第7話 大好きだった彼
部活の早朝練習をしている人たちの声が聞こえる以外、静かな学校。朝特有の澄んだ空気。私は、この時間の生物室が好きだった。
いつものように、イベリスに水をやる。
「この間、数学の時間にみんなで立たされたって、本当?」
じっと蛙のケースを見つめているタツに聞くと、ああ、と返ってきた。
「……圭から聞いたんだろう。『橋下がプロポーズされたことで機嫌が悪かった』と」
「うん……タツは、田中先生が橋下先生のこと、好きだったと思う?」
「知らん。手紙回しで激怒したことだけが事実だ。他は憶測にすぎない」
心底どうでもよさそうにしているクールな彼も、連帯責任で立たされていたと思うと少しおかしかった。笑いをこらえていたら「なんだ」とこちらを見てきたので、私は「なんでもない」と首を振る。けれどもすぐに、タツはあくまで田中先生と橋下先生の関係を『憶測』と捉えていて、なにも知らないのに勝手に『事実』と決めつけていた自分が恥ずかしく感じた。
「そもそも、橋下がプロポーズされた話も単なるうわさ話だ」
「え、そうなんだ……」
うわさ話を簡単に信じてしまった自分の馬鹿さ加減にあきれていると、タツが「姿穂は……」と口を開いた。しかし、その言葉の続きがなかなか出てこない。なにかためらっている様子で、どうしたのかと少し心配になる。
私の名前を呼んだまま口を閉じてしまった彼に、「タツ……?」と声をかけると、彼はこちらを見た。眉を下げて、困ったように小さく笑っている。初めて見る彼の表情に、私は急に心が冷えていくのを感じた。
「田中と橋下の与太話を聞いて、姿穂はどう思った?」
「どうって……その、話が本当だと思っていたときは、田中先生のことを気持ち悪いと感じちゃったけど……今は、事実も知らないのに勝手に決めつけた自分を恥ずかしいと思ってる……よ」
この答えで合っているのだろうか。タツがなにを考えているのかわからない。私の言動ひとつひとつを試されているかのようで、すごく居心地が悪い。
「タツ、どうしたの……?」
私の問いかけに、彼はゆっくり首を振った。そして、彼の視線がケースの方へ向いたとき、私は思わず口元を手で押さえてしまった。
「なんで……そのケースに蛇が入ってるの」
蛙が飼育されていたケースに蛇が入れられている。彼が大切に育てていた蛙の姿はどこにもない。もともと蛇が入っていたケースは床材などが残されたままで、ケースの位置を変えたのではなく、蛇を蛙のところへ移したのだと想像できる。
誰が、なんのために?
「タツがやったの……?」
彼がやったとは思っていない。生き物を大切にしている彼が、そんなことをするはずがない。「ちがう」という一言が欲しくて、震える声で彼に尋ねる。
しかし、彼の答えは私が期待しているものではなかった。
「姿穂はいつも『好きなら告白する権利がある』と言っていたな。それなのに、どうして田中と橋下の話は気持ち悪いと感じた?」
「え……今、その話関係ある……?」
「本当は、俺のことも気持ち悪いと思ってたんじゃないか」
「な、なに言ってるの。思ってないよ、そんなこと」
平然を装おうとしているけれど、タツの声は震えている。いつもならやらない作り笑いを無理にしようとして、いろいろな感情が混じった表情になっている。
「しばらく、ひとりにしてくれ」そう言う彼は、今にも泣きそうだった。
タツの言葉をかき消すかのように、8時半を知らせるチャイムが鳴る。私はなにも言えないまま、走って生物室を出た。
どうしてこうなった? 教室へ向かいながら何度も考えるけれど、答えは出てこない。「ひとりにしてくれ」と呟くタツの声が、頭にへばりつく。なにが彼を傷つけた? 彼をなにを恐れているの?
当分、タツとは会えないだろう。しかしそれよりも、あれだけ生き物を大切にしていた彼が蛙を殺したのではないか、という疑念を拭えないことがとても悲しかった。
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