70話 海!

 夏休みの終わりの足音が近づいてきた八月後半。


 天気は快晴。

 青空に真っ白な入道雲がそびえたち、一歩外を出るとギラギラと降り注ぐ日差しと、うるさいくらいに鳴り響く、蝉しぐれの音が降り注ぐ。そんな真夏日。

 

 俺と詠は、電車を乗り継いで、江ノ島まで来ていた。


 俺たちの目前に広がる景色は、海、砂浜。あちこちにニョキニョキと伸びるカラフルなビーチパラソル。


 そして辺りを埋め尽くすほどの、人、人、人!


 これが、真夏の海水浴場。

 とうとう来てしまった。キング・オブ・夏らしいところ。


 海!


「うわー、海だあー!」


 俺の隣に立つ詠が、感極かんきわまったように、ばんざいポーズで叫んだ。

 今日の彼女の格好は、白いノースリーブシャツにデニムのショートパンツ。黒髪は可愛らしいシュシュで、ポニーテールにまとめている。

 大変、可愛らしく、そして夏らしい格好だ。


 詠も俺と同じく、生まれて初めての海水浴場だったりするわけだが……まあ、このテンションの違いよ。


 俺はと言えば、正直ちょっと圧倒されている。

 いやいや、人多すぎ。

 暑いし、海は太陽を反射してムダにキラキラ眩しいし。

 海水浴場っていうのは、陰キャが来ていいところじゃないよこれ。


「ついに来ちゃったね! 海! 江ノ島!」


 そんな俺の内心など差し置いて、詠が興奮した様子でそういった。

 ダメだな。自分の彼女がここまで喜んでいるのに、彼氏の俺が嫌そうにするなんてできない。


「来ちゃっタねぇ!」

「あはは、夜空くん。声、裏返っちゃってるよ」


 無理やり声を張り上げたせいで、変な声が出てしまった。恥ずかしい。


「ほら、早く行こうよ! 海~うみ~♪」


 詠が待ちきれないといった様子で、俺の手を引きながら駆け出した。



 さて、なぜ俺たちは今、江ノ島にいるのか。

 それは、詠と俺の間で交わされた約束の一つ――夏休み、二人で夏っぽいところに行くということ。その約束に他ならない。


 最初はプールに行く予定だったんだけど。

 色々と近場のプールを調べているうちに「せっかくだから思い切って海にしない?」と詠が言い出したのが具体的なキッカケだ。

 あれよあれよと話は進み、いつの間にか、お住まいの海無し県を飛び出して、こうして江ノ島の大地に降り立っていたのだ。



 俺は海の家の更衣室で水着に着替えた後、店先のひさしの下に立ち、詠の到着を待つ。

 その間も次々と俺の前をカップルたちが通り過ぎていくのだが……みんな楽しそうだ。


 水着を着ている女の人たちの姿は真っ白で眩しい。

 更にその隣を歩く男の人たちは、心なしか皆さん良い体をしている。こんがりと小麦色に日焼けした肌とか、鍛えられて締まった筋肉とか。


 どうしても自分と比較してしまう。


 もやしのように真っ白い肌。これまたもやしのような、ひょろっとした貧相な体つき。

 

 いや、これでも海に行くと決まった日から、人知れず筋トレは開始したのだ。

 ただ、残念ながら目に見えた効果は出ていない。悲しいかな、努力が実を結ぶのはもっと先だ。


 そんな風に悶々もんもんと。

 なかなか治らない俺の悪いクセ――ネガティブな自問自答が始まりかけた、その瞬間。


「ごめん、待った?」


 後ろから聞き慣れた声が聞こえた。

 振り向くとそこには……


 天使がいた。


 彼女はいつぞやか俺と一緒に選んだ、パステルピンクのビキニを身にまとっていた。腰にまとうフリルスカートが可愛らしい。


 水着試着のときに受けた衝撃が蘇ってくる。

 あのときは、ついついガン見してしまったけれど、今日も今日とてガン見してしまう。


「す、すげぇ……」


 思わず言葉が漏れ出てしまった。

 彼女の持つ抜群のプロポーション。そのすべてが全力で俺の視界にカチコミをかけにきている。


 くびれたウエスト。すらっと伸びた手足。眩しいくらい白い肌。

 しかしなにより、やはりおっぱいだ。圧倒的存在感をかもしながら、しかし決して下品ではない、その膨らみ。


 素晴らしい。完璧だ。パーフェクト。凄い。


 俺はゴクリとつばを飲み込んだ。


「えへへ、この水着……やっと着れたよ。どうかな? ヘンじゃな――」

「全然! めっちゃ似合ってる!」


 被せ気味に即答。むしろありがとうございます。


 俺は何度も首を縦に振って、力強く肯定の意を示す。

 すると詠は嬉しそうに笑ってくれた。


「もう、大げさだなぁ」

「いや、マジだよ。めちゃくちゃ可愛いよ」

「ホ、ホント?」

「うん。なんか、こう、とにかくすごい。ああもう、語彙力ごいりょくが死んだ」

「あははっ、何それ。でも嬉しい。ありがとね、夜空くん」


 詠が照れくさそうな笑みを浮かべた。

 ああ、こんな天使のようなが俺のすぐそばで笑ってくれるなんて。俺の彼女だなんて。

 

 何をネガティブになる必要があるのか?

 むしろ、俺はこのビーチの中で一番幸せな男じゃないか。

 そうとも。楽しまなきゃ損だ。

 だってせっかくの海なんだから!


 陰キャならではの憂鬱ゆううつ木端微塵こっぱみじんに吹き飛ばしたことなんてつゆ知らず、詠は気を取り直した様子で。


「じゃあ、行こっか」


 そう言って、俺の手を握った。

 しっとりとした柔らかさが心地いい。


 そのまま俺たちは手を繋いでビーチへと向かっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る