『差し影』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
そこは日本の首都です。
そこはコンクリートジャングルの、その奥地から少しだけ離れた場所です。
つまり、一言で表現すれば、そこは東京都内某所となりまして。
とある出版社のビルの入り口でした。
そこに一人の女性が向かっていきます。
紫式部の実が刺繍されたロングスカートを歩幅に靡かせて、胡桃色したカウルネックのニットセーターに鹿毛のダッフルコートを着込み、マフラー代わりに幾つかの濃淡異なる黄色で織られたカーディガンを巻いています。
彼女の名前は、
紫月は自動ドアを潜り、一階受付に控える女性に用件を伝えます。当たり前ですが、事前に話を聞いていた受付のお姉さんは、すんなりと紫月に待ち人のいる会議室が何処か教えてくれました。
階段を二階分だけ上がり、紫月はこじんまりとした会議室の扉をノックします。
すぐに扉は内側から開けられました。
「紫月さん、お待ちしておりました」
扉を開けたのは、若い男性でした。三十代前半くらいでしょうか、髭を整えた顔が精悍で、なんとなく野性味を感じさせます。
「こんにちは、
紫月もにこやかに挨拶をして、会議室の中へと入ります。
二人は二枚のくっついたトレニアに差し込まれたパイプ椅子へ向い合わせで座ります。
椎堂と呼ばれた男性が、現像したまま持って来たのでしょう、写真屋さんの店名が書かれた袋を鞄から取り出して、紫月が正面から見えるように並べていきます。
まずは、十五葉から二十葉の間になるくらいの写真がトレニアいっぱいに広げられました。
「今回は、
紫月は、未言屋宗主の立場にあります。その役割は、未言屋店主が思い描いたままの、原典というべき未言の在り方を身に付け、人に伝えることです。
だから、このようにその未言により相応しいものを選別するという仕事は、彼女の本業と言えましょう。
紫月は、トレニアの上の写真を、一葉一葉、じっと見詰めます。
曇り硝子を越えて、板張りの床に昔ながらの星みたいな花柄を硝子の模様を浮かべる光は、鮮明で、恐らくは夏の日が高い時間に撮影したものではないでしょうか。
角ハンガーに一枚だけ干された薄絹のレースハンカチ越しに写された太陽はとても柔らかで、桜がひとひら写り込んでいます。
一般的な窓硝子を通った光が、炬燵の天板にプリズムの帯を落としているのは、子供心をくすぐられます。
当て紙をした障子に月が透けて朧な構図は、よく見慣れたものであるからこそ、伝統へ迫る緊迫と真剣さが伝わってきます。
「あぁ、この写真はとても素敵ですね」
紫月は一葉の写真に目を止めて、思わず熱っぽい溜め息で心に溢れた気持ちを外に吐き出しました。そうしないと、あまりの魅力に胸が詰まって息を止めてしまいそうでしたから。
その光は春の昼下がり。紀友則が散る桜を惜しんだ時の穏やかな光と、きっと同じ光だと思います。
その光が薄いレースのカーテンを透けて、机の上に置かれた和紙に射してました。
その和紙はまっさらな一枚で、人が手掛けた模様は一つもなく、しかして紙漉きの時に揺蕩ったのでしょう、楮の繊維が絡み合って、人には出せない自然の紋様を浮かべています。
その滑らかに凹凸のある紙の肌に、光が粒になって転がっているような、光が滑って紙の上に
「カーテンの入る引いた構図より、この和紙をアップにした写真の方がいいと思います」
「あえて、差し影の文意はなくすと?」
「写真集なら、差し影については前提知識として読者に与えられますし、そうでなくても光の美しさが差し影の印象を纏っていますから」
「なるほど」
紫月の言葉に得心した椎堂は、
そして、採用された写真だけ表に戻して、他の写真は紙袋に入れていきます。
紫月はもう一度、その写真を見詰めて、心に納めます。その時に、先に心の抽斗に仕舞われていたものが出て来ました。
紫月は、こんな時にこそ相応しいと、その歌を口にします。
「やはらかく。のどけきはるひの、差し影を……ころがす紙の、はだはうるはし」
紫月が和紙に跳ねて転がる光のように、詠み上げました。
それを聴いて、椎堂は目を見開いて硬直してしまいました。
「え、紫月さん、今のは、今のはなんですかっ?」
あまりの衝撃で食い付く椎堂に、紫月ははんなりと応えます。
「未言屋店主が若い頃に詠んだ短歌ですよ。とても気に入っていて、歌集にも小説にもエッセイにも度々出してます」
「すごい……その短歌、今回の写真集で使わせては、もらえませんか?」
椎堂は甘えた頼みと自覚して躊躇いを覚えながらも、紫月に願い出ます。
紫月は、軽く丸めた指を唇に当てて、しばし思考しました。
「そうですね。他の出版社にも確認取って問題なければ。一週間もあればきちんと返事できると思います」
「ありがとうございますっ」
椎堂は思わず立ち上がり、直角に腰を折ってお辞儀をしました。
紫月は居たたまれなくて、苦笑いを浮かべていますけれども。
その後は、紫月は淀みなく写真を選別して、必要があればその理由を伝えていきます。
椎堂はそのコメントを細かく写真の裏に書き込んでいきます。
一時間余りで、千葉以上の写真が整理されました。
「んー、目がぁ……」
「お疲れ様です」
紫月は伸びをしてから、目を指でほぐします。
椎堂は採用された写真を柔らかいフィルムの袋に入れて、他のものとは別に鞄に仕舞いました。
「椎堂さん、そちらはまだ見てないですよね?」
「えっ? あー」
紫月は目敏く、手を付けられていない写真があるのを指摘します。
言われた椎堂は、バツが悪そうに頭を掻きます。
「いや、一応持ってきたんですけど……笑わないでくださいよ」
椎堂はそう前置きをしてから、袋から数葉の写真を取り出しました。
そのほとんどが、風景写真です。
雲間から街へ架かる天使の梯子。
煌めく木漏れ日が腐葉土に射し込む景色。
頭上の水槽に揺らめく日射し。
そのような、硝子窓も、レースも関わっていない細い光の筋を撮影した写真達でした。
「これは、さすがに……でしょう?」
はっきり言うのは自分でも憚られるのでしょうか、椎堂は言葉を濁して紫月の様子を伺っています。
紫月は、写真の内で、水を抜けてオーロラのように揺らぐ光の幕を撮ったものを人差し指でトレニアの上を滑らせて分けました。
「この写真達は、
水漉き影とは、水の中へ透過して揺らめく、オーロラのように美しい光のことです。
レースや硝子を通った光に浮かぶ色の付いた光や透ける影という差し影とは、また違う未言になります。
「あとは、そのまま載せてしまっていいんじゃないですか」
それだけ区別しただけで、紫月はあっさりと残りを差し影なのだと告げました。
「えええええ!?」
余りにさらりと許可されて、逆に椎堂は戸惑ってしまいます。
「いや、これとか、差し影というか、
そう言って椎堂が指差したのは、天使の梯子が街に射した写真です。
それに対して、紫月はこてんと首を倒しました。
「上光は、雲の上から透けて見える光ですから、この写真には差し影も上光も写ってますね」
「でも、差し影は、レースや硝子を通った光と、未言字引にも記載されてますよね?」
椎堂は、未言の原典とも言うべき辞書の記載を引き合いに出して、疑問をさらに連ねます。
「ああ、それは未言に遊びがあるからですよ」
「未言に、遊び?」
椎堂の鸚鵡返しに、紫月はこくりと頷きます。
「遊びとは、動きを可能にするゆとりのことです。ほら、ゆったりとした服を遊びがあると言うでしょう」
「機械器具で留め具が弛いやつとかですか」
「そうです、そうです、それも同じ遊びから来ている言葉です」
言葉とは、辞書に書かれた説明書きに収まらない遊びがあるものです。
例えば、息、という言葉には生物の呼吸だけではなく、季節を感じさせる風や、木材が吸収と排出を織り成す水蒸気なども言います。
「未言は、その遊びが多いのです。そもそも、最初期の未言が生まれてからまだ六十年なので意味も安定してないですし、加えて店主が遊びをなくすのではなく、むしろ遊びを楽しんで率先して揺らぎを付与していきましたからね」
「店主……」
今は亡き創造主の態度に、椎堂は今にも頭を抱えそうになります。
それがおかしくて、紫月はくすりと笑います。
「差し影について言うと、何かの隙間から差す細く揺らめく光の筋は、差し影と言って差し支えないです」
「うっわ、一気に範囲広くなった」
「未言の泉からちょっと水が溢れても、その溢れた水もその未言だということです」
神妙に語る紫月ですが、椎堂には未言のおおらかさだけが理解出来ました。
「ま、たくさん写真が使えてよかったじゃないですか。無駄にもなりませんし」
あっけからんと言ってのける紫月を前に、椎堂はすっかり脱力してしまったのでした。
未言源宗 『差し影』 完
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