『硝子水』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 真夏の盛りにしか生きていけない蝉の鳴き声がぐわんぐわんと大気を揺らし、大地が太陽に焼かれて立ち上る陽炎が大気を歪めます。

 その中にぽつんと、『未言屋 ゆかり』との看板を掲げた店がありまして、その中のレジ台に二藍の朝顔が咲く浴衣を着た女性が、暑さに参って俯せていました。

 彼女の名は、紫月ゆづきと言いまして、この店唯一の従業員です。

 紫月は力無い溜まり目を戸の開け放たれた入り口を向けていました。

 この店には、エアーコンディショナーがないので、窓も戸も開けて、扇風機を回すくらいしか、夏の生き物を憎むような暑さを凌ぐ術がないのです。

「せんせー! せんせ、せんせ、せんせー!」

 紫月がまりを細めるよりも早く、けたたましくも若々しい声を張り上げて、県立高校の夏服を着た女の子が店内に突進して来ました。

 紫月は、蝉よりも尚激しい声量に僅かに眉を顰めます。

 しかし、女子高生はそれに気付かずに、紫月のいるレジ台まで勢いを殺さずに駆け込んで来て、ばん、と台を叩いてやっと停止しました。

「せんせー! 聞いてください! ナオったらひどいんです!」

 紫月は、今名前を出された、いつもこの子の暴走を止めてくれる男子はどこにいるのだろうと疑問を浮かべつつ、くったりと鈍い動きで視線だけを彼女に向けました。

知弦ちづるちゃん、元気ね……」

 若いっていいなぁと少しズレた事を思いながら、なんとかそう応えるのが、今の紫月の限界でした。

「はい! わたし、とっても健康なんですよ!」

 それこそ元気良く、知弦は紫月に答えます。

「それよりもせんせい、ナオったら、またわたしをばかにするんですよ?」

「今度はなにがあったの? あ、硝子水がらすみずいる?」

 紫月は暑さに耐えかねて、店内にある冷蔵庫から硝子水、即ちサイダーの瓶を一つ取り出し、知弦にも飲むか訊ねます。

「硝子水! ほしいです!」

 知弦はいそいそと硬貨を二枚取り出して、紫月に渡しました。

 紫月はそれを摘み、レジに放り込んでから、硝子水の瓶を一本、それからお釣の小銭を一緒に知弦に渡します。

 「未言屋 ゆかり」で売っている硝子水の瓶は、とある硝子工房で一本一本手作りされていて、どれ一つとして全く同じものはありません。

 紫月の手にしたものは滝飛沫をデザインした模様が入った爽やかな青で、知弦に渡されたのは向日葵をデザインした模様の黄色い瓶でした。

 知弦は、硝子水をぐびぐびと一息に半分飲み下して、手にした向日葵の瓶を音高らかに紫月の前にあるレジ台に叩きつけました。

「くぅ~! やっぱり夏は硝子水ですよね、せんせい!」

「そうね、飲むと涼しくなるものね」

 炭酸の喉を刺す硝子みたいな痛みが、渇いた喉には何故だか気持ちがいいのです。ただの水よりも一層渇いた喉が冷やされる心地がします。

「あ、そう! 硝子水! 硝子水なんだよ、せんせい!」

「うん、なにが?」

「わたしが、硝子水は秋の未言だよねって言ったら、ナオがばかにしてきたんです!」

 知弦は力を込めて、今日ここに来て聞いてほしかったことを訴えました。

 数秒、紫月は瞬きを繰り返して沈黙します。

「知弦ちゃん、さっき自分がなんて言ったか思い出してみようか?」

「あ、いや、違うんですよ、せんせい! ちゃんと考えて言ってますから」

 知弦曰く。

 硝子水は一瞬でその人の熱を奪っていきます。喉を硝子の破片で切りつけられたような痛みを傷口にして、冷たさが体に入ってきて、熱を浚うのです。

「それって、夏の暑さと楽しさをすーってさらっていく秋風に似てると思うんです。だから、硝子水は秋の未言だって言ったんですよ!」

 わたし、ちゃんと考えたんです、えらいと思いませんか、誉めてください、という心の声を惜しみなく全面に出して、知弦は腰に両手を当てて胸を張ります。

 紫月はふむ、とおとがいを軽く握った拳に乗せます。

「なら、人にどう言われようと、あなたがあなたの未言の在り方を大切にしていけばいいじゃない」

 紫月が告げたのは、まるで突け放すようなもので、それでいて、他者の思想を尊重するもので、それを抱き宿す誇りを持って欲しいと祈る言葉でした。

「とは言え、わたしの……未言屋宗主の元に来たということは、答えがほしいのね?」

「はい、せんせい! 教えてくださいっ」

 知弦が居ずまいを正して直立するのを見て、威厳たっぷりな声をかけた紫月は、それがまるで幻であったかのように、くすくすと楽しそうに柔らかく笑いを溢しました。

「まるで足りないわ」

 続く紫月の言葉に、知弦は絶句して顔を真っ白にしまして。

 それを見て、紫月はまたまた悪戯っぽく、くすりと笑います。

「って、言われるかもしれないと不安だったのね?」

「……ひぐぅ、せんせい、ひどいですぅ」

 紫月は青く飛沫を上げる瓶を取って、こくりと硝子水に喉をひりつかせました。

「さてさて。足りないのは確かだけど、間違ってはないわ」

「ほんとですかっ!?」

 紫月の言葉に誘われて、知弦は満面の喜びを見せました。

 あっちの気持ち、こっちの感情と、ころころと忙しなく弄ばれるままに表情を心のそのままに変えてしまう知弦が、紫月には可愛らしくて堪りません。

「ま、そも、硝子水は季節に依らないものですけどね。そんな面白味のない客観的事実なんてものは、未言にはなんの意味もないわ」

 紫月のこの前置きは、学校のテストで平均よりちょびっと下でうろちょろしている知弦には難しく、きょとんと目をくりくりと丸くしています。

「まず、硝子水の旬は、夏ね。一番美味しくなる季節よ。自然の実りや鳥獣、魚介はその生態で美味しい時期を旬にするけど、硝子水は飲む人の環境が旬を決めるわね」

 工場生産が基本のジュースやアイスは、その成分が変化して味の良し悪しが変動することはないけれども、暑さとか寒さとかで食べたくなる時期、食べてやっぱり美味しい時期がありますから。

 硝子水なら、やはり夏に飲みたくなるものです。

「でも、それは、硝子水が涼しさをくれるから。硝子水にはね、冷たさが本質としてあるの。炭酸は冷たい水の方がよく溶けて強くなるしね。だから、硝子水はその本質に、寒く凍てつく『冬』を内包していると言えるわ」

「え、冬、ですか?」

「そう。硝子水はね、冬の質を秘めて閉じ込めているの。冷たく、厳しく、痛みを伴う透明な美しさ。ほら、どれも冬のイメージでしょう」

「た、確かに……」

 知弦は思いも寄らなかった『冬』という季節が硝子水を良く表しているのに、呆然と得心します。

 未言はなんて奥が深いんだろうと、頭がオーバーヒートして火照る頬を、硝子水の瓶で冷えた両手で包んでいます。

「それから、心情から見ると、硝子水は恋に委ねられるから、春にも縁が結べるわね」

「は、春っ!?」

 知弦は、思考が追い付かなくて、わたわたとし始めました。

 しかし、一般のコマーシャルメッセージでだって、サイダーはきゅんとした喉越しが初恋にぴったりだなんて言われています。硝子水の季節として、春もまた外せません。

「そして、硝子水を飲んだ後の寂しさや何もなくなってしまう清々しい透明な気持ちは、秋の風や空のようだから、やっぱり秋も硝子水の季節ね」

「えー……じゃあ、四季全部、硝子水の季節じゃないですかぁ」

 知弦はしょんぼりと、硝子瓶の向日葵を撫でます。

「そうね。そして、それこそ、間違っているわ」

「えぇ?」

 もういじめないでくださいよー、と知弦は涙目を紫月に向けて訴えます。

 けれど、紫月はそれこそ楽しそうに声を弾ませるのです。

「つまりはね、知弦ちゃん、硝子水の持つイメージ、透明感はね、あなたが硝子水に委ねたい季節を、託したい気持ちを、そのまま表現できる潜在力を持ってるの。硝子水の季節を決めるのは、わたしたち一人一人で、わたしたちが硝子水を表現する時、その表現された硝子水の季節が確定するのよ」

 無色透明で、なんにもない硝子水だからこそ、無限に無償に注がれた意志を溶かし込む。

 ほんのありきたりな一つの清涼飲料が、そんなポテンシャルを持っていると表現したそれこそが、未言の硝子水の妙。

 未言屋店主の描きたかったものであり、未言屋店主が全ての人に備えてほしいと願い誓った感性なのです。

 知弦は、瓶の中で弾けて、次第に硝子水でなくなっていく中身をじっと見詰めました。気の抜けて喉を刺す痛みをなくしたら、もう硝子水ではありません。

 そんな、栓を抜いて放置したら消えて変わってしまうような限られた存在なのに、限り無い世界を抱いている硝子水を。

 知弦は一息に飲み下しました。

「うん! せんせい! せんせいのお陰でまたひとつ、未言を知って賢くなったわたしは、ナオを見返して来ますね!」

 来た時と同じく、喧しくけたたましく店を出て行った知弦を見送って、紫月はほぅ、と息を吐きました。

「若いってたいへんねー。青春ねー」

 こくりと、硝子水を飲みきった紫月は、そろそろ店仕舞いをしようと立ち上がるのでした。


未言源宗 『硝子水』 完

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