七章 西王母

七章①

 元皇太后付きの女官、鄧雨桐は新たな人生に向かって歩き去る。


 よそ者が縁もゆかりも無い土地で暮らすのがいかに難しいかは春菊にも分かっている。しかし雨桐の場合、がらりと生活環境が変わった方が多少ましかもしれない。


 彼女の後ろ姿は紙の上に落ちた墨の飛沫しぶきほどに小さくなり、やがて見えなくなった。

 ぼんやりと見送っていた春菊は「さてとー」と踵を返すが、すぐに飛び上がる。


「わぁ!? まだそこに居たの!?」

「んむ。ちと考え事をしておったのだ」


 とっくに帰ったと思っていた老明真君はすわった目つきで春菊を見ていた。

 春菊は何となく嫌な予感をおぼえつつも、彼に問う。


「……きっと僕に関係のあることを考えているんだろうね」

「そうとも。お前さんはてっきり成り損ないの道士かと思ったが、正式に修行したわけではなさそうだな?」

「崑崙山で仙人や道士に囲まれていたけど、僕はずーと画ばかりを描いていたよ。でも西王母はこんな僕にも功過格をしてくれるんだ」

「ふむ、解せぬな。……何はともあれ、お前さんは一度きっちり道士の修行を積むべきだろう。このまま黄龍殿と共にあるとするなら、このままであっていいはずがない」

「そうなのかなぁ。そもそも黄龍と一緒にいる感覚があんましないからなー」


 確かにさっき目撃した間欠泉もどきには驚いたし、転移の術もどきも便利だと思った。だけど肝心の黄龍の姿は見えず、老明真君の話の中でしかその存在を理解していない。

 だから老明真君がいくら懸念しようとも、春菊にとっては何のこっちゃでしかないのだ。


「とにかく崑崙山に行くぞ。この儂が西王母に対してお前さんの現状を説明してやろう。きっとあの方とて、危機感を抱くに違いない」

「えぇー、西王母に僕のことをあんまり悪く言わないでほしいよ。怒るとすっごく怖いんだ」

「つべこべ言うでない。ほれ、行くぞ」


 老明真君が杖をこつんっと地面に打ち付けると、瞬時に風景が変わる。

 乾燥した荒地から、充分に湿度がある岩場に。


 目の前のへんてこな岩に見覚えがある。

 というか、ちょうど平らになっている所にある饅頭の落書きは春菊が描いたものなのだ。


「この落書き、僕が描いたんだー! 西王母は消さずに残しておいてくれたんだなぁ。へへへ」

「何と……。この落書きをお前さんが? 何とも気の抜ける良い絵を描くものだ。画家を名乗るだけの腕前ではある」

「もし僕の饅頭の画が欲しかったら、紙にでも描いてあげようか?」

「この饅頭の絵を我が家の掛け軸にしたいような気もするが、今はそれどころでもないのだ。しかし、うーむ。悩ましいものだな」


 饅頭の落書きの前にて、二人で間の抜けた会話をしていると、側にある階段の上方から、と軽やかな音が聞こえてきた。

 春菊はその音の主を察して、勢い良く顔を上げる。

 すると、一際大きな奇石の影から麗しい仙女が現れたところだった。


 彼女が纏う淡い色合いの薄絹が風になびく。

 薄桃色、若草色、菫色。おいぼれた爺さんが多いこの崑崙山において、彼女の鮮やかさは際立っている。

 まだ幼かった頃の春菊は、彼女の衣からあらゆる色の名を覚えたものだった。


 彼女の艶やかな黒髪は隙無くまとめられ、宝玉の飾りが映えている。

 しかし綺麗で美しいだけではない。極めて優美なのに、目だけはやたらと鋭い。

 まるで虎や獅子の様である。


 彼女は春菊の方を向き、すっと目を細める。

 

「久しく見ぬうちに、随分と人間離れしたものじゃ。長いものがお前に纏わりついている」

「なんかねー、黄龍が一緒に居てくれる様になったんだって。僕には見えないけれど、西王母が言うなら、本当なんだろうね」

「つくづくわけの分からない娘じゃ。くくっ……」


 西王母はけたけた笑いながらさらに春菊に近づこうとする。

 しかし、西王母と春菊の間に老明真君が入ったため、ぴたりと歩みを止める。


「西王母殿。このたぬき娘に関して伝えねばならぬことがあるのだ」

「何じゃ?」


「あわわ……」


 老明真君は動揺する春菊をちらりと見た後、西王母にさっき春菊が雨桐を逃したことや、主張した”義”に関して一気に話し、その考えの甘さについて懸念を示す。

 てっきり西王母は彼に同調し、春菊を叱りつけるだろうと思ったのだが、意外にも春菊の味方になってくれた。


「相も変わらず小さい男じゃ。お主はやはり、蒼林山とかいう地味な山の主で収まっておくに相応しいだけの器なのじゃな」

「ぬ……。それはちと言い過ぎではないか?」

「これ以上毒を吐かれたくなければ、口出しは遠慮してもらおう。妾はこの娘に経験を積ませ、より良い画を描かせたいだけなのじゃ。道半ばで甘っちょろい考えを主張するくらい、想定の範囲よ」

「へ? そうなんだ??」


 てっきり落書きをした春菊を嫌いになり、崑崙山から追い出したのだと思っていたが、そういうことでもなさそうだ。

 


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