63話 それは、とても怖いことだった

 姉さんは口をむっつりと一文字に閉じて、腕を組み、威圧するかのように俺を睥睨へいげいする。


「夜空。起きろ」


 姉さんの短くも鋭い言葉を受けて、俺はその迫力に気圧けおされるように、おずおずとベッドから身体を起こした。


「なに……なんか用?」

「ヨミちゃんに。全部聞いた」

「は?」

「最近のアンタが、腐った死体みたいになった理由」

「……」


 そっか、詠は姉さんに相談したのか。


「詠から何を聞いたか知らないけど。姉さんには関係ないことだから」


 俺は思わず姉さんから目をそらし、そうつぶやく。

 すると姉さんは、すーっと鼻で深く息を吸ってから、一歩俺のもとへ近づいた。


 そして。

 

 姉さんがくるりと俺に背を向けた――と思った次の瞬間。


 


「ぶほぁッ!」


 姉さんの尻が俺の顔面に直撃する。

 その衝撃によって、ベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。


 俺の視界の中を盛大に星が飛び散って。ついで、鼻頭はながしらのあたりにじーんと痛みが走った。


「なッ、なにすんだよ!?」


 よろよろと上体を起こして、俺は抗議の声を張り上げた。


「ヒップアタック」

「は、はあッ……?」

「ド演歌ファイター越○詩郎の代名詞。私の中で、今プロレスが熱いって!」


 っていうか技の名前とか、そんなことを聞いてんじゃなくて!


「なんでこんなことッ――」

「私だって、ほっとくつもりだった。自分のからに閉じこもって、一人でウジウジしているヤツに、いつまでもかまってやるほど、私もヒマじゃない」


 俺の声をさえぎって、姉さんが吐き捨てるように言った。


「だけど、ヨミちゃんから連絡があったの! アンタが苦しんでるから。アンタを助けたいけど自分じゃ何もできないって。だから私に力を貸してって! 泣きながらッ!」


 姉さんの言葉が胸に刺さる。


「ヨミちゃんは、必死にアンタと向き合おうとしてる! だから、夜空。アンタもあの娘と向き合えッ!」


 姉さんは俺の顔を真っ直ぐ射抜くように見つめ、叫ぶように言った。


「なにを……向き合えって……」


 言葉を最後までつなぐことができなくて。

 俺はその瞳から逃れるように、視線を逸らす。


 それから、心のうちにフツフツと、ドロドロとしたヘドロのような感情が湧き上がってくるのを感じた。

 

「……くせに」

「なによ!?」

「なんも知らねえくせにッ!」


 姉さんをキッとにらむ。今度は俺が声を張り上げる番だった。


「俺はッ! 詠を守りたいんだ! 彼女が積み上げたものをッ! そのためには、突き放すしかないじゃないかッ!」


 それは支離滅裂しりめつれつな言葉。だけど、紛れもない俺の本心、叫びだった。


 俺の言葉を受けた姉さんは……な、何してんだこいつ?


 姉さんは両腕を左右に大きく開く。手の高さはちょうど自分の肩くらい。そして、天をあおぐみたいに顔を上げる。

 まるで、土砂降りの雨を全身に受けるみたいに。


 次の瞬間。


 姉さんが急に左手で俺の手首をつかんで、思い切り引っ張り込む。

 女性とは思えないその力。


 俺の身体は、バランスを失って。

 姉さんの方へ引き寄せられて。


「ぼっぢッ!」


 俺の喉元に、姉さんの右腕が叩きつけられた。

 さっき、ヒップアタックを食らったみたいに、俺の身体は再び吹っ飛ぶ。


「レインメーカー。カネの雨を降らす男、オカ○カズチカの必殺技フィニッシュ・ホールド

 

 姉さんのドヤ声が、大の字になって倒れた俺の耳に届いた。

 それから。


「ヨミちゃん馬鹿にすんなッ!」


 姉さんの叫びが浴びせられる。


「あの娘はアンタが四六時中守ってやらないと一人で生きていけない赤ちゃんじゃない! 自分で考えて。迷って。傷ついて。そのうえでアンタと向き合おうとしてるッ! 一人の立派な女の子だッ!」


 姉さんの言葉を受けて、詠の姿がフラッシュバックする。

 

 じわりと涙がにじんだ。

 でも涙をこぼしたくなくて、ギリッと歯を食いしばった。


「アンタさっきから。詠ちゃんを守りたいとか、格好つけたこと言ってるけどさ――」


 姉さんはそこで一度区切る。そして、ゆがみにゆがんだ俺の顔を見据みすえて言った。



 その言葉は俺の胸に容赦なく突き刺さる。


 さっき姉さんから受けたプロレス技より何倍も痛い。

 俺の心の底、何重にも絆創膏ばんそうこうを貼って必死に隠していた、ジュクジュクとんでいる傷を、的確にえぐり取った。



『だって、夜空はヨミちゃんのことが好きなんでしょ?』


 詠との初デートの夜。姉さんから投げかけられたその問いに対して、俺は答えを返さなかった。


『夜空さんは、お姉ちゃんのカレシなの?』


 詠の家でテスト勉強をしたとき。文ちゃんの純粋な問いに対して、「大切な」という言葉を使って、自分の本心を誤魔化ごまかした。


『なあ、答えろって。彼女のこと好きなんだろ?』


 クラス会の日。黒野に挑まれるようにぶつけられたその問いに対して、俺は何も言えなかった。


 それは、なぜか。

 


「ああ、そうだ。そうだよ! 怖い。怖いんだよッ!」


 

 本心をさらけ出すのは怖い。

 好きなものを好きということは怖い。

 拒絶されることは怖い。

 笑われるのは怖い。

 後戻りできなくなるのは怖い。



「それの何が悪いんだよぉッッッ!!」



 大の字になりながら、腹の底から俺は叫んだ。


「……」


 静寂。

 そして姉さんは、ゆっくりと近づいて、俺に手を差し伸べた。


「夜空」


 優しい声だった。

 俺はその手に導かれるまま起き上がる。


 姉さんと向き合った。

 柔らかい表情。

 姉さんは、ふっ、と口元に笑みを浮かべた。


 次の瞬間。


「パロ・スペシャルッ!」


 姉さんがヒラリと俺の背に回り込んだかと思うと、俺の腰に両足を巻き付けてまたがり、更に俺の両手を掴んで後ろにねじる。


「あばばばばばばっ」


 完全に関節をめられた俺の口から情けない悲鳴が上がる。



「なンにも、悪くないッ!」

 


 技をかけながら、俺の背後で姉さんが叫ぶ。


「そんなの私だって怖い! たぶん怖くないヤツなんていない!」


 ギリギリギリ……


「あるのは選択だけ。その怖さにおののいて、逃げ出すか。それとも勇気を出して一歩踏み出すか」


 関節をめられた痛みと一緒に。


「夜空。アンタはどっち? このまま自分の殻に閉じこもって、海の底の貝みたいに一生を過ごすのか、それともヨミちゃんみたいに勇気を出して、一歩前に踏み出すのか」


 姉さんの声がハッキリと、身体の芯に響いた。


「今決めろ、バカヤロー!」


 姉さんの叫びが、心を震わす。

 

 俺は。

 きみと。

 二人で。

 傷つけるかもしれない。

 壊すかもしれない。

 怖い。

 独りぼっちになるのは怖い。

 

 だけど。


 優木坂詠の、誰よりも優しい笑顔が、心の暗闇にともった。


「俺は、――が――だ」


 その言葉は、自然と自分の心の海からこぼれ落ちた。

 あまりにか細く不確かな、小さな音として。

 

 ふっと、俺の両肩を締め付ける痛みが和らぐ。

 姉さんが俺の背中からひらりと降りる。


「夜空」

「うん」

「わかった」


 俺のその答えを聞いた姉さんは、役目は果たしたと言わんばかりに、ドアの方へ歩いていく。

 俺はその背中に向かって、一言だけ、シンプルな言葉を投げた。


「ありがとう」


 姉さんはくるりと振り返った。



「頑張れ! 夜空!」



 姉さんはニカッと笑って、親指を立てた拳を突き出した。

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