『未水』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 雪降る師走の会津は、午後の五時ともなればもう暗く、六時にはもうお夕飯の支度を始める家庭も多いです。

 況してそれが山奥の一軒家ともなれば、しんしんと雪に沈む夜闇に他にやることもないというものです。

 紫月ゆづきは、鍋から立ち上る湯気と竈で弾ける薪が跳ばす火の粉で暖を取った台所で、それでも手を赤くしていました。

 長い黒髪を濃紫の飾り紐で結い上げ、白い割烹着に竜胆の着物を仕舞った姿には、時代遅れなのに何故だか色気があります。

「紫月ー! お酒、なくなっちゃったー!」

 居間から飛んできた来た声に、紫月は振り返りもせずに、くすりと笑いました。

「ほんと、呑むと駄々っ子になるんだから、爽佳さやかは」

 紫月は鍋の中にいた徳利を取り出して、布巾でお湯の滴を拭き取り、お盆に乗せて運びます。

 居間の襖を開ければ、炬燵の布団にお腹まで潜らせて、天板に乗った天麩羅や焼いた鮭や石蓴あおさたっぷりの磯の香り立つ湯豆腐なんかを酒の肴に摘まんで、日本酒の揺れるぐい吞みを傾ける爽佳が出来上がっていました。

「ゆーづーきー、あんたもこっちで呑みなさいよぉ」

 新しい熱燗を天板に淑やかに置く紫月に向かって、爽佳の酒吹く息が掛けられます。

「そしたら、誰が貴女の熱燗を温めるのよ」

 古式ゆかしい文化遺産になりそうなこの日本家屋には、住んでいる人の嗜好なのか、はたまた此処までライフラインを通すのが行政も難しいのか、電気もガスも通ってなく、電気は自家発電機に頼り、ガスは炭と薪が代用しています。唯一のガスボンベ式携帯コンロが鍋を煮るために使われているので、お酒を熱燗に仕立てるには、台所の竈で火を見る人が必要です。

「あたしの酒が呑めないっていうの~?」

「そのお酒、買ったのも熱燗にしたのもわたしだし、そもそもわたしは熱燗呑まないし、キンと冷えた冷酒を爽佳は呑まないし、わたしお酒に弱いから片付けする人いなくなるでしょうが」

 立て板に水を流すように、紫月は酔っ払いの言い分を受け流し、物理的に掴まる前に腰を上げました。

「あら。この徳利、少し残ってるじゃない」

 行き掛けのついでと、空になっている筈の徳利を持ち上げたところ、ちゃぷんと鳴きました。

 紫月は膝を畳んで座り直して、爽佳の前に置かれたぐい呑みに、徳利の中身を空けます。

 最後の一滴が、徳利の口にしがみついて、中々落ちませんが、紫月はとんとんと掌に徳利を当てて、一滴残らずにもう温くなった熱燗の最後の一滴まで、爽佳のぐい呑みに注ぎました。

「そーいえばさー、こういう、徳利に残ったのとか、ペットボトルの最後の一滴とかって未言ないわよね。奈月なつきゆうはそういうの好きそうなのに」

「え?」

 爽佳の的外れな言葉に、紫月は眼差しで本気で言ってるの、と問い返します。

「え、ないわよね? あるの?」

「とても有名なのがあるじゃないの」

 紫月は、新しく持って来た方の徳利にくっ付いてきて、今は炬燵の天板を濡らす僅かな水滴に人差し指を当てて、その未言を書きます。

 滴だった水の塊が綴った文字は、『未水』と読めます。

未水まだみづ?」

「そう。未だ見ずやその滴の消ゆるさま

 紫月は、未水の語彙に添えられた詩詞を詠い、それだけが答えだとばかりに膝を伸ばして立ち上がりました。

「ちょ、ちょっと待って!」

 もう居間から出て行く素振りを見せた紫月を、爽佳が慌てて呼び止めます。

「未水って、水を払った後に残る滴でしょう? それに知らない間に消えてることもなくない?」

 爽佳は自分が告げた現象と未水との相違点として思い浮かんだことを紫月に伝えますが、それを聞いて尚、紫月は胡乱な眼差しを返します。

 それが、紫月が立ち上がってしまったせいで見下しているようにも見えて、少し爽佳はむっとしました。

「知らない間に消えることがないのは、その前に洗ってしまうからでしょう」

 飲み残しのペットボトルはリサイクルのために、飲んだ後の徳利やコップは衛生を保つために、どちらも速やかに洗浄されるのが常です。

 しかし、本当に飲み切って飲み切れない最後の一滴を放置すれば、それは所詮はなにがしかが溶けた水に過ぎません、水の方は溶質を残して揮発して消えるでしょう。

「水を払うのと、飲料を飲み干すのと、意図は違くても動作は同じよ。中の液体をなくそうとしているのだもの」

 紫月の指摘に、爽佳はうぐ、と押し黙りました。

 言葉は、主観や主体者の意図に従って使われることも確かに多いです。

 しかし、未言屋店主の未言達は、未発見もしくは無意識に選り分けられて見つけられなかった物事の発見と言語化により成り立ち、それは主観よりも客観、主体的認識よりも環境的事実がまま優先されるものです。

 それを知っているからこそ、そしてそれを知り尽くさねば目の前の最愛の人を手に入れることが出来ないからこそ、爽佳は自分の未言への理解の浅さに恥を感じました。

「んー、じゃあ、またわたしの勝ちということで。お酒に弱い女の子に呑ませてそのまま食べちゃおうという狼さんの目論見には、今日は一切乗らないことにします」

 紫月は悪戯っぽく笑って、何時も最後の一杯は仕方なしに付き合ってくれるのを、今日はしませんと宣言してから襖をぴしゃりと閉めて出て行きました。

「ぬあー! 自分から折角のチャンスを潰したー!」

 爽佳の叫びは台所まで届いて、紫月はくすりと笑って、徳利の中を水でそそぐのでした。


未言源宗 『未水』 完

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