『猫夜泣き』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 ごろり、と布団に寝転んだ彼女の浴衣は、裾に描かれた木蓮の花がくしゃりと潰れていました。

 うつ伏せになった彼女は、はしたなく足をばたつかせているものですから、裾は腰に垂れ下がり、滑らかで白い象牙のような素足が惜し気なくさらされています。これでは、菜の花柄の帯だって意味をなさないというものです。

 彼女の名前は、紫月ゆづきと申しまして、何を隠そう、今日は旧来の友人宅へお泊まりに来ているのです。

「なんて格好をしているんだ、君は」

 そこへ、この部屋の主がドアを開けて入ってきて、呆れた声と表情を露わにします。

 男の人のような素っ気ない口調ですが、黒いスウェットパンツと柄Tシャツの組み合わせの下に隠れるしなやかな体つきが、間違えようもなく女性のものです。

「んぅ?」

 しかし、だらしなく浴衣を乱した紫月は子供っぽく鳴きつつ、部屋に入って来た彼女の女性にしては鋭い目つきを見上げるだけで、すぐにまたべたりと顔を羽毛布団に沈めさせるのです。

「全く、しょうのない。私ほどだらしない人間はそうはいないぞ」

 そういいながら、目つきの鋭い彼女は、お風呂上りでドライヤーをかけてもまだ少し湿り気を帯びる黒髪をまとめてゴムで止めて、部屋の隅に置かれたギターを手にしました。

 ギターを抱えながら、彼女は紫月が寝転ぶ布団を足元にするベッドに腰掛けます。ぽろぽろと、夜なので音に気を使いながら、彼女は弦を爪弾きます。

「いや、厨二病を大学生の時に発症して拗らせたままのニトさんに言われたくないわー」

「厨二ちゃうわ!」

 ニトさんと呼ばれた柄Tの彼女はジト目を向けてくる紫月に抗議の声を上げるけれども、果たして真っ当な大人がこんな夜更けにギターを掻き鳴らすのかというと、疑問の余地が残ります。

「ああ、もう、全く昔から口さががないな、君という女は」

 チューニングの隙間に溢すような声が、諦めの色を奏でました。

「しょうがない。未言屋店主からの遺伝よ」

 ふふん、と、それはもう自慢げに紫月は口に笑みを描くのだけれど、何が自慢なのか普通の人には分かりません。

「流石は、未言屋店主の内面をそのまま引き継いだ宗主様だよ、まったく」

 ニトさんは、CコードとGコードを繰り返しながら弾き語ります。

「ま、年下に言い寄られてビビッて違う男と結婚する人よりは、まともな人生歩んでると思うんですよ、わたしは」

 ぎぎゃん、とギターが悲鳴を上げました。

 ニトさんは背中から見えない何かに押しつぶされるように上半身を倒して、その顔は流れ落ちてきた黒髪で隠れていました。全身がぴくぴくと震えて、まるで大きなダメージを受けて硬直するゲームのキャラのようです。

「んな、だっ、のなっ! 八つも年下の少年の未来を私みたいなダメ人間に任せていい訳がないだろう!」

「え、未言屋店主のとこはまさしく八歳差だし、その両親は十二歳差、とどめにうちの両親は十歳差ですけど?」

「常識外れの血統と一緒にしないでくれるかな!?」

「だからこその未言屋でしょうに。常識よりも真実よ、大事なのは」

 顔を真っ赤にしたニトさんは、唐突にギターの奏で直し、聞いたこともない歌を部屋に満たします。それはもう強引な会話の打ち切りでした。

「出た。ニトさんの微妙なオリジナルソング」

「微妙言うな」

 ニトさんは間奏の隙に、紫月への抗議を加えました。

 しかし、その歌はかき混ぜられた生卵が、この後に焼かれるのかご飯にかけられるのか悩むという内容で、まぁ、率直に言って微妙どころか変な歌でした。音程も聞きやすいようで調子外れで、童謡を目指しているのかJポップに入ろうとしているのか、全く判断が付きません。

「ニトさん、カバーとかアレンジならうまいのに、なぜにわざわざ自作の変歌ばっか動画に上げんのよ。てか、四十でその内容の歌って痛くない?」

「人の真似をしないからこその未言屋だろう? ていうか、誰が四十だ、私はまだ三十九だぞ」

 ふふん、と今度はニトさんが意味不明なドヤ顔を見せてきましたが、紫月は秒も開けずに鼻で笑いました。

「わ、笑ったな!?」

「いや、ニトさん、未言を歌ったことないじゃない、貴女は本当に典型的な未言婆みことばだと思いましてよ、わたしは」

「ぐ、否定しかねるな……」

 未言屋、未言婆。それは未言屋店主が言い出した、未言への在り方です。

 未言屋とは、未言を表現して、自己実現をしつつ、未言と共に生き、未言を広める者達。

 未言婆とは、未言を他人に語り聞かせ、未言の素晴らしさに共感する仲間を増やそうとする者達。

 未言屋店主はその違いを、アーティストとオタク、と端的に宣言しています。

 ニトさんは悩ましげに眉を寄せて、ギターのコードを繰り返します。次に何を歌うのか、決めかねているのでしょう。

 そんな空白の旋律に合わせて、紫月がハミングを重ねました。

 ニトさんはちらりと長い睫毛越しに紫月を見て、彼女に寄り添い伴奏を調べます。

「高く高く、青く青く、透き通るあの大空に、想いを馳せるの、夢を描いて」

 伸びやかに、晴れ渡る空に輝く太陽に手を伸ばすような歌声が、紫月の喉から吹き抜けたのです。

「……それは?」

 ニトさんは聞いたことのない、けれど、胸に真っ直ぐに飛び降りてくるような歌に、目を細めます。

「んぅ? あれ、聞かせたことありませんでした?」

「ないよ。ないな」

 あれま、と紫月は首を傾げて惚けます。言ってもいないことをすっかり言った気になっているところも、未言屋店主から引き継がれたこの血族の悪癖なのです。

「未言屋店主が高校の時に仕立てた歌ですよ。本人しか音程知らない上に、あーちゃんとわたしくらいにしか伝えなかったやつ。ちなみに、未言が生まれる遥か昔のものですね」

「めちゃくちゃレアな作品じゃなないか、それ!?」

 未言オタクにして未言屋店主のファンであるニトさんが、しれっと歌われた失伝に近い希少な作品に、喘ぐように口を開け閉めしています。

「ちなみに、四季折々のもので、あと三つ同じ音程のがありますよ」

「歌ってくれ!」

「え、やだ。気分じゃないです」

「おまえー! 鬼かー!」

「いえ、未言屋宗主です。どっちかていうと、化け猫の類です」

「最悪だな!?」

 姦しく騒ぎ立てるニトさんでしたが、不意に振動したスマートフォンを手に取り操作して、口を噤みました。

「どしたの、ニトさん」

「……娘に、夜だからテンションあげすぎるな、うるさいと怒られた」

「小学生ながらよくできた娘さんねー。お父さん似かな」

「紫月、君は私をなんだと思ってる?」

似人にと

「くっ、その未言を出されると反論できじゃないじゃないか! ずるいぞ!」

「へっへーん」

 このままだと、もう一度娘からスマートフォンへ通知が入りそうなテンションで話す二人でしたが、二人揃って急に黙りました。

 窓の外、夜闇の静けさに耳紛みみまぎれた鳴き声に、二人して耳を澄ませます。

 それは、どこかで赤ちゃんが夜泣きしているかのような声でした。

「未言屋店主は、赤ちゃんは泣くものだと言います」

 普通の人から何の脈絡ものないように見える唐突さで、紫月が語りだしました。

 そしてニトさんはその声に寄り添い伴奏を弾き始めます。

「だから、赤ちゃんが泣いているのを、とても心地よく感じて、泣いてる子を見ると微笑みながらもっと泣け、もっと泣け、泣いたら将来綺麗な声になるぞと言っていたそうで」

「なんというか、子育てをした身からすると、救われるようなこっちにの身になってみろと言いたくなるような話だ」

 二人は、同時に口を噤み、ニトさんはギターにかけた指も止めました。

 また遠くで、何かが夜泣きしています。

「赤ちゃんは泣くのが仕事ですもの。ちなみに、あーちゃんもうちの母も、泣いてても笑って泣かせ続けたとお祖母さんに聞きました」

「ブレなさすぎるだろう。尊敬に値するよ、本当に」

 紫月はまるで自分が褒められたかのように、自慢げにふふんと笑いました。

 そしてニトさんはそれを認めるように、フッと笑うのです。

「赤ん坊の声は、親や周囲の人間を引き付ける。それは、彼らが泣くことでして想いを伝えられないからだ。泣くことでしか訴えられないからだ。そして親たちは、自分の命を繋ぐもののために、その声に敏感なんだ」

 ニトさんがギターの弦にまりを落としながら、語ります。人は、子供を大切に出来る生き物なのだと、そう証明されているのだと。

 くすりと紫月が笑いを零します。

「歌うの語源として、うったうが上げられます。歌とは、神霊に、自然に人の願いを訴えかけるものが始まりであり、そしてそれは人が人に想いを訴えることになっていく。だから、人は恋を歌い、命を歌い、追悼を歌い、励ましを歌い、歌い合わせて労働し、歌い合わせて祭りを楽しむ。だから、赤ちゃんが泣くのは、歌うことなの」

 それこそ謳うように、紫月はニトさんの爪弾く音に声を託しました。

「そう、恋の歌だ。彼らは恋を願い、恋を訴えて、泣くんだよ。泣きじゃくるんだ。どうしようもできなくて、どうしようもなくった想いが、確かにあるんだ」

「ええ、だからそんなふうに、夜泣きして、その挙句につがって愛を為して子を宿せた時、あの子たちはそれはもう幸せでしょうね。どこかの、勝手な理屈で自分の想いを正しさに捻じ曲げる人間様とは違ってね」

 紫月が意地悪く微笑みかけると、ニトさんはバツが悪そうに、それでいて、言われたことは自分には関係がなくてただその未言の在処を探して窓を見たのだというように、顔を逸らしたのです。

「ああ、だから、人でなくても尊い愛を歌うその姿を、なんの力もない赤ん坊の夜泣きに重ねたこの猫夜泣ねこよなきという未言は、そうとても」

 猫夜泣き。発情期の猫の鳴き声。赤ちゃんの夜泣きに似てません?

 そう綴じられた未言を、未言屋店主はとても愛し、猫夜泣きが聞こえてくると、赤ちゃんが泣く時と同じように、もっと泣け、泣くのが貴女の仕事だと、もっと聞かせてほしいと、耳を澄ませたのです。

「カッコいいだろう?」

「格好いいでしょう?」

 二人が自慢げな視線をお互いに送り合いました。

 そして、じっといつまでも、目を逸らさずに見つめ合って、黒と黒の愛鏡まなかがみの間を猫夜泣きの声ばかりが過ぎ去っていきます。

 しばらくして、二人は同時に噴き出して。

「あははははははははは!」

「はは、はははは、くっははははは!」

 それはもう近所迷惑待ったなしの笑い声で鎮闇しづやみを砕いてしまったのです。

「お母さん、紫月さん、うるさい! 近所迷惑考えて!」

 そして、ニトさんの娘が遂に、部屋の扉を渾身の力で叩きながら大人二人を叱りつけたのでした。


未言源宗 『猫夜泣き』 完

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