アラウンド フィフティーズ ラヴァー

H.K

アラウンド フィフティーズ ラヴァー

「最後はさ、姉さんありがとう、なんていってくれたね、この子、でも、相当老けちゃって、幸せだったかしら、きっと幸せだったはずよね、マユミに看取られたんだから」

「そう、なんだか切ないね、ナオキは非行少年なんかじゃなかったよ、優しい人だっただけよ」

 

 

 享年五〇歳、男性、バツイチ、独り暮らし、職業は自営業、喫茶店を経営。死因、癌、全身へ転移。

 

   ━━━ 再会 ━━━

 

 僕は四〇歳前半で、離婚した。これを期に好きなコーヒーを淹れてあげて、のんびりと過ごして欲しいと考えて、というか、僕がのんびりしたかっただけだ、それが一番の理由で、喫茶店を構えた。喰っていけるだけの収入は確保できた。

 常連さんには沢山助けてもらった。ありがたかった。

 最大に感謝しかないのはマユミ先生、マユミさんだ。

 


 私の最後の恋愛だったと思っていた、嬉しかった。でも、少しだけ辛かった。ありがとうナオミ。そして、ナオキ君。

 

 

「ナオキさん、こんにちは、思ったよりはお元気そうで」

「えっ、どちら様、でしたっけ」

「覚えてない、ですよね、もう三〇年も経ってしまいましたもんね、あっ、ナオミが連絡してくれて」

「あっ、マユミ先生、マユミさん、か、わざわざ、姉貴はマユミさんにまで声、かけてたんですね、すみません」

 

 マユミは同級生のナオミ、ナオキの姉のナオミから、ナオキの入院が長引きそうだと聞いて、大病だと聞いて、勇気を振り絞りナオキの病室へ駆けつけたのだった。

 

「お変わりないですね、正に走馬灯みたいに、今、あの頃の記憶が頭の中を駆け巡りましたよ、ほんとに、わざわざ、ありがとうございます」

 

 ナオキは四五度くらいに、ギヤッジアップされたベットから身体をお越して傍にある手摺が木製て、脚までアールを描き、座面が水色の椅子へ腰掛けてもらおうと手をかざした。

 

「何をおっしゃいますやら、もう還暦まで秒読みですよ、揶揄わないで下さいよ、もう」

 

 マユミはそんな仕草に無意識に促され、照れながらその椅子に腰掛けた。

 

「でも、良かったです、お会いできて、それと、ナオキさんのことだから、お見舞いにきている方も多いだろうって思ってたのですが、あっ」

「はは、先週はいっぱいきましたよ、姉貴は拡散スピーカーで、僕の同級生に片っ端から連絡したみたいで、昨日あたりから落ち着きまして」

 

 マユミは極力、普段通りに接しようと気構えていたが、ナオキが直ぐに自分のことを思い出したことで、少しだけ気が緩み、いってはいけないかと思う言葉を気にしてしまった。

 方やナオキは、マユミに会うことができて嬉しさしかなく、マユミが気にすることなぞ、思いもせずに話していた。

 

   ━━━ 回想 ━━━


 三〇数年前、マユミは母校の中学校へ教育実習に出向き、ナオキと初めて言葉を交わすことになった。

 身長が一五〇センチあるかないか、華奢であるが、華のある顔立ちで、マユミがいると、その空間の華やかさが増すといっても過言ではなく、更には、多くの男性が〝助けてあげたい〟と思わせる雰囲気を醸し出す容姿だった。それは実習期間も何ら変わらなかった。

 

「ナオキ君、ナオミの弟さんよね、私のこと分かる」

「はっ、ナオミの、覚えてない、です、家にきたことあったんですか、俺はナオミと仲が悪いから、あっ、トイレにいくので」

 

 朝のホームルームで、教育実習生と紹介されたマユミが、ホームルームを終え、廊下で意識的に初めて会話を交わした。

 

 マユミは華やかな笑顔でナオキに声をかけたのだが、その華やかさをかき消せんばかりに、ナオキは素気なくかわした。ただの反抗期の中学生そのものだった。

 珍しいことに、ナオキがトイレへ足を運び始めると、廊下にいる生徒たちはナオキにそこへの動線を譲るよう端へと身を寄せるのだった。

 その後ろ姿にマユミは首を傾げたが、マユミを案内してきてナオキの担任教師は、その状況が至極、自然な光景のようで、何の反応もせず、首を傾げたマユミをも目視できていないかのように職員室へ向かうのだった。

 当時ナオキは三年生で、物静かだったが、一、二年生の頃は明るく振る舞っていたが、弱い者虐めをする同級生に対しての制裁の度が過ぎて、転校していく生徒がでるくらいだった。

 そんなナオキの振る舞いに教師たちは、黙認していたか否かは定かではないが、明らかに黙認状態だった。

 だから、自然にナオキへ近づく同級生はいなくなった。

 それはナオキが小学校六年生の時に歳が二つ上の中学生二年生に集団リンチを受け、ナオキ自身が弱い者虐めを嫌うようになったのが一つの理由にあった。

 マユミはナオキのそんな経緯を知らないでいたが、ナオキのクラスは授業中の私語が少なく、教師の邪魔をする生徒が一人もいなかった。

 それは、同じクラスの生徒、皆がナオキを恐れていたからだ。

 教師の授業の進行を阻むのは、その生徒が弱い教師を虐めているとナオキは捉えていたのだ。

 特に、一年生の時の担任教師は、音楽を受け持つ老いた男性教師で、見た目が弱々しく、これまで、その教師の授業は学級崩壊かと思わんばかりの荒れようだった。

 すなわち、その教師は全生徒から舐められていたのだ。

 だからナオキは、その教師の授業で騒ぎ立てるクラスメイトがいたら、男子生徒には鉄拳制裁を下し、女子にはドスの効いた声で、〝おいっ〟と、恫喝じみたことをしていた。

 結果、ナオキに近づく者はいなくなっていったのだった。

 しかし、弱い者虐めへの制裁は賛同する者もいて、決して嫌われ者ではなかった。

 そしてそれは、ナオキに後悔の念を宿す事象になっていった。

 ナオキ自身は当たり前なことをしているといった認識だったが、避けられ、怖がられることに気がついていくと、鉄拳制裁、若しくは、言葉の刃を放った者以外の生徒たちへ嫌悪感を抱かせていると考え、それが嫌で自らも孤立することを選択した。

 

「では、この問題を解けた人は私に見せにきて下さい」

 

 マユミは数学の授業を担当していて、ナオキは数学が好きで、自宅では予習、復習を好んでしていた。

 

「はいでは、模範解答をしてもらいましょう、正解だった人の中から、誰か、やりたい人」

「はい」

 

 ナオキは、そうしたマユミの授業システムの時は、積極的だった。

 問題を解いて、正しければ直接マユミに褒められ、黒板の前に立てば、クラスメイトから称賛され、無意識的にそれを快の刺激として幸福感を覚えていった。

 またこれは、正のスパイラルと化し、数人のクラスメイトは、休み時間や放課後にナオキに数学を習い始めたのだ。

 更には、マユミの授業に協力的になり、ナオキのクラスはその授業へ楽しさを覚え、知的好奇心を奮い立たせ、マユミ自身さえ、授業時間の五〇分間が心地良い旋風が駆け抜けるよう、あっという間に過ぎて行くと感じていた。

 

 

 僕は最初、マユミ先生のことを何とも、いや逆にナオミの友達だから、良い気がしなかったんだけど、授業を気にいるようになって、マユミさんのことまでも好きになっていった気がしたんだ。

 でも、学校の先生なんだから、調子に乗らないように振る舞っていた気がする。

 だから、マユミ先生の最後のホームルームでは、少しだけ顔が熱くなったんだけど、ありきたりなことしか言葉にできなかった。

 

 

「ナオキ、今日でマユミ先生終わりなんだよ、職員室にいって、声でもかけてあげたら」

「はっ、何で、俺は何もいうことはないよ」

「ほんとにいいの、もう会えないんだよ」

「はっ、実習期間が終わるんだから、それはそうだろうよ」

「一緒に行ったげようか」

「いいよ、俺は帰るから」

 

 確か、隣の席のケイコだったかな、そんなことを話したかな。中坊の僕は素直にそんなことができるはずはなかったよな。

 でも、ケイコは僕の想いに気がついていたんだろうな。マユミさんが僕に好意を持っていたのも気づいていたんだろうな。

 

   ━━━ 侵攻 ━━━


「すみません、吐血のようです」

 

 マユミはナオキの顔の下で病室に備えられていたステンレス製の洗面器を支え、背中を摩る手を離し、ナースコールのボタンを押していた。

 

 口を押さえるナオキの右手の掌と指の隙間からは、血液が滴っていて、苦しそうに咳き込んでいた。

 

「恐れ入ります、ご頻繁にお見舞いにきて下さっているようですが、こんな場面が今後も起こりかねませんので、次回いらっしゃる時は、ナースステーションに声をかけて頂けますか、血液を介して何らかの感染がありますと、貴方様や貴方様が媒体になって他の方々へ何らかの感染を起こしかねませんから」

「えっ、はい、そうですね、分かりました」

 

 マユミは週に一、二回、ナオキを見舞いに訪れていた。そして、こんな場面に出会すのは初めてで、その看護師の言葉も相まって、強く心を震わせていた。

 

「悪いね、最近は毎日きてくれてるみたいで、何とか症状は緩んだみたい、血を吐くのは」

「うん、良かったね、私、いい忘れていたんだけど、これからも毎日くるね」

「えっ、それは申し訳ないよ、最近は身体が痛くなることもあるんだ、まだ強い痛みじゃないからいいんだけど」

「そう、辛いわね、大丈夫よ私は、正直にいうね、教育実習の時にナオキ君がいてくれたから私、教師になれたって思っているの、そのお礼のつもり」

「信じられないけど、僕は何もしてないのに、当時は数学がとても楽しくて」

「うん、そうよね、とても楽しそうだったもん、それがね、ありがたかったの、私もそのいきおいで、実習、上手く立ち振る舞えた、自信がついた、私自身が変われた、でね、教師になって壁が前を塞ごうとした時は、ナオキ君が現れるの頭の中にね、それで、何とか超えられた」

 

 マユミは久し振りにナオキの前で笑顔を見せた。ナオキにとってそれは、あの頃の華やかなマユミを思い出していた。

 

「ナオキ君は私にとって、なんていったらいいんだろう、神、ね、大好きな神」

「ハハハ、マユミさん大袈裟だよ」

 

 蒼白い顔を真っ赤にしていた。

 

「だからね、今だからいえるの、ナオキ君が好きだったんだなって」

「ありがとう」

 

 頬を赤らめたナオキはその一言を口にするのが精一杯だった。

 二人の空気は長い沈黙を作った。

 

「でも、俺、そろそろ終わりだよ、そんなこといわれても、終わりが長引く気はしないんだ、ごめんね」

 

 再び、沈黙が包み込んだ。

 

「うん、もっと早くに伝えることができていたら、最終日にナオキ君に駆け寄れば良かったかな」

「過ぎたことだよ、でも嬉しい、僕にとってマユミさんは、憧れで、雲の上の人だった、たまには、家で独りの時、色々想像したけどね、なんで駆け寄ってくれなかったんだよ、冗談、冗談」

「私のこと想像してたの、やらしいんだから」

 

 その時、マユミは躊躇なくナオキを抱きしめた。ナオキはそれを受け入れた。

 これまでの沈黙より、何倍も長い時が流れた。

 

「マユミさん、大丈夫、ありがとう、久し振りだよ、こんな感覚、キュンだよ、入院室が全部個室で良かった、恥ずかしいのをそそるのがなくて」

「そうね、私もキュンとした、素直になれるね」

 

 二人とも恋愛の感情を呼び覚ましていて、マユミはナオキから身体を離すと、素早くフレンチキスをした。

 

「アハハ、マユミさん、興奮するよ、い、ま、は、自信がないな」

「何、何いってんの、私は今、大満足よ」

「僕も僕も、そうだよ、でもさ、丁度ベッドだしさ、愛し合いたいなんて思ってしまったよ、もっと元気になりたい、なれる気がするよ」

 

 普段よりナオキは、目がパッチリと開き、正気を取り戻していた。

 

「無理は禁物よ、そういってくれて嬉しく思えた、私もそうなりたい、だから、元気になってね」

 

 この日は、二人の心が重なりあったことを確認でき、今後はもっと、結び合いたいと思えた二人だった。

 マユミはナオキの屈託のない笑顔を目に焼きつけて病室を後にすることができた。

 

 独り暮らしの部屋へ帰宅すると、その余韻が拭えきれないまま、浴室で汗を流しながら、何年ぶりかのアクメを独りで幾許かも味わうのであった。

 一方、ナオキは、あの後にそんなことができない自分自身に対して、悲観的になったものの、思考を切り替えて、近しい未来を楽しむ気持ちを強固にすることができて、生きるモチベーションが高まったのだった。

 しかしながら、ナオキは翌朝、全身の痛みで目が覚めた。

 その痛みは身体の中央へ四肢、頭部を集める如く、頚部、背部、腰部までをも丸めて硬くしていた。しかし、右腕だけをナースコールのボタンへ懸命に伸ばし押すことができた。〝痛い、助けてくれ〟と、必死に胴間声を上げた。

 

「タチバナさん、鎮静剤を筋注します、その後にモルヒネを飲んで下さい、看護師に準備させてますから」

 

 その日の当直を担った医師は優しい冷たさで、そう告げた。ナオキの耳へはその冷静さが安心へ変換された。

 

「ありがとうございます」

 

 まだ、薬剤の効果は発揮されてはいないが、ナオキも冷静さを幾分かは取り戻していた。

 

「タチバナさん、どう、少しで構いませんのでお食事、食べれますか」

 

 看護師はナオキの痛みが治っていることを把握していたが、プレッシャーにならないように朝食を勧めた。

 

「ありがとうございます、身体はだいぶ楽になったみたいで、頂きます」

 

 看護師はナオキのその言葉にホッとして病室を後にした。

 

「えっ、何ていったらいいんだろう、大切に思える人かな」

「イガラシさん、献身的ですね、入院前からのお付き合いですか」

「いえ、初めは僕が中学の時に、教育実習生で、あっ、姉の同級生なんです、何一〇年か振りの再会なんです、大丈夫です、怪しい人ではありませんから」

 

 看護師は食器を下膳しにきて、マユミのことを探りにきたのだった。

 

「恋人、なんですね、あっ、すみません、詮索してるみたいで」

「いや、そうなりますよね、ご心配おかけして、こちらこそ、すみません、でも、何かあったらいって下さい、マユミさんにも迷惑かけたくないので」

「いやいや、大丈夫ですよ、こちらこそ、何でも聞いて下さいね」

 

 ナオキはことなきを得たように思った。

 看護師は終始、何かを疑うような表情、素振りは見せていなかったため、マユミに関する会話は終わった。

 

 昼下がり、マユミは一度、ナースステーションに声をかけ、ナオキにマユミの探りを入れた看護師が、これまでにない、純朴な笑顔で、入室を誘われ、ナオキの調子が良くなったと期待した。

 

「いらっしゃい、マユミ」

「こんにちは、嬉しい、期待通り」

「えっ、何それ」

「前にね、ナオキのこの部屋にくる前に、声かけてくれっていってた看護師さんが、今日は素敵な笑顔だったもんだから、相当ナオキは調子が良いのかなって思ってね」

「うん、調子良いよ、調子も良いし、あの看護師さんにはマユミのことを大切な人っていったからかな、喜んでくれてるのかも」

「私のことをそういったの、照れるわ、でも、ありがとう」

 

 この日のナオキはとても饒舌で、ベッドの端に座り、姿勢良くして、マユミを笑わせたり、節々で、〝ありがとう〟、〝好きだよ〟と、たっぷり愛情を注いだ。

 そして、抱き合い、二人は優しく繋がった。

 そう長い時間ではなかったし、二人の腰は激しく動くわけではなく、ナオキがマユミに入って行くと、お互いの形状やテクスチャーを触って確認するような程度の微動で、直ぐに、所謂、脳イキのような状態になった。

 マユミは少しだけ身体が反り返り頭の中を白に支配された。

 ナオキはほとばしることはなかったが、雲に包まれて空をポカポカ舞うような心地良さを覚えていた。

 

「ナオキ、ありがとう、私、女を取り戻せたみたい」

 

 ナオキはそのマユミの言葉がいつまでも記憶していられる物、大切な言葉を手に入れたと思うのだった。

 

 その日を境に、ナオキの身体は、これまでの薬効が減少していって、マユミと会えない日が多くなっていった。

 

   ━━━ 哀悼痛惜 ━━━


 マユミはナオキと会えない日には、神社や仏閣、教会へ足を運んだ。

 そして、祈った。

 

『ナオキが最小限の苦痛で旅立たれるように』


 と。

 

「ナオキ、今日は会えたね、頑張ってるね」

「会えた、嬉しいよ」

 

 そんな日は言葉数少なく、ナオキの右手、若しくは、左手を、マユミは両手で包み込むだけだった。

 

 また、ナオミが見舞いにくることが増えた。

 

「マユミ、ありがとね、毎日、きてくれてるんだね、ナオキと色々話せたの」

「うん、幸せを教わったわ、ナオキは優しい人よ、ほんとに」

「本当だね、私、そんなナオキの側面を自分で封じていたみたで、気づこうとしてなかったかも、唯一の弟なのに、唯一の家族なのに」

 

 ナオミとマユミは、目を瞑り、穏やかな表情で、しかし、そんな優しさを醸し出しているナオキの姿に反して、胸に取り付けられた心電計の吸盤からは、ナオキの拍動を耳障りな高音域の機械音に変えていて緊張感を拭えなかった。

 この耳障りな音は、特に、この二人の女性の深層にまで、障る思い増幅させていた。

 

「ナオミ、それは自然な血縁関係の理じゃないかしら、ナオキが離れそうになってしまってるからね」

 

 マユミの表情は硬いにも拘らず、その不快音を超えて悟りの境地へ達したの如く、ナオミの自責を慰めていた。

 

「ありがとう、家族だから、そうだね、この子のおむつだって変えたことがあるからね、邪魔な存在なんて思ったこともあるからね」

「うん、それが二人にとって自然なことだよ、だからね、私は実習生の時を思い出して、ナオキへの恋心を思い出して、こんな歳なのに、完全なプラトニックじゃないけど、愛せたの、ナオミがね、ナオキのこと教えてくれなかったら、こんな心境を取り戻せなかったよ、ナオキも似たようなこと、考えてると思う」

 

 すると、目を瞑ったまま、ナオキの口が動いた。

 

「姉さん、ありがとう、姉さん、ありがとう」

 

 ナオミは奥底から膨れ上がってくる悲しみを静かな涙として溢されていた。

 

 

 遡ること二週間前、ナオキとマユミが心と身体を交えた後だった。

 

「イガラシさん、素敵ですね、でも、大丈夫ですか」

 

 マユミが病室を出て帰ろうとしていた時、エレベーターホールの前で、私服でいるあの看護師に声をかけられた。

 

「はい、えっ、えっ、あぁ、看護師さん、仕事終わりですか、見違えますね、可愛らしい、はい、大丈夫だと思います、この歳で、女として、何か取り戻せた気でいるの」

「そうなんですね、ほんと、素晴らしいですね、ていうか、お二人と接しさせて頂いて、力強さ、頼もしさを感じていて」

 

 看護師がそういうと、エレベーターが到着し、扉の中には三人の人が乗っていたため、二人は無言になった。

 

「何ていうんでしょう、お二人の愛は、永遠に潰えないような気がして」

「はい、今後、彼のことを嫌いにならないと思うの、ずっと好きでいると思うの、でも、彼の時間は私より短いだけだって思うの」

 

 エレベーターを降りると、会話は再開した。マユミの言葉と仕草には誠実さしかなかった。

 

「イガラシさん、もし良ければ、もう少し話を聞かせてもらえませんか」

 

 マユミは看護師と二人で、一階の受付から正反対のエリアにあるコーヒーショップへ足を運んだ。

 

「私は彼に教師になる勇気と自信をもらったの、彼は決して口にはしなかったけど、教師になれって背中を押してくれた、そして、今日まで教師を勤めることができているのも、彼のおかげだと思う」

 

 コーヒーを買って、丸テーブルの席に着くと、一口づづ味わい、マユミから話を切り出した。

 

「そうなんですね、長い間、お会いしてなかったって、タチバナさんは仰っていたのですが」

「うん、でも、彼の姉と同級生で、いってみれば、彼とも幼馴染みっていってもいいと思う、それと、私が教師をしていて、乗り越えないといけない時は、私のどこかにずっと彼がいてくれて」

「じゃあ、イガラシさんはタチバナさんを一途に想いを寄せていたのですか」

「んん、そうではないわ、彼の姉がタイミング良く、私たち二人の距離を縮ませてくれたんだと思う」

「人生、何が起こるか分からないって感じですかね」

「それも当てはまるか、言葉で表すの、難しいわね、私、数学教師だから」

「言葉は難しいですね、でも、お二人は恐らく、急展開ではないんでしょうね、心の中にお互いへの想いを燃やしていたんでしょうね、美しいです」

「ううん、そんな美しい物では、彼には色んな感情を呼び起こさせられてるの、いちばんは、女としての欲望が強いと思う」

「それはそれで、良いこと、というか、自然というか」

「そういってくれると嬉しいわ、肩肘張らないで済むわ」

 

 二人の女子会はマユミの恋話で盛り上がった。



 一週間後。

 

 マユミは午前中で各クラスの数学の授業を終え、昼ご飯を済ませ、学期末考査の見直しをしていた。

 すると、ナオミから電話がかかってきた。

 

「マユミ、仕事中だとは思うんだけど、ナオキがね危篤状態らしいの、私はこれから病院に向かうんだけど、あんたは都合どう、きてくれる」

「うん、大丈夫、私も向かうわ」

 

 マユミは教頭に事情を話し、早退することができた。

 支度を終えると、事務室からタクシーを呼ぶ電話をかけて、学校の隣りにある弁当屋の前でタクシーを待った。

 

 マユミが先にナオキの病室へ到着し、右手を両手で握った。

 

「ナオキ、マユミよ、今日もきたわよ」

「マユミ、ありがとう、僕は君と、再会できて、幸せだったよ、こんな嬉しい、終わり、かた、できるのは、夢にも思って、なかった」

 

 ナオキは最後の力を振り絞って、マユミに気持ちを伝えた。

 

「ナオキ、姉さんも今、着いたよ、まだ、死んじゃ嫌よ、頑張って」

 

 ナオミは理由を思いつかないまま、ナオキを励ました。そして、滝のように涙を流した。

 

「姉さん、ありがとう、ごめんね」

 

 ナオキの声は徐々に掠れていき、そこまでしか聞こえなかった。

 その数分後、高音域の心電計の音は一定になった。

 

 

「最後はさ、姉さんありがとう、なんていってくれたね、この子、でも、相当老けちゃって、幸せだったかしら、きっと幸せだったはずよね、マユミに看取られたんだから」

「そう、なんだか切ないね、ナオキは非行少年なんかじゃなかったよ、優しい人だっただけよ」

 

 ナオミはいつにない悲しい雰囲気で目の周りを腫らしていた。一方、マユミは、そんなナオミの感情の不安定さ、起伏の大きさに対して違和感を覚えていた。

 恐らくナオミは、人が荼毘に伏せることが非日常的なもので、今後自分自身がどう、その事実に向き合ったら良いのか、整理をつけることができないだけだった。本質的な悲しみとは違う、若しくは、悲しむという感情を充分に理解できていない、と、マユミは捉えていた。

 逆に、自分自身の身の振り方に対しては、所謂、〝恋多き女〟へと思えるくらいに、いわれるくらいに、男を愛し、愛することを探求していくことを選択したのだった。

 

 マユミは、アラフィフを終えようとしている時に、欲する愛を求め、満たす女性へと変貌していった。

 

 終

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