02.恋への憧れ

 その日の夜になって、ディオンがエミリアーヌの部屋に訪ねてきた。

 仕事終わりで疲れている彼に、座ってと促すと一度は断られたが、強く言うとエミリアーヌの分のお茶を淹れてから座ってくれた。


「ディオン、パメラから聞いてくれたかしら?」

「はい、恋をしたいという話でよろしかったでしょうか」

「そうなの、あなたに恋させてくれない? 私が再婚するまでの間だけでいいのよ」


 エミリアーヌがほわんと告げると、ディオンが右手で頭を抱え始めた。

 そんなにおかしなことを言ってしまっただろうかと首を傾げる。


「それは……私が相手でなくてもよろしいのでは?」

「そうなんだけど、他に頼める人がいないもの」

「再婚相手に恋をなされば、万事解決かと思われますが」

「恋させてくれる人かどうか、わからないわ」


 ぷい、と斜め下に視線を投げれば、ディオンから憐憫のオーラが漂ってくる。


「お嬢様は、フランドル様に恋はなさらなかったんですか?」

「あの人、私と結婚しただけで、なにもしなかったの」

「なにも……しなかった、とは?」


 ディオンが驚愕したように目を広げている。

 伝えるのは情けなくて惨めだったが、恋をさせてもらえるならとエミリアーヌは口を開いた。


「たまに会話を交わすくらいで、寝所に現れることもなかったの」

「……え?」

「お母様に教わった初夜の手順も、役立てる機会がなかったのよ」


 ガッ、と音が鳴ってディオンの座っていた椅子が少し後ろに下がった。

 さすがに引かれてしまっただろうかと、エミリアーヌは自嘲する。


「本当ですか」

「本当よ。私、お飾りの妻だったみたい。フランドル様の本命は若い使用人の女の子で、そちらにゾッコンだったわ」

「そんなこと、聞いていません!」

「今初めて言ったもの」

「どうして早く言わないのですか! 十六年もの間、ずっと我慢していたのですか?!」

「え? 言ってもよかったの?」


 貴族と貴族の結婚には、様々な思惑がある。エミリアーヌはこの家のために自分から離婚などできないと思っていたし、なにがあっても女は耐え忍ぶものだと教育を受けていた。

 だから、こんなものかと受け入れてしまっていたのである。


「お嬢様は、あちらで幸せになっているものだと……っ」

「ディオン?」


 わなわなと震えているディオンの眉が、釣り上がっている。

 そんなに怖い顔をしなくてもと首を傾げて見せると、ディオンは気を落ち着けるようにフーッと深い息を吐いた。


「今ならまだ間に合いますね。今日知れて良かった」

「なんのこと?」

「最初からフランドル様は、その若い女と一緒になるためにお嬢様を利用なさったのでしょう。身分の低い者を正妻にはできないが、妾にはできる。そして正妻に子どもができなければ、四十になった時には子を生む能力なしとみなされ、正当な離婚が成立する」

「そうね」

「離婚後は、妾の方に子どもがいれば、そちらが正当な後継者だ。妾も正妻へと格上げできる」

「じゃああの人は今頃正妻ね」


 もうすでに他人事なのでさらっと言ってみせるも、ディオンの怖い顔は戻らない。


「こんな屈辱があってたまるか! お嬢様の十六年間を奪った上に契約不履行で三行半みくだりはんだと?! お嬢様を抱かなかったのは、そっちじゃないか!」


 ダンッとディオンはテーブルをたたき、ビクンとエミリアーヌの肩が跳ねた。

 ディオンがそれに気付いてハッとし、頭を下げる。


「申し訳ありません、お嬢様」

「いいえ、怒ってくれてありがとう。でももう、気にしないで?」

「いいえ、これはお嬢様の優しさを利用した、立派な計画的犯行です。契約不履行はフランドル様の方だ」

「なにをする気? あちらは、侯爵家なのよ?」

「侯爵家が相手でも関係ありません。慰謝料を取れるだけ取って、お嬢様に謝らせてやりますよ」

「あの? 私、別にそんなことを求めてないんだけれど」


 キッと家令の目をした執事が、スタスタと扉に向かってしまう。


「やるべきことができたので、失礼いたします」

「え、ちょっと? 私の恋のお相手を──」


 エミリアーヌが全てを言い終える前に、パタンとディオンは出ていってしまった。


「私、恋をできるのかしら?」


 前途多難だわ、とエミリアーヌは深く息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る