『暮れ炉』
今となっては、もう昔の事になりましょう。
かつて、『
未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の
そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。
・・・・・・
街外れに『未言屋 ゆかり』と看板を掲げたお店がありました。造りは瓦屋根の日本家屋で、一階建てですが、この辺りにある二階建ての高さがあります。
秋の夕焼けが瓦を染める屋根の上に、濃紅の袴を穿いて、紫苑柄の小袖を着ているいい年した女性が立っております。彼女の名前は、
当たり前ですが、彼女の業務に屋根へ登ることが含まれている訳ではありませんし、むしろこの店は常に開店休業、店番が趣味でやっているようなものだと世間に揶揄されるお店です。
つまりは。
紫月が屋根に登って、たゆとう雲を炙りながら山の端へ沈んでいこうとする夕日を見ているのは、それこそ完全に趣味なのです。
秋風に長い髪をそよがれながら、落ちないように一歩一歩確かめて足を運んで。ダンスをスローモーションにした動きを真似て体をくるくる回して景色を眺めて。
紫月は、緋色に黄金に焼かれる空にうっとりとしては、藍に浅葱に冷えて夜に染みる空に嘆息します。
なんて素敵な時間、なんて素敵な空間、なんて素敵な日常でしょう。
蜻蛉達が無数に宙を舞い、紫月の頬を掠める程に近くを横切っては、目で捉えられないくらいに小さくなる程に遠くへと飛び去っていきます。
白い雲は西の手を覆い、夕日そのものは隠してしまっています。けれど、その緋は雲をくべて、発光にホワイトアウトしていたり、紫雲へ変じていたり、囲炉裏を思わせる光の強い朱もありながら、紅に染まる雲は鳳凰の翼みたいに広がっているものもあり。
その空の色合いは、やがて赤味を増していき、暗く紅が山の端から滲むように
ほんの三十秒も同じ色で留まる事はなく、終の赤はまた黄味に覆されて茜に浸されて、沈んでいってもなお存在強い太陽の威光を夜を迎える人々に知らしめてます。
やがて気を張って足を運ぶのも疲れた紫月は、屋根の合わさる頂に、袴が汚れるのも構わず腰掛けます。
「せんせー! いませんかー?」
まだ垢抜けない声が紫月を呼んだのは、そんな時でした。
紫月が店の入り口を見下ろすと、市内にある県立高校の制服を着た女子が、中へ向けて声を張り上げていました。その後ろには、不機嫌そうな男子が立っています。
「知弦ちゃん、こっちだよー」
紫月が立ち上がって姿を晒し、女子高生の方を呼びました。
彼女はそれに気づいて嬉しそうに手を振って応え、男子高生の方はあからさまに顔を顰めます。
「先生! 屋根に登ってなにしているんですか~?」
羨ましそうという態度を隠しもしないで、知弦と呼ばれた彼女は紫月に問いかけます。
「
「屋根から見る暮れ炉! いいなっ! わたしもそっちにいったぁあ!?」
紫月と同じ事をしたがる知弦でしたが、後ろに控えていた男子に後頭部をノックされて発言を取り消しさせられたのです。
「未言屋。常識ないバカが考えなしで真似しようとするから、降りてから声をかけろ」
高校生でもう熟成しきった低い声が、紫月を非難しますが、肝心の紫月本人は仕方ないよねと言ったふうに肩を竦めるだけです。
「降りるから、待っててくれるー?」
二人の返事も待たずに紫月は入り口から見て裏側に隠れている梯子に向かい、するすると地面へ降り立ちます。
「お待たせー」
緩い口調で二人に声をかけながら、紫月は店の鍵を開けました。
期待の余り急かすように小刻みに体を上下させる知弦とは対照的に、押し黙っていた男子の方が口を開きます。
「夕焼けくらい普通に見てもいいんじゃないのか」
何故わざわざ屋根に登る必要があるのかと、言外に純粋な疑問を乗せた台詞でした。
紫月は店に入って電気を点けて、二人を招き入れます。
「地面から建物の壁に遮られて、電線に区切られた空を見るのと、屋根の上で暮れ炉を直に見るのとじゃ、全然違うのよ」
紫月は穏やかに流し目を一度、男子に送り、さらりとそのまま流して店の奥へ行ってしまいました。
二人は、紫月がいつも通り出迎えのお茶を淹れてくれるのだろうと自覚して、店内で待っています。
「まぁ、確かに、一年の時に教室から見た夕焼けの方が目を離せなかったな」
「今は一階だしね。高いところのが、景色良いのにねー」
「がき」
素気無く呆れた目と声を向けられて、知弦は頬を膨らませた。それが一層童顔を幼く印象付けるのだと気づかずに。
「それと、危ないからお前は屋根に乗るな」
「えー」
「……デパートの屋上とか、平らで広くて柵がある所にしろ」
「あ、なるほど。やっぱ頭いいね、ナオは」
知弦は相棒の意見にいたく得心がいったと頷き、早速この辺りでそれが実行できそうな建物を想い浮かべます。
「お茶入ったよー」
「はーい!」
そんな所へ、紫月がお茶を携えて、二人に奥の座敷へ上がるように声をかけました。
呼ばれた犬みたいに颯爽と紫月の待つ座敷へ駆け出す知弦を見送り、相方の男子は足をしばし留めています。
「未言屋ほど賢くもないし、生き方も上手くないな、俺は」
そんな事を独り言ち、彼は外から射し込む滲んだ夕日の茜色の影を眺めて、それから二人がいる座敷に足を踏み入れたのです。
未言屋源宗 『暮れ炉』 完
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