六章⑩

 池の方へ歩いて行く老明真君を、春菊は小走りで追いかける。


「待ってー! 今日は僕達、お願い事があって来たんだよ」

「崑崙山への転移だろう?」

「ええとね、場所が違うんだ。えん国との国境まで転移をお願いしたいよ。この女性を隣国に逃……じゃなくて、移動させたくてさ」


 煙国と言うのは、圭国の隣に位置する国のことだ。

 画院長や副画院長の話によれば、その国には春菊の父が移住したようで、春菊は駄目元で父親を頼ってみようかと考えている。


 しかし、春菊の頼みを聞いた老明真君は良い顔をしなかった。

 

「儂にとっては煙国との国境にお前さん達を転移させるのは容易いことよ。だがな、お前さんは『逃す』と言いかけただろう?」

「あ、分かっちゃったんだ……」

「そちらの別嬪べっぴんさんの”陰”の気は無視出来ぬほど。さては何かあしきことをしでかしたのではないか?」

「私の”陰”の気は蠱を呼び寄せる。そいつらが……多くの人命を奪ったんだ」


 雨桐は下を向きつつもしっかりと彼女自身の罪を告白した。

 それを聞いた老明真君は低く「そうか……」と言い。さらに厳しい表情となった。


「ね、ねぇ! 僕達に転移の術をかけてくれるんだよね?」


 春菊は恐る恐る尋ねる。

 それに対する回答は色良いものではなかった。


「悪いが断らせてもらう。自分達で何とかするのだ」

「えー、何で駄目なの?」

「理由なら、今べっぴんさんが口にしたことについてだな。多くの人命をほふった者の逃亡を、この儂が助けると思うか? 儂の義(道徳)に反する行いぞ」


「……やはり」


 雨桐は諦めたように天を仰ぐが、春菊には諦めきれない。


「せっかくここまで来たのに!」

「何と言われようとも、駄目なものは駄目だ。お前さんとて、功過格(善行に対する評価)に影響があると困るだろう。その別嬪さんには罪をつぐなわせるべきなのだ」

「嫌だよ。だって僕、道士になった覚えなんかないし、官吏でもない。ただの画家だよ? 人を裁く権限なんか持ってないんだもん」

「ええい、なんと聞き分けの無い童なのだ」

「雨桐は悪い人に利用されたんだよ。僕も人に利用されたことが……皇太后をけなすための風刺画を描かされそうになったからちょっと彼女の気持ちが分かる。利用された本人が一番苦しいし、悔しいと思う。だからさ、新天地でやり直す機会をあげたいんだよ。新しい生活だってすっごく大変なはずだよ。それで罪の償いに出来ないのかな?」

「お前さんの義と儂の義は相容れぬ。残念なことにな」

「うぅ……」


 老明真君はあわれむように春菊を見る。

 やはり自分の考えは他人と大きく異なるのだろうか?

 やるせなさを感じ、視線を足下に落とす。


 そうしていると、池の方からざぶんっ!! と大きな水音が響いた。

 ぎょっとしてそちらを向き、心底驚く。

 そこには太い水柱が立っていた。徐々に高度を上げていく様はまるで間欠泉のようだ。


「わっ、わっ! 何が起こっているの!? 池がおかしなことになってるよ!」

「そこにいるのは黄龍殿!? どうしたと言うのだ? まさか、化け狸の感情に同調を?」

「これが黄龍!?」


 動揺している春菊などお構いなしに、水柱はぐんにょりと折れ曲がり、春菊や雨桐、そして老明真君に水を浴びせかけた。

 春菊の答えが黄龍の気に障り、怒りをぶつけられているのだろうか?


 しかしおかしな事に、大量の水がかかっても濡れず、苦しくもない。

 周囲の風景だけがめまぐるしく変化する。


 竹林から水中や土を通り、荒涼とした大地へ。

 足下には浅い水溜りがあり、もっと遠くにはぼんやりと街の城壁のようなものが見える。まるで覚えのない景色なのだが、ここはどこだろうか?

 近くには雨桐と老明真君がいるから、もしかすると黄龍の攻撃を回避するために、老明真君が転移の術を使って助けてくれたのかもしれない。


「老明真君が術を使ってくれたの?」

「いいや違う。恐らく黄龍殿がここまで運んだのだろう。そしてここは、煙国の辺境の街の近くだ」

「へ!? 煙国に来れたんだ!」

「黄龍殿はお前さんの願いを聞き、力を貸してくれたのだろう」

「そんなに親切な龍なんだね! どこに居るのか分からないけれど、ありがとうー!」


 老明真君は仙人だから、場所を偽って教えるなんてことはしないはずだ。

 だから春菊は自分の荷物から二つの画を取り出し、雨桐に手渡す。


「これは?」

「こっちは僕の父、菜青梗の山水画を僕が模写したものだよ。もし父に会えたら、これを見せて、君を助けるように僕が頼んでたと伝えて。そしてもう一つは僕が描いた香河の風景。これを商人にでも売って路銭ろせんにでもしてほしい。僕が描いたものだから、そんなに高くは売れないと思うけど……」


 雨桐は絞り出すように「有難う」と言う。


「それと、あの……さ。気が向いたらでいいんだけど、父上ともし会えたら、僕宛の手紙を書くように頼んだくれないかな。今あの人が僕に対してどういう感情でいるか分からない。生きているかどうかも……。でも、ちょっと気になるから。お願いだよ」

「分かった。必ず頼んでみる。あの……黄龍と」

「え?」

「柳家にはこんな言い伝えがある。黄龍と応龍、この二体の加護を得た時、国は大いに繁栄すると……。貴女は憂炎様と仲が良い。だからきっと圭国の行く末は明るいと思う」


何故そこで憂炎の名が出てくるのかは不明だが、適当に頷いておく。


「そっかー! 僕が何かの役に立つことなんて殆どないけど、憂炎が困ってたら助けたいね」

「貴女に出会えて良かった。圭国での苦い記憶が、少し洗われた。では」

「元気でねー!」


 会話を終えると、雨桐は遠くに見える街の方へと歩いて行った。


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