4-3
翌日、昼を過ぎても一向に姿を見せないリパゼルカに腹を立てる女がいた。
そう、テティスである。
リパゼルカが来るかもしれないと昼休みを遅らせに遅らせ、ついぞ後番で遅く出勤した人員全員に順番を譲っても結局現れなかった。
お腹を空かせた怒れる女神は、最終的に待つのを諦めて席を立つ。
「て、テティス先輩……お昼ですか?」
後輩の受付嬢が恐る恐る尋ねた。
するとテティスはにっこりと微笑み、
「ええ。ついでにそのまま外出して、今日は直帰するわね」
「わ、分かりました」
「……もし、仮に、リパゼルカさんが来たら、椅子に縛り付けてでも待たせておいて。呼んでくれたら飛んで行くから」
「わ、分かりましたぁ……!」
これでよし、とテティスは肩を怒らせて、カウンターを出る。彼女に話しかける新たな勇者は現れなかった。
すぐさまいつも使う近くの食堂で減りすぎたお腹を満たすと、テティスの気分にも少しばかりの余裕が生まれた。
誰しもお腹が減ると怒りっぽくなるのだ。
「まったくもう、急ぎの内容だって伝えたのに。……でも疲れが取れないのも仕方ないか」
先日のレースを振り返ると、リパゼルカの疲労が抜けないのもよく分かる内容だった。むしろ数日で元気になってたらちょっとおかしい。
テティスとて魔法の扱いには多少の知見がある。
空駆者にこそならなかったが、魔法使いとしては引く手数多だった過去があった。
日々、空駆者を見ていると感覚が麻痺してくるが、魔法の同時行使はそれ自体が高等技術だ。
初めて、特に三重強化魔法を使う場合なんてのは体調を整え、万全の準備をしてから、万が一に備えた人員の下で挑戦するものだ。制御に失敗した場合、過剰な強化魔法が行使者を破壊する可能性があった。
そんな危険な実践を土壇場で行い、あまつさえ成功させるのだから恐れ入る。
類まれなる魔法制御の能力には目を見張るしかない。
さすがに無茶苦茶やった反動までは抑えきれなかったようだが、それぐらいは甘んじて受け入れてもらわないと可愛げがない。
「……起きられたら、とか言ってたわね。まだ寝ているのかしら」
手紙の返事を早々にしなければならないのは確かなので、このままリパゼルカの家に向かうことにする。
小腹に溜まるお菓子を見繕ってあげたのはわずかばかりの優しさだ。捕まえたら返事をもらうまではどこにも逃さない。
前回覚えた道を通り、リパゼルカのお宅を訪問する。
そして前回と同様に扉の前に立ち、挨拶と一緒に扉を叩くと、衝撃に耐えられなかった扉がふらりと開いていった。
「また鍵をかけてない……年頃の女の子がいるんだから、しっかりしないとダメでしょうに」
呆れと怒り、それよりは強めの正義感、あと今日はさすがに誰かしら在宅だろうという気持ちで、前回は念入りに閉めて退去した扉の向こうへとテティスは足を踏み入れた。
空気が動いただけで吹き上がる埃の渦は無い。
埃が湧くその光景を見て、前の時は入る気を無くしてしまったのだが。
リパゼルカも掃除だけはしてくれたのか、と感心したが、白い床に足跡が残っていて「換気をしただけね」とがっくりした。こんな環境で生活をしていたら間違いなく病気になるだろう。
この家にはパッと見て三つの部屋があり、奥の部屋へと足跡は続いている。行き足だけで、部屋から誰も出てきていないように見えた。
「失礼しまーす。リパゼルカさーん、起きてますかー?」
家に入り、扉を閉めてから奥に声をかける。あまり外部に分かる形で呼びかけるのは良くない。
何度か声をかけたが返事は無く、人が動く気配も無い。
テティスは小さく息を呑んだ。
あまりにも静謐すぎる空間に、幻の恐怖を見出してしまいつつある。
そっと白い床に刻まれた足跡をなぞるように歩き出す。
奥の部屋に辿り着いても、動く物体はテティスと蹴り上げられた埃だけ。
視界の端を何かが過ぎったような気がして、つい振り返ってはみたが、進んできたばかりで埃にまみれた廊下が静かに佇んでいる。
心の柔いところをくすぐられる感触を覚えながら、テティスはふんわりと足を伸ばし、部屋の入り口からゆっくりと中を覗き込む。
リパゼルカはそこにいた。
窓際に設置されたベッドの上で、毛布もかけずに眠っている。
「なんだ、いるじゃないですか……?」
知った顔を見つけて安堵したのもつかの間、テティスは他の不可思議な点に気付いてしまった。
この部屋にはベッド以外の物がなかった。
生活感の全く存在しない部屋。
寝るためだけに戻る部屋だとしても、ベッドだけで毛布や枕が無いのはおかしいのではないか。
そして快適とは言えない環境に横たわるリパゼルカは、寝息一つ立てず、微動だにしない。まるで死んでいるかのように。
「リッ、リパゼルカさん!?」
テティスは埃のカーペットで足を滑らせながら、最悪の想像に顔を青褪めさせて駆け寄る。
サボり癖が出たぐらいに考えていたが、三重魔法の後遺症がここにきて顕在化したのかもしれない。
空駆者は激しい機動飛翔や魔法戦闘を行うため、普通の状態だと思っても内部で深刻な損傷が発生している可能性がある。
そのケースであった場合、気付いた時には手遅れとなっていることがほとんど。
転ぶようにしてベッドに飛びついたテティスはリパゼルカの手を取って愕然とした。
「冷た――」
言葉の途中で首を振って、自らの認識を遮った。氷のように冷たい手を持つ人はいくらでもいる。
命の脈動を探して触診をするが、手首も、首筋からもリパゼルカの命脈を見つけられない。
最後にテティスは躊躇した気持ちを制して、リパゼルカの薄い胸の奥、心臓の声を聴くべく繊細な綿雲に触れるように耳を添えた。
もしも何も聴こえてこなかったら……。
その恐怖を振り払い、この小さな身体から生まれてくるはずの音を探す。
自身の呼吸すら止めて、細く精神を研ぎ澄ます。全身全霊で耳から聞こえる事象を捉える。
かすかな布ずれの音すら拾い上げるほどの集中。
だが、しかし。
「どうして……、なんで――」
「……、誰……?」
「イッ!?」
あんまりにも驚きすぎて、テティスは自分の心臓が喉から駆け上ってきたかと錯覚した。
鼓動が全く聞こえなくて死んでしまっているのかと思った刹那、その相手から声をかけられたら誰でもビビる。
「リ、リパゼルカさん……! 生きてる!?」
バクバクと発熱する胸を押さえて、テティスはリパゼルカの顔を覗き込んだ。
薄っすらと開いた瞼の下、鮮やかな瞳は濁っていない。目やにが張り付いた、生者の目だ。
「よかっ、良かった……っ!」
安心したせいか、テティスの目尻からぽろりと涙がこぼれた。
今日は感情の上下が激しすぎて許容範囲を越えてしまった。
それを知ってか知らずか、ぼうっとした様子でリパゼルカが口を開く。
「テティスさん……。どうか、しましたか」
「どうもこうもないですよ! 息も脈も無いから、あなたが死んでしまったのかと……!」
「ああ……。家で寝ると、寝起きが悪くて」
「寝起きの問題なんですか!? ……と、大きな声ですみません。寝起きにうるさいですよね……」
少しばかり落ち着いたのか、声音を穏やかに抑制するテティス。
「本当に身体は大丈夫なんですか? 深刻な問題があって、それを我慢しているとかではない?」
リパゼルカは小さく頷いた。
「少し、待って……。ちゃんと、いつものリパゼルカになるから……」
そう囁いて、リパゼルカはわずかに開いていた瞼を閉じた。
テティスのハートに心配が毛羽立ったが、見惚れるほど綺麗な呼吸をしている口元を確認して大人しくなる。
柔らかな初冬の日差しが、どこか幼さを残した少女を風景に埋もれさせていく。
呼吸をしているだけの人形が、そこに置いてある。そんな錯覚をしそうだった。
五分もベッドに横たわる少女を見守っていただろうか。
突然動き出した右手で目やにを拭い取り、リパゼルカはようやく覚醒した。
あくびをしながらベッドの上で身体を起こし、大きく腕を伸ばして背筋を伸ばす。そしてあぐらをかくと、いつものように明るい声を発する。
「おはよー、テティスさん。……あんまり家に来てほしくはなかったですね!」
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