8-7話 小湖と黒き狗

 扉を開けば両脇に広がる書棚と前方の机。さらにその奥で外れた床板と下へと続く階段を見つける。

 先ほどの探索呪文が正しければ──あらかじめ屋敷全体に幻惑魔法がかかっていなければ、この階段の先に見立て用の湖がある筈だ。


「随分と湿っぽい場所だな、ここは。管理はされているんだろう?」

「ここは湖に程近いですし、地下にも見立て用のものが管理されているとあれば仕方ありませんよ。」

 床や壁に苔が生えていないだけ、よく管理されている方だ。年に一度ある精霊行事よりももっと細やかに、調整用のここは使われているのだろう。

 学院の大樹周辺ほどではないが、清廉たる空気と魔力が、この地下通路には満ちていた。


 どれほど下へと降り続けたか。不意にミラルドが足を止める。

「……ちょっと先で話し声がします。声の感じからして男の人が二人と……後は動物の鳴き声ですかね?」

 その言葉に私たち二人も立ち止まった。慣れないプリンセスラインのふんわりとしたスカートに苦戦していたルイスが短く声をかけた。


「何を話しているかはここから分かるか?」

「うぅん、内容は分かんないです。でも、片っぽの声はちょっと怒ってるかな?おっきな声でがびがびします。」

「がび……まあいい。仲間割れでもしてくれていれば都合が良いが。なるべく気配を消してもう少し近づくぞ。様子を伺う。」

「畏まりました。ミラルドも、静かにしていてくださいね。」

「はぁい、シグリアちゃ……シリアちゃん。」


 消音魔法をかける手もあるが、あれは二年生で習う魔法だしなにより会話すらも不可能になる。咄嗟とっさの意思疎通に齟齬そごが出る方が問題だと判断し、通路の先を伺った。


 奥に広がっているのが見立ての為に造られた湖だろう。地上のものに較べれば小さいのだろうが、それでも向かいの端を見ることはできないほどに広大だ。光もないのに時折輝きを放つ水面は、儀式前だというのに既に魔力で満ちていた。


 その付近にいるのはミラルドのいう通り二人の男性。傍らには木箱が置かれており、あれがルイスの言っていた不審な荷物か。


 けれども私たちが最も目を惹きつけられるのは、怒鳴り散らかしている男性の足元に座り込んでいる、獣。

 犬に似たかたちをしているが、体躯は人を乗せて走れそうなほどに大きい。落ち窪んだ瞳はけれども油断なく辺りを見回しており、牙が目立つ口は人の頭程度なら丸かじりしてしまいそうだ。


「……黒狗ブラックドックだ。それも魔獣、精霊の加護を受けていないやつだな。」


 ルイシアーノの言葉につられて顔をしかめる。

 魔獣とは魔力を持った獣のうち、精霊の加護を受け家畜化されていないものの総称を指す。

 精霊の加護がない彼らは総じて魔力を持つ人間に敵対的で、魔法の発展しているここルーンティナでは長きに渡り魔獣による獣害に悩まされていた。

 遠い昔には知恵持つ魔獣も多く人里付近に存在したと伝え聞くが、今は彼らの多くが山の奥地へと移り住んだり、或いは争いの果てに封印されたと聞く。


 幸いこちらが風下だったのだろう。そうでなければ黒狗ブラックドックの鋭敏な嗅覚はとっくの昔に私たちの匂いを嗅ぎつけていたに違いない。

 身体能力が高く魔法も幾らか扱える黒犬ブラックドックは、単独で遭ったら命は諦めろとすら言われるものだ。彼らがなぜ襲われていないのかすら見当がつかない。


 学院付近の魔の森にもいくらか魔獣は出るし、ソルディアの仕事の一環で森から出てきた魔獣の駆除を教師と連携してやったこともある。だが、対魔獣の用意を済ませていない今遭遇するとは思っていなかった。手のひらがじわりと汗ばむ。


「……退散の呪文は覚えているが、あれはこちらへと寄せ付けないためのものだ。厄介だな。」

「ええ。こちらに牙を向いたとして、呪文を使えば私たちの身は守れますが、術から黒狗ブラックドックが逃げた先で他の客を襲わない保証はありません。」


 さて、どう動くべきか。口だけで唱えて自らも聴力を強化する。向こうは変わらず言い争っているようだが、会話から糸口は見つけられるだろうか。


 /////


「お前……!このタイミングで足抜けようってのか!?サウズブラック卿に恨みがあるんだろ?一泡吹かせようってのは嘘だったのかよ!」

「う、嘘じゃねぇ……。オレだって貴族の奴らは憎いさ!だけどよぉ、こんな湖に毒を流すとか、それじゃ貴族様だけじゃなくてこの街のやつだって苦しむ羽目になるじゃねえか!」


 やはりあの木箱の中身は毒か。ここで確信を得る。あの木箱を取り上げさえすれば、彼らは目的を遂行できない。


「……公爵家の夜会に潜り込めるだけのツテがあるなど恐ろしいと思っていましたが、ここだけ聞いていると随分雑ですね、あの組織の人たち。」

「はん、どうせ奴らは貴族社会の不満や現王への不満を持つ奴らを甘言で誘い込んでいるんだろうよ。怒りが持続するうちは、或いは洗脳しきれば扱いは易いがその前に我へと返ればご覧の通りだ。」

「もしかしたら、ここの湖さんが変な洗脳とかを弱くするパワーがあるのかもしれませんねぇ。」

「……絶対にないと言いきれんのが、この湖の所以だな。」


 半ば唇だけを動かしながらも突破口を探る。


「あの箱を奪って逃げる方が、ここでひと騒動起こすよりは目があるでしょうか。」

「身体強化を使えば奪って走ることは可能だが、黒狗ブラックドックがいる以上、長時間の逃走はこちらが不利だな。」

「あのわんちゃん、おっきい分走るのも速そうですものねぇ。」


 とはいえ悩む時間はない。彼らの会話も少しずつ、説得の方向へと話は移り変わっていた。


「いいか?この湖は上の湖と直接つながってるわけじゃねえ。だから毒を投げ込んだらここの湖はダメになるかもしれねぇが、上で泳いでる魚や街の奴らが毒でおっ死ぬなんてことはねえんだって。」

「そ、そうなのか……?」


「……阿呆が。見立てをしている湖に毒を投げ込んで、それ未満の悪影響が本体に起きないわけがないだろう。」

「ですね。……よし。お二人とも、私に一つ案があるのですが、聞いていただいても?」


 短く手を上げて二人の注目を集める。

 あんな奴らの思い通りにさせるつもりはない。折角上にチートもいるのだ。うまく利用してさっさと解決させてもらおう。

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