉にしてもらえてなかった物事の、造語です」

 次から次へと足されていく情報に、静香は酔いそうでした。

 火食ほばむ脳に、雪月夜の音のない冷たさがとても心地いいくらいです。

「雪月夜もその一つです。今夜のように、降り積もった雪に月の光が降り注いで、凛と明るい夜のことです」

「え、ゆきづくよ……雪に月の夜……?」

 静香は、ここでやっと、自分が聞き間違いをしていたのに気が付きました。

 そしてがらがらと、足元が崩れるような幻覚に陥ります。

「雪に月の夜ではなく、雪と月の夜、ですね」

 ひやり、と彼女の手が、静香の手を取って支えとなりました。

 静香は細い指先に視線を落とします。

「行き着いた夜、ではなくて……」

 彼女がこてんと頭を傾げるのを見るのが怖くて、静香は顔を上げられませんでした。

 彼女の手の背景にある地面の雪も青白く光を溢していて、どこにも逃げ場がないように思えて、それでも俯くのが精一杯の現実逃避でした。

「ああ、行き着いた夜、ここまで来てしまった、終着点に来てしまった、そんなニュアンスも雪月夜は込められていますよ」

「え」

 しかし、静香の悲観はあっさりと、彼女にあやかされて、ぽんと顔を上げてしまいました。

 彼女は和笑にこえみを浮かべて、静香の視界から体を退けて、背負っていた月の姿を見せました。

 それに広がる視界は、氷銀の光を放出して眠る雪景色も映り込みます。

「オーロラ揺れる極地のような夜でしょう?」

 静かで、音もなく、誰にも立つことが許されていないような、世界が美しく眠っている夜の光景でした。とても寒いのです。寒さとは、零へと向かうものです。常温から絶対零度の方へ近づく温度をして、寒いと表現するのですから。

 それは、終わりへと向かっていく気温だということです。

「雪月夜は、まるで世界の終わりの比喩のようです。一人立てば未繫みづなしい孤独を思い返してしまいます。ここまででいい、わたしはこの美しさの極致を視るために生きてきたんだ、行き着いたんだと、満足してしまって、命を手放してしまいそうです」

 静香は、彼女の言葉に胸の奥を撫でられて、ほぉ、と白い息を立ち昇らせました。

「そして、雪月夜は、息づく夜、にもかかっているのです」

 彼女は静香の息を見逃さずに、言葉を差し込みます。

「死んでも本望だと思いながら、不二ふにに息を吐いて生きていることを実感して、胸が震えるほどの歓びを得るのです。余りにも素敵で、言葉も凍り付かされて、ただただあはれと息づくしかないのです」

 あはれの語源とは、ああ、と言葉にならずに口を吐いた未声みこえであるのです。

 胸に押し寄せた感情が余りに膨らみ過ぎて、言葉なんて待っていられずに、まずは息を吐いて破裂する前に萎ませないといけないのです。

 それほどの感動だって、雪が積もり、月が明るく空に浮かんだ夜ならば、家から歩いて味わえてしまうのです。

「雪月夜」

 静香は、惹かれるままに追い求めて行き着いた、光零れる月と雪の夜の景色を目に焼き付け、保存名を打ち込むようにしっかりと発音します。

 きっと死ぬ時まで、この生きたと実感できた瞬間を忘れることなんで出来ないと、静香は確信します。

 そして天女のように美しく雪月夜の氷銀の景色に納まる雪の精のことも、一緒に保存されたようでした。


未言源宗 『雪月夜』 完

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