世界は百合とロボットでできているっ!

佐熊カズサ

地球人、異星人の唾液で呼吸する

 苦しい。息がしづらい。

 

 浅い呼吸を繰り返し、小型ポットの操縦席で体を丸めた。体勢を変えたところで楽になるわけではないが、自分の膝が抱き枕の役割を果たして不安由来の孤独を幾分か和らげた。

 

 涙で滲んだ視界で計器を睨んで酸素の残存量を確認する。赤が点滅している。残り五パーセントを切っていた。

 

 どうしよう、どうすればいい? 頭の中で自問自答を繰り返すが解決策などあるはずがなかった。人工酸素を生成する機械はここにはない。小型ポットの用途の基本は緊急避難であり、三日を超える期間の滞在に耐えられるようには設計されていない。食料は自分の意思である程度の制御ができるが、呼吸は無意識下で一定に繰り返される。焦燥に駆られて生きたいと願っても酸素は無慈悲に消費されていく。


 瞼を閉じた覚えもないのに目の前が暗くなる。眠気は全くないのに意識が遠くなる。末端から感覚がなくなって身体が少しずつ解けていく。私は死ぬのだろうか。後悔する間もないくらいあっけないものだったな。本音を言えば最後に思いっきり深呼吸したかったのだが、それは叶わないまま意識はするりと身体を抜けていった。



 

 ぬるり、と口の中を何かが蠢く感覚で意識が復活した。反射的に眉を詰める。手の感覚が戻って座席のつるつるとした表面に触れていることがわかる。死んだものだと思っていたし天国に行くものだと思い込んでいたものだから、不快な感覚にも触覚が機能していること自体にも驚いた。恐ろしくはあったがとにかくこの奇妙な侵入者の正体を見ようとそっと薄く目を開けると、見覚えのない誰かの両目が視界を占領していた。さっと血の気が引いて心臓が大きく跳ねた。どうにか離れようとその人の両肩を押すが、頭をがっしり掴まれていて動けない。それでも、されるがままというわけにもいかないので出来る限りもがいていると、


「飲んで」


 女性の声が聞こえた。少し低く落ち着いていて引っかかりのない声だった。今はとても冷静な判断はできないが状況から考えて、目の前の人のもので間違いないだろう。正確には『聞こえた』というのは間違いだ。その声は鼓膜を震わせなかった。しかし脳は音を知覚した。


 なすすべなく命令に逆らうつもりはないが飲むものなど何もなかった。そもそも口の中は彼女の舌でいっぱいだ。困惑していると彼女の唾液が小さじ半分くらい流し込まれた。ゾクゾクと背骨を微弱な電流が通るような感覚に、押し返すつもりだった両肩にしがみつく。甘くて粘度が高く、人肌に温められたシロップのようだった。身体は異物を受け入れることを拒否したが、ブルーグレーの瞳に威圧されて渋々飲み込んだ。


「息をして、深呼吸を」


 そう伝えて彼女は頭から手を離した。ようやく解放されてほんのわずかでも脳に酸素を、と喘いだ。乾燥した空気が喉に引っかかってしばらくむせたが、不可解なことに少なくともまっすぐ立てる程度の平静を取り戻すのに長くはかからなかった。ちらと計器に目をやると酸素の残存量を示すランプは光っていなかった。〇パーセントだ。


「私の体液は恐らく君らにとっては特殊でね」


 今度の声はしっかりと耳から伝わった。空気を通したせいか先ほどよりいくらかざらついて聞こえた。


「詳しい説明は省くが、体内に入ると空気さえあれば呼吸ができるように身体を変化させる機能が備わっている」


 声の主の姿をようやくまともに見ることができた。彼女は液晶ディスプレイの縁に軽く手をかけて立っていた。彼女は肩にかかる程度の黒髪をそのまま下ろし、わずかに長めの前髪から彗星の尾のような目をのぞかせていた。少しでも動くと深いオリーブグリーンのモッズコートがガサガサと音を立てた。


「あなたは一体……どこからここにどうやって……?」


 息が完全に整って質問する。身体は落ち着いてきたが脳は混乱しっぱなしだ。


「私は……今のところ君にとっての異星人だと言っておこう。ここへは座標転移装置を使って来た」


 追加情報を期待して待っていたが彼女は必要最低限のことしか話さなかった。


「あー……私から聞いておいて悪いんだけど何一つわからないよ……せめて名前だけでも教えてくれるかな? このままじゃなにかと不便だよ」


「そうか」彼女は視線を伏せた。少し下向きのまつ毛がさらに濃い影を落とす。「なら私のことは『ハナコ』と」


「それ本名?」


「違う。しかしそんなことは問題にならない。名前は単なる識別記号に過ぎない。君が私をハナコと呼び、私がそれに『私のことだ』と認識して反応する。それができればたとえそれが偽物であれど名前は十分に機能していると言える」


「そんなものかな」


「そうだ」


 いまいち納得できなかったが今はこの狭い空間に二人きりだ。わざわざ揉めたくはなかった。


「じゃあよろしく、ハナコちゃん。私は――」


「知っている。よろしく、アンナ。それから私のことはただ『ハナコ』と。ちゃん付けは苦手だ」


 ハナコは口元だけで笑った。


「もしかして前にどこかで会ったことある?」


「いいや。でも君のことは壁に引っ掛かっている通行許可証にある程度は書いてあった」


 ハナコは視線で私を誘導した。壁にかけたステンカラーコートの胸元の許可証には顔写真と名前、所属が記載してあったはずだ。


「なるほどね……それでもう一つ質問なんだけど、何のためにここへ来たの?」


「このポットが救難信号を出していた。そういうのを見つけたら生体反応を確認して、あれば必要な処置をするのが私の仕事だ」


「それはつまり、助けに来てくれたって解釈していいんだよね?」


「端的に言えば」

 

「おかげでまだ口や手が動かせるよ、ありがとう」




「それで、これからどうしようか」


 操縦席で膝を抱えて座り、ハナコに話しかけた。一人用のポットに椅子はこれ以上ないので、ハナコには代わりに普段は折り畳んである簡易ベッドにかけてもらった。


「助けてもらったのにお返しできるような代物が何もないんだよ。食料もろくなものはないし、それもあと二日持つかも怪しいし……」


「それなら問題ない。このポットを捨てて私の船に移ればいい」


「……え?」


「私の船はあと八週間は耐えられる設備が揃っている。地球人が一人増えたところで備蓄に大きな変化はないだろう」


「いや……提案はありがたいんだけど『お返し』の話が完全に消えてるし、そもそもどうやって君の船に? 私はハナコみたいにテレポートとかできないんだけど」


「大丈夫だ。私も自分の力で移動できるわけではない」


 ハナコは立ち上がり、こちらに来るよう手招きした。若干訝しみながら彼女の前に立つ。また唾液なんか飲まされたらたまったものではない。


「どこでもいいから私に触れていてくれ。一緒に座標転移装置で移る」


 少し考えてハナコのコートのフロントラインを掴んだ。


「変な感じ」


「何が?」


「少し前に知り合ったばかりの、本名すら知らない異星人に掴まってテレポートすること」


「これから知ればいい。船には君の星で購入した紅茶の葉がある」


「本当? これでも紅茶には少しうるさいよ?」


「じゃあ『お返し』に君が淹れてくれ。実は正しい淹れ方がわからなかったんだ」


 初めて感情らしいものが含まれた声色にハッとして顔を上げると、ハナコは目元を細めて自然な笑顔を浮かべていた。その表情が意外なほど暖かくて気取られていると、身体はあっという間に粒子になった。

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