臆病

@offonline

小心者

 夜になれば人は眠気を催し、布団に入って眠りにつくものだ。

 就寝時間こそに脳みそは仕事をするということを聞いたことがある。体が休んでいる間に今日一日のことを記憶というデータにして脳みそという倉庫に保管する作業をこなすのだ。このとき、誠実な脳みその中で働く、おそらく記憶を司る某が頑張っていることだろうが、これが怠惰なものであった場合、記憶はどこに閉まったか忘れて、そのことで私の記憶や思い出に齟齬が発生する。結果的に仕事で覚えたことを忘れて、注意を受けるという被害を被るのである。

 眠ることですら満足にできないのが人間である。

 ただ目を閉じて身体を休めるだけでは人間は生きていけない。何かしらが仕事をしなければ、生命維持とは別の観点から死にかねないのである。

 生命の死と社会的な死。

 現実を生きる私は二つの死と折り合いをつけてどうにか猶予を伸ばすことに悪戦苦闘していることになる。

 死ぬために生きている、を地で行くなんとも滑稽な存在である。こういった慰めは規模が大きいと効果が薄い。

 大人になると特別な存在ではないことを嫌というほど見せつけられてしまうものだから、学生時代の万能感に焦がれてしまうものだ。しかし、これが罠であって、大きい理想や夢を抱くことが苦痛になってしまった大人はささやかな喜びを見出して心身を慰撫するしかないのである。

 そのうちに眠ることが楽しみの一つになってしまうのだけれど、この眠るという行動も難しいもので、中々にコツが必要だとわかってきた。

 今、私は布団に入り込んでいる。

 古臭い学生時代から使っていた折り畳みのベッドに量販店で買った寝具セットを組みつけただけの空間である。

 真新しいからこそ、新鮮な清潔感を幻視させるもので、気分自体は悪くない。

 シーツを洗濯することも今のところ億劫ではない。こういった身体を覆う代物などすぐに異臭を放つものだから、衣類ともども放置などしておけないのである。

 けれども、近頃の問題として中々に寝つきが悪い。

 浅はかに寝酒に逃げるという愚を犯してはいない。

 シャワーを浴びるし、風呂にだって入る。

 風呂は金がかかるけれど好きなので妥協はしない。その代わり掃除が億劫だが、カビの発生を危惧する余裕はあるので週一くらいには掃除をしている。その掃除で一日の体力を消耗してしまうのが問題ではある。とはいえ、風呂に入れば発汗するし、身体も火照る。そうして寝る準備を進めれば心地よい疲労感を伴う。

 ここまでは理想的だ。そしてベッドに入って目を閉じる。後はスマホの目覚ましが鳴るまでの時間を寝るという作業に費やすのである。けれども、どうしたって寝ることができない。

 これには原因がわかっている。

 怪奇現象だ。

 どういうわけか、何者かが私の睡眠を邪魔するのである。こざかしいと一笑に付す度量、度胸があるならば私はここまで女々しくも陰気な男にならなかった。その事実ですら心を痛めつけるというのに、眠る行為に逃げることすら許されはしないのだから日常生活に支障がでてしまってほとほとに困る。けれども社会人が怪奇現象に怯えて仕事の効率を落としている事実を馬鹿正直に申告できはしない。

 私はそれほどに人間関係を構築していない。自業自得であるけれども、自分を責めたところで改善する手法を持たない。後悔に心を壊すだけなのでこういった繊細な諸問題は棚上げして考えないよう妙に気を使ってしまっている。

 そもそも、この怪奇現象は怖さに鬱陶しいが付着している。よほどに悪辣な何かによる仕業だと思い込みたいけれど、私は心の中で怪奇現象を否定している。

 そんなことが起こるはずはないと信じたいからである。

 子供でもあるまいしと虚勢をはる。

 大人というただ時間を浪費しただけの人間であることを夜、眠る前だけは忘れ去りたい一心に、一層の意固地を発動して現実から目を背けるのである。とはいえ、だからといって事態が好転することはないのだから、困りものである。

 困っている割に行動していないのだから、本当に私は使い物にならない存在だ。どうしてこうまで無能なのか。と思い込んで、私は私であるのに、第三者を気取ってしまっている。これが逃避を続ける私の処世術の一つか。処世したことなどありはしないのだから、これは実に失敗であろう。けれどもこうして無意味に考えを巡らせることで少しばかり恐怖が薄まるというのも、悲しいことに事実であった。


 生得に怖がりだという自負がある。いつだって、いや、社会人となり一人暮らしをするようになってから余計と思い至る。

 怖がりは損だ。

 何でもかんでも異物に見えてしまう。

 視野に入り込む小物が、いろいろな化生となって私の心情を貪る。

 きっと本当に得体のしれない何かが私の恐怖を食い物にしているのだろう。

 怖がりというのに、どういうわけか怖い発想に脳みそが飛んでしまうのだから、その思考回路がさらに自分ではないものに思えて、怖さがやってくる。

 自分で開けた戸棚に丸い取っ手がある。そこを摘み開けたという事実をすぐに忘れてしまった。いや、これは開けたという行為自体は覚えている。つまみを持って開けたこともそうだ。けれどもどうしてだか、つまみという物体を持ったというのに、その形状と、居場所を忘れてしまう。そのために戸棚の中にある道具を取り出してみると視界の隅に黒い物体がある。どうにも床ではない。宙に浮いているではないか。

なんだこの異物は! 

 と発狂して、声をあげる。

 心臓は飛び跳ね、それに呼応するように体が跳ねて後ろに下がる。そうして、視野を広げて異物を見据え、視線を向かわせて、ピントを合わせる。すると、ガラス戸に丸い取っ手がくっついているだけだと認識する。すると、何を畜生、自分で開けた扉じゃないかという憤りと羞恥に思わず罵声を戸棚に浴びせかけることになる。これが実に不愉快なもので、何で私はここまで臆病なんだろうと消沈してしまうのだから、性根は気弱といえる。

 これだけ自任する知能はあるけれど、恐怖の克服に対して一向に興味がわかないのだから不思議なものだ。

 被害を被っているのに、その事実を受け止めて情けなくなって、しかし、それだけで終わりなのである。

 先延ばしというよりかは諦めているのだ。

 まるで不治の病と決めてかかっている。

 私の中で怖がりを完治させたいという欲はとても矮小なものであるということになる。けれども、夜になれば塵一つに驚いてしまうのだから、心労が絶えないはずだ。なのに、どうしてだ。という堂々巡りに陥る。これでさらに辟易として考えるのはやめようとするのだ。

 私は怖がりである上に面倒くさがり、試験の前日ではなく当日になってようやく尻に火がついて必死に詰め込んで、結果が出なくて途方に暮れるような人間なのである。そうした性質を理解しているというのに、一体全体、私は改善する余地を持たない。面倒くさいと片付けてしまえる問題でもないのに、不思議と心と体は動いてはくれない。脳みそだけはやろうと語り掛けるばかりだ。

 どうにも私は私を動かすに、複数の同意を得る必要ある気がしてならない。そうしていつも絶対的発言権を持つ何者かが反対票を投じて否決されるのである。

 国連会議でよくある話だ。そういった国際情勢における民主主義の一人歩きが、私の中で繰り広げられているのだろう。と体の良い理屈をこねくり回して、いつだって私は解決を回避する。そうして、また問題がやってくると後悔と失念に何をやっているのだ、と私の中の何かしらに当たり散らし、途方に暮れて、無条件の救済を夢想するのである。

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