異世界に来たら私は聖女? そんな事より魚釣りだ!
宮前葵
第1話 エイに刺されたら異世界に来た
柊 海音は釣りガールだ。
しかもただの釣りガールでは無い。釣りガールと言えば、SNSでキャキャと笑いながら、魚を持って可愛くピースをするのが関の山(ど偏見)なのだが、彼女は違う。
ガチだ。ガチで釣りに命を賭けているのだ。
主に狙っているのはシーバスだ。特にシーバスのランカーサイズ(長さ八十センチ以上)を釣るためなら手段を選ばない。長いロッドを担ぎ、どこへでも行く。
シーバス釣りにはウェーディングという釣り方がある。遠浅の水域で沖にいる魚を釣るために、ザバザバと水の中に入って行き、胸くらいまで水に浸かりながらロッドを振り倒すのである。
海音は身長が女性にしては高く、百七十五センチもある。その長身を利して、彼女はザブザブとかなり深いエリアにも突貫するのである。そして十フィートもあるロッドを振り回す。
ちなみに。シーバス釣りは普通は夜、深夜にやる釣りである(昼間にも釣れない事は無いが)ど深夜にうら若い、まだ十七歳、花の女子高生が真っ暗な海に入って行く様は鬼気迫るものがあるらしい。
釣り場で目撃された事で噂になり、釣り雑誌が「美人女子高生釣りガールなら話題になる」と取材に来たことがあるのだが、そのあまりにもストイックでガチな釣りっぷりに、黙って帰ってしまった事があるほどだ。
そうやって夜中までシーバスを追い、実際彼女は幾多の大物を仕留めてきた。最大サイズは九十五センチ。夢のメーターオーバーまであと少し。その夢を叶えるために、海音は今日もウェーダーの上にフローティングジャケットをしっかり着て、一級ポイントである河川河口にザブザブと乗り込んだ。
慣れたポイントである。地形は把握している。彼女は特に問題も無く、目的地点に到達した。
しかし、この時彼女は二つほどミスを犯した。
一つはウェーディングスタッフを持って来なかった事だ。これはウェーディングする時に歩いて行く先の水底を探るための杖で、地形の把握と、ある事の為に使うので重要な釣り道具だ。しかし、彼女はこの時、家から持って出るのを忘れたのだ。学校の部活で帰宅が遅くなり、出発が遅れて時合を逃しそうになっていて、焦っていたのだ。
もう一つは、河川の上流部で雨が降って、わずかに増水して流れが速くなっていた事に気が付かなかった事である。河川での釣りの時、上流部の降雨情報を調べておくのは常識である。これも出発を焦っていたから見るのを忘れたのだ。
この二つのミスは、実際に水に中に入る前には海音は気が付いていた。しかしながら海音は「まぁ、いいか」と考えて水に入ってしまったのだ。いつも通っていて慣れている釣り場であった事、これまで変事に一度も遭遇したことが無かった事。この二つが彼女の油断を誘ったのだった。
それが彼女の運命を大きく変えてしまうことになる。
海音は下げ始めの流れに逆らいながら立って(この時、少しいつもより流れが強いな、とは思っていた)ロングロッドを思い切り振った。愛用のロッド、愛用のリール、愛用のルアーたちである。どこへどのくらいの距離飛んだかはしっかり分かっている。ちゃんとブレイクのちょっと向こう、いい所にルアーは入っている筈だ。
何回かルアーをローテーションして投げ続ける。シーバス釣りは同じポイントに手を変え品を変えアプローチするのが良い場合が多い。シーバスは餌の魚(ベイトフィッシュ)を追って結構なスピードで動き回っているからである。追っかけているベイトの種類や泳いでいる深さや、スピードで歴然と反応が違う場合もある。自分が良い場所に入り、いい場所にルアーを投げていると思ったなら、動かずに投げ続けるのがセオリーである(これを回遊待ちと言う)。
何種類かのルアーを試し、海音はバイブレーションルアーをチョイスする。流れが速いし、どうやらベイトフィッシュも活性が高そうだ。早い動きのルアーが良いだろうとの計算である。彼女はロングロッドを思い切り振って、流れの上流側に投げ、少し流れに乗せながらグルグルとリールのハンドルを回した。すると、一番良いポイントであるブレイク上で「ガツン!」とハンドルが止められた。
海音は瞬時にロッドを煽って合わせる。その瞬間、海音のロッドが美しい弧を描く。ヒットだ! ロッドは曲がるだけでなく、更に引き込まれ、倒されようとする。ラインが引っ張られてドラグがジ、ジジジー、と鳴る。デカい! 海音の長年シーバスとやり取りして染み付いた感覚が、これはかなりの大物だと警告してくる。
シーバスは掛かってすぐに物凄く引くことは稀だ。大抵はすぐに近寄ってくる。暴れるのは近寄ってからだ。ところがこいつは掛かった瞬間から沖に、流れの中心の方に逃げ始めた。そして流れに乗って下流に走り始める。
まずい! こいつなかなか賢いわよ! 海音は慌てて移動する。大物が流れに乗って下流に下ってしまうと、重さと流れの相乗効果で止められなくなってしまう。ラインが出し切られたり、障害物に巻かれて切られたりするかもしれない。海音はシーバスを流れから懸命に引き出しつつ、自分からもシーバスに近づいて、出来るだけ引きを弱めようと試みた。
これが海音の致命的な失敗となる。
海音がシーバスと闘いながら数歩歩き、もう一歩足を出した時だった。ぐにっと、なんだか変なものを踏んだ感触がした。なんだろう? 海音が思ったその瞬間、右足に灼熱感が走り抜けた。次の瞬間、燃え上がるような、経験したことのない激痛が右足を襲った。な、何事! と思いながら、海音はその正体を直感していた。
アカエイだ!
アカエイという魚は汽水域に入り込んでくる。つまりシーバスと似たような水域にいるのだが、こいつは鋭い毒針を持っていて、うっかり踏みつけてしまったりすると人間をグサッと刺すのだ。いや、大げさではない。グサッと。ナイフで刺されたような事になるのだ。その鋭さはゴム製の長靴くらいなら紙のように貫通してしまうほど。
しかも毒があって、刺された部分に強い炎症を起こす。つまり物凄く痛い。その痛さたるやとても立っては居られない程で、病院に担ぎ込まれて治療を受けても特効薬などは無いため、痛みと発熱に数日は寝こむ事になるという。アカエイは恐ろしい生物なのだ。
もちろん釣り人はその存在と危険性を十分に認識している。故に釣り人はエイガードという特殊な長靴や靴下を装着したり、ウェーディングスタッフで歩く先の水底を探って歩くのだ。そう、海音が忘れたあのウェーディングスタッフだ。まぁ、魚とのファイト中には使えない訳だから、忘れなくても大勢に影響は無かったかも知れないが。
海音は激痛のあまり蹲ってしまいそうになった。しかし海音は胸まで水に浸かっている。無理だ。痛みは一気に足首から腿くらいまで上がって来ていて、とても動けない。しかも今は魚とのファイト中だ。
そう。海音はこの期に及んでロッドを手放さず、さらにリールのハンドルも持ったままだった。魚を諦めていなかったのである。あっぱれな根性だが、結局それが彼女の運命を決する事になる。
片足に力が入らない状態で、突然、魚が流れに向かって突っ走った。海音は反射的にロッドを煽るが、それがいけなかった。魚の引きが想像を超えていて、海音はバランスを崩してしまった。
あ、と右足を前に出そうとしたのだが、エイにやられた右足は思うように動かない。べしゃんと転んでしまう。ま、まずい! 海音は慌てたが、そんな海音の気持ちを嘲笑うかのように、魚は更に沖へ、流れの方へ。
海音はウェーディングジャケットを着ていたので体が水の中に沈む事は無かった。そしてベテランである海音はウエストをベルトでキツく閉めていたので、ウェーダーの中に水が即座に入ってくる事も無かった。
しかし、ということは、転倒したら身体が水に浮かんでしまう、という事だ。しかも今は右足が動かない。浮かんだ海音の体を魚が更に引っ張る。
待って! ちょっと待って! と叫んだって魚には届かない。そして恐れていた事が起こった。
海音の身体が急速に流され始めた。そう河川の流心にまで運ばれてしまったのだ。既にもう足が着かない深さにまで流されている。流れはすぐに強くなり、渦巻き、海へ向かって音を立てて流れ込んで行く。まずいことに引き潮なのだ。
魚は更に下流に、海に向かって走って行く。海音は流される。足は痛い。意識も途切れかけている。そしてエイに刺されて穴が空いたウェーダーに水が入り込み始めた。足が重くなり、沈み始め、着ている服に水が滲み始めてフローティングジャケットの能力を超えてしまった。
海音は沈み始めた。手を動かそうにも、ロッドの先にはまだ魚が付いていて猛然と彼女を引きずっている。なすすべなく水の中に引き摺り込まれながら、朦朧とした意識の中で海音は思っていた。
「せめてこいつはキャッチしてから死にたかった・・・!」
柊 海音、享年十七歳。遺体は結局、発見されなかったという。
というわけで、私は死んだ。らしい。
私は泳ぎは得意だが、右足があんなに痛い(痛いとかそういうレベルじゃない! 脚が千切れたかと思ったわよ!)状態ではとても泳げない。
河口部の流れは早く、渦も凄い。完全な状態でも抜け出せたかどうか怪しい。
というわけで私は死んだ。だから今いるここは多分天国だろう。
私はむっくりと体を起こした。うーん。全身がずぶ濡れだ。
フローティングジャケット。その下のシャツ。ウェーダー。右足首には穴が空いている。下着も、靴下もびっしょりね。
そしてロッド、リール。腰から繋がったコードの先にランディングネット。フィッシュグリップ。うん。無くしたものは無いわね。フローティングジャケットの胸ポケットにはルアー満載のボックスも入っているし。
・・・不思議なことに足に傷はなかった。あの痛みが嘘だったかのように。いや、嘘でなかった証拠にウェーダーには穴が空いている。ゴム長靴部分がザックリと切れている。噂に聞いていた通り、エイの棘って凄いわね。大きな穴を見て背筋が寒くなる。
うん。死んで、天国に来たから傷も消えたのね。私はそう納得した。
立ち上がってあたりを見回す。私が倒れていたところは砂浜だが、磯場の切れ目といった感じの場所だった。周囲には大きなごつごつした岩が聳え立っている。少し向こうでは波がドーンとぶち当たって砕けていた。ふむ。良い磯場じゃないの。
私は岩の上に上がる。地元には磯場もあったので、私のウェーダーはフェルト底のスパイク付きだ。磯場でも滑りにくい。
磯場の先端におあつらえ向きのポイントがあった。岩が突き出したところに波が当たってサラシが出来ているのだ。ああいうところにはヒラスズキがいるのよね。
私はまずラインの先端にショックリーダーを結びなおす。どうやら死ぬ前に掛けた魚はラインを切って逃げていったようだ。ちぇ。結構デカい感じだったのに。自己最高も夢じゃない感触だったのに。せめてあいつは釣り上げたかったな。
そしてリーダーの先端にスナップを付け、ボックスからルアーを取り出す。サラシの具合。そしていい天気でもあるので、メッキカラーの大きめのミノーを選択し、スナップに付ける。
よし! さて、天国にはどんな魚がいるのかしらね!
私はロッドをヒュンと回すと、一気に振りぬいた。ルアーは一直線に飛んで、狙い通りサラシの中に着水した。
リールを少し早めにリーリングする。良い感じにルアーが泳いでいる感触があった。良いところに入っているし、魚がいれば・・・。
と、思ったところで「ガツン!」ときた。ロッドがゴンと曲がる。ヒットだ!
思い切り胸にロッドを引き付けて合わせる。すると、ロッドが引き倒されるとともに、リールのドラグがジジジーっと出る音がした。おお? これはデカいわよ!
ヒラスズキはマルスズキより引く魚だが、それにしてもすごい引きだ! ググググ、ジーっと一気に沖に走る感触がする。ま、まずい。これはもしかしてヒラスズキじゃ無いかも。引きが強過ぎる。
そして私はここで重大な過ちに気が付く。あ、このタックル、ヒラスズキ用じゃない!
私は今日は河口でシーバスを狙うつもりだった。なので遠投を重視したタックルを持って来ていたのだ。すなわち、少し柔らかめの竿と、スピニングリール。ラインは細めの1.5号。リーダーも20lb。磯でヒラを狙うなら硬い竿でラインは最低でも3号は欲しい。でないと大物が来た時に強引に引き寄せてキャッチできない。
細いラインでは沖に走られると手に負えないし、潜られて根にでも巻かれれば切られてしまう。釣りは釣り場に合ったタックルのセッティングが大事なのだ。
くっ! 私は磯を走って何とかラインが岩場にこすられるのを回避しようと試みた。その時、視線の先の海面が盛り上がった。
ドバシャーンと跳ね上がったのは間違いなく魚。だが、どう見てもそれはヒラスズキではなかった。
体形や雰囲気はシーバスに似ているが、色が違う。シーバスは銀色なのに、あいつはなんだか七色に輝いていた。虹色だ。そして、頭になんだか角が付いている。
・・・あんな魚見たことない。そういえばここは天国なんだっけ。
だが、大きい。あれは絶対に全長一メートルはあるわよ! つまり自己最高サイズだ。
正体などどうでもいい。間違い無く魚で、ルアーが口に掛かっている大物であれば、なんの不満があるものか。ニゴイは勘弁だけど。
しかし、私は同時に悟っていた。こ、これは獲れない。どう見てもあの魚を引き寄せてキャッチするにはタックルの強さが不足である。背負っているランディングネットも、今日はウェーディングのつもりだからグリップが短い。こんな高台からあんな大きな魚をランディングする方法が無いのだ。
謎の魚はグイグイと容赦なく引く。きゃー、やめて!其方には岩が!
と言っているうちにラインが岩に擦れ、あっさり切れてしまった。ロッドから荷重が抜け、跳ね上がる。
・・・く、悔しい・・・。死ぬ前と天国で、連続で魚をバラしてしまった・・・。
釣り師として何たる屈辱。許せない! 自分が!
私は完全に熱くなって磯場を駆け回り、何とかランディング出来そうなポイントはないかと探したのだが、良さそうなポイントはどこも高台。岩だらけだった。
くくくく。ルアーの数には限りがあるのだ。無駄には失えない。天国にタックルベリーがあるとは限らないじゃない! シーバス用ルアーはお高いのだ。女子高生の身では買うのが大変なのだ!
私はキャストを断念し、移動する事にした。磯場はダメだ。サーフか、堤防でもあれば・・・。
などとゴツゴツした岩場を歩く事一時間くらい。なかなか大変だ。お腹も減ってきた。天国でもお腹は空くのね。
と、岩場の先に砂浜が見えた。サーフだ! ヒラメはいるかしら。
しかし、その砂浜には小さな船が何十も陸揚げされていた。漁師さんの船っぽいわね。木造で、船外機も付いていないけど。
砂浜から少し離れたところには板屋根の木造小屋が十数件立ってた。・・・何だろう。漁師さんの作業小屋かしらね。
私が砂浜を歩いてゆくと、前方に人の姿があった。あら、人がいるわ。天国にも人がいるのね。そりゃそうか。
私は声を掛けた。
「こんにちは!」
するとその人たち。若い男性が二人だったが、たまげたような表情で後ずさった。
「な、なんだ! お前は!」
言葉は通じるようだ。でも、何だか耳に届く音は日本語っぽくない気もするわね。まぁ、いいか。
「えーと。死んで? 気が付いたらここにいたのよ。ここはどこだか分かる?」
二人は明らかに戸惑ったような様子だった。そりゃ、死んだんだけど、なんて言われたら「何でやねん」と突っ込みたくなるわよね。
よく見ると二人の姿はちょっと妙だった。簡易な服を着ていた。半袖ミニスカートのワンピースみたいな服を着て、お腹を帯で縛っている。生成りの服には黒い線で紋様が描かれていた。ズボンは履いていない。
髪の毛の色はオレンジと水色。・・・すごい派手な色に染めているわね。田舎の人みたいなのに。それとも漁が終わったら着替えてライブにでも行くのかしら?
「ここはアンギャンの村だ。……もしかして、お前『落ちてきた者』か?」
は? 聞きなれない単語に顔を傾ける。
「十年に一度くらい、違う世界の人間がやってくることがあると聞いたことがある。そのヘンテコな恰好。違う世界から来たんだろう?」
……ということは、もしかして。ここは天国じゃない?
私はどうやら、死んで異世界に転移してしまったらしい。
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