『巌生』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 三月の末に至って、ようやっと会津若松の道端の陰にうずくま雪屍ゆきかばねも僅かに残るだけになり、ゆきおりを晒していきます。

 桜の花芽はまだ堅く、冬はまだ春に追われる裾を見せる頃合いに、ぽつりぽつりと遅れた雪生ゆきおいが芽吹くこの頃が、紫月ゆづきは好きなのでした。

 風は肌を冷やし、陽光は肌を暖める、その入れ違いの快さを軒先で浴びて、庭にもならない建物と塀の隙間を眺めれば、ぴょん、と草のさきがけが灰色の石の合間からあちこちで背伸びするのが愛らしいのです。

 『未言屋 ゆかり』と看板を掲げながらも人が訪れずに有閑が溢れ返る店の奥に引っ込んで、紫月は気侭に暇を享受しています。こんななんにもすることがなくて、うとうとと世界の隅っこをまなぜられる時間が、紫月はなによりも大好きでした。

 そんな紫月の耳がばたばたと春の日射しに晒されるコンクリートを踏み付けてやって来る足音を捉えます。

「んー、まぁ、いつも通り知弦ちゃんかなぁ」

 紫月は猫のようにぐっと伸びをして体を持ち上げて、毛布代わりにしていた薄紫のカーディガンに袖を通します。それから手櫛で髪を整えると、ブラウスの袖に刺繍された福寿草が見えました。

 のんびりと店の方へと紫月が向かうと、がらりと扉が開く音が届きます。

「せんせー! こんにちは!」

「知弦ちゃんってば、今日も元気ねー」

 紫月は欠伸を噛み殺しながら、春休みで遊ぶ時間がたっぷりとある女子高生を迎え入れました。

「はい! わたしは今日も元気です!」

 夏の太陽も怖気づきそうなくらいに元気いっぱいの笑顔を向けられて、紫月は眩しそうに目を細めます。

「知弦ちゃん、もっと明度抑えてくれないと、光が苦手な未言屋は溶けて消えてしまうのよ?」

「ふあっ!? え、え、でもわたしは先生みたいに天気を操ったりできないですよ!?」

 紫月の軽口を真面目に受け止めて、知弦は今閉めたばかりで外の明るさが差し込めるガラス戸を振り返り、また紫月の顔へ向き直り、と慌てた様子を見せました。

 その素直さに、紫月は意地悪く、くすくすと笑います。

「光を放ってるのは、太陽じゃなくて、知弦ちゃんよ」

「え……わたし、光ってるの……いつの間にそんな超能力を……」

 知弦は、今度は自分の体を見下ろして、見えるところも見えにくいところも確認しようと身を窄めたり捩ったりしました。

「まぁ、こっちにお上がんなさいな」

 知弦を揶揄からかって遊んで満足した紫月は、手招きをして知弦を店の奥へと誘います。

 招かれた途端に、知弦はぱっと笑顔を綻ばせて、尻尾を振らんばかりに紫月に擦り寄りました。

「ねぇねぇ、先生、来る途中で巌生いわおいが生えてたから、写真撮ってきたんだよ、見て見てー」

「あら、それはよかったわね」

 紫月はお茶とお菓子を用意して炬燵に並べてから、知弦からスマートフォンを借りて写真を見せてもらいました。

 それはコンクリートの塀に入った皹から飛び出したカタバミが、小さなハート型の葉っぱを、身を寄せるようにして生えています。

「コンクリートからも生えてくるなんて、すごいよねぇ」

 知弦は湯気の立つ煎茶を啜りながら、しみじみと呟きます。

 そんな知弦の率直な思いに、紫月も心の内で深く同意しました。

 人によって柔らかな土に、石よりも頑強なコンクリートやアスファルトを敷き詰められて、光の一筋も届かない闇へと封じ込められて、それでもなお、地の底の獄を突き破って生まれ出ずる草の強さは、賞讃して余りあるのです。

「あ、そだ、巌生って言えば、先生に借りてた誠言まことお返ししますね」

 知弦は小さな鞄から、これまた小さな、そしてくたびれた白い色の同人誌を取り出して、紫月に手渡しました。

 それは未言屋店主が中心となって作った誠言という冊子で、その第八号です。平成は三十一年の四月二日に発刊されたそれは、未言屋店主の孫に当たる紫月からしても骨董品と言っていいでしょう。

 知弦が巌生の話題から、この古い本を借りていたのを思い出したのは、その中に『巌生』と題された詩が収録されていたからです。

「ねぇ、先生、この中にあった巌生の詩って、かなしいよね」

 少し言いにくそうに顔を俯ける知弦を見て、紫月はきょとんと目を丸くしました。

「あぁ、知弦ちゃんは、哀しいって思うんだ。ちっともかなしくはない詩なのにね」

 紫月は自分にはない感想を聞いて、少し面白そうに目をきらつかせます。

 けれど、その表情を不敵な笑みと思ったのか、知弦は慌てて両手を忙しなく振って空気を散らせそうとします。

「あ、でも! ナオはそうかって首ひねってた! かなしいっていうか、勇ましい詩だろって!」

「あら、彼も読んでくれたのね。大変ね」

 いつも知弦の面倒を見ている幼馴染の高校生男子を思い浮かべて、こちらも面白がって紫月は微笑みを浮かべます。

 言葉も態度も表に出せない彼の、けれど行動で示す知弦を大切にする気持ちが、傍から見るばかりの紫月の心をくすぐるのです。

「勇ましいというのは、確かにそうでしょうね」

 紫月が一つ頷くと、自分から口に出した癖に知弦が膨れます。

「うー。どうして、未言に興味ないナオの方がいつもちゃんとわかるのよー。その頭ちっとはわたしにちょうだいよう」

 貰うべきは頭という物体ではなくて、知恵や知識でしょう、とは紫月は言い出しませんでした。そういう言葉の曖昧さをよく考えずに使ってしまうところが、正しく知弦が自分で足りていないと思っている部分ではあるものの、紫月からすればその無邪気な感性は好ましくてそのままでいてほしいのですから。

「巌生は男性の詩だからね」

「ふぁ? あれ、店主様の作品ですよね? 奈月遥ってちゃんと書いてありましたよ?」

 知弦の頭の上に、大きく疑問符が見えそうです。

 それにも、こっそりと口角を上げた紫月は、湯飲みに口を付けて唇を濡らしました。

「未言屋店主は、性別未言屋店主だから気にしても無駄よ?」

「それ、世界で唯一の生き物になりませんか?」

「究極的には、この世の全ての生き物は久遠くおん元初がんじょから果てのすえまで唯一の生物よ」

 紫月の物言いは知弦には難しくて、知弦はほぇー、と口から意味のない空気の音を漏らしています。

「まぁ、それはそれとして。巌生の未言想詩そうしは、未言屋店主が仕事への想いを綴ったものだからね。あの人、仕事とか役割とかになると、私情よりも義務感で動く生き物だったから」

 ふむふむと、知弦は紫月の話を懸命に飲み込もうとしてます。

 確かに、巌生の詩は、いつもの未言屋店主の作品と違って、柔らかさとか、慈愛とか、そういうあったかいものが伝わってくる文体ではなくて、張り詰めたような、死地へ向かう兵士のような、そんな感じがしました。

「未言想詩って、未言少女でとはゑが未言を綴るあの未言想詩ですか?」

「ええ、そうよ」

 未言想詩とは、未言屋店主が手掛けた未言の詩の中でも、特別な位置を占めるものです。

 そもそもは、未言屋店主が、彼人をしてもう一人の未言の親と言って憚らないもう一人の人物と共同で制作した未言少女ゆらの*とはゑという小説に出て来る作中作品です。未言想詩は、その作品の主人公の一人が、事件を起こす未言を納めるために綴るのです。

 その未言想詩は、未言屋店主が未言そのものを表現した、ホロタイプの一部として扱われるべき重要なもの、と明言しています。つまり、未言想詩の内容こそが、その未言を最も良く表現した作品の一つであるという宣言です。

「巌生の場合は、ゆらの*とはゑが始まる前に綴られた詩だけど、未言想詩に相応しいから手を加えてそれに位置付けた詩ね」

「これが、巌生をそのまま表現した詩……」

 辛くて、苦しくて、冷たくて、暗くて、絶望が圧し掛かるような、知弦がかなしいと感じたその感触が、巌生という未言であるらしいのですが、知弦にはそれが今日写真を撮った可愛らしい葉っぱと違い過ぎて、混乱してしてしまいます。

「せんせぇ、巌生はもっとかわいいと思うんです……」

 知弦はぐるぐるとした思考から抜け出せなくて、弱々しく自分のスマートフォンを指差して紫月に訴えました。

 紫月は知弦を宥めようと、柔らかな笑みを浮かべます。

「ええ。でも、知弦ちゃんもさっき言ったじゃない。すごいって」

 そう、知弦は確かに、コンクリートの中から芽吹いたカタバミを見て、すごいと思ったのです。そのすごい、という言葉は、自分には出来なさそう、という気持ちが籠っていました。

「可愛いものが強くないなんて、誰が決めたの?」

 可愛いものは、か弱いというイメージは確かに多くの人が抱くのでしょう。

 でも、か弱いからこそ、生きるのに必死に、懸命に、時に強者に抗って、それで負けることが多くとも、その姿はむしろ、いえ、その在り方はむしろ、強いとさえ言えると、紫月は言葉の裏に想いを添えます。

 こくり、と知弦の喉が鳴りました。

 そして、そっと、スマートフォンを操作して、さっきの写真を出します。

 硬いコンクリートの下に、その種はあったのでしょう。その埋め立てられた地の底は、きっと辛くて、苦しくて、冷たくて、暗くて、絶望が圧し掛かるような重さに押し潰されていたのではないでしょうか。

 そこから、小さな植物は、誰の手を借りることもなく、自らを伸ばし、知弦の目に触れるところまで這い出てきて芽吹いたのです。

 そのすごいとしか言えなかった姿は、どれほど可愛らしくても、けして、弱くはなかったのです。

 そして知弦が知らなかった、その種から自分を伸ばして懸命に苦しみを這い出てきた事実は、勇ましいのではないのでしょうか。

「巌生は、悪環境への反逆と、負けじ魂で挑み続ける意志の証明と、そしてその果てに自らが得た勝利をその在り方にする未言よ」

 紫月の声が、真っ平な水面に落ちた雫が波打つように、部屋に、そして知弦の心にまで響乃ゆらのとなります。

 知弦は恥ずかしさで頬が火食ほばみました。

 かなしいだなんて、なんて他人事の感想だったんだろうと、自分が浅ましく思えてなりません。

 苦しみにある者を見て、かなしいとしか思えない人は、傍観者なのです。かなしいと自分の気持ちだけを抱いて、通り過ぎる無関心な第三者なのです。

 知弦の頼りになる幼馴染は、苦しみに押し潰される巌生の詩の主体を、勇ましいと見上げていました。見下していた知弦と違って、なんて賢かったのかと、今更ながらに思い知りました。

「でも、巌生の未言想詩を読んで哀しいと思える優しさは、とても素敵だと思うのよ」

「先生って、何気にわたしにすっごく甘いですよね」

 ふるふるとウサギのように震える知弦の姿がやっぱり可愛らしくて、紫月はにっこりと笑います。

 それがなんだか子供扱いしているのを誤魔化されたみたいに思えて、知弦は、うー、と唸るのでした。


未言源宗 『巌生』 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る