第54話 神様はペース配分ってものを知らない
悩みの種があろうがなかろうが日常ってものは回していかなきゃいけない。
飯食ってうんこして寝る。いやいやもちろん、そんな生理的なことだけではなく。
日曜日には部活と称した奉仕活動に従事してみたり、月曜日からはまた学校生活を送ったり。
バイトの面接を受けたり。
「ありがとうございました」
「うん。三日以内には連絡するから」
「はい、よろしくお願いします。では失礼しました」
当たり障りなく言葉を交わして店を出る。はてさて合否はどう出るか。
放課後に足を運んだ喫茶店の店構えを最後にもう一度見ておく。丁度、通学の途上にある店だが、これで面接落ちたらしばらくは使えないよなと思ったり。だって恥ずかしいだろ?
まぁこの店のドアを開けたのは今日がはじめてなわけだが。
半分はバイトの面接ってものの体験として応募したようなものだけど、思っていた以上によさげな店だった。面接官=店長もいい人だったし、普通に客として利用したいくらいだ。そういう意味じゃ少しばかり択を誤った気もしてくる。
とはいえ帰宅してしまえば忘れるような惜しさだから、俺は自宅の日常ってものもせっせとこなしていく。こなしていかねばならない。家事大事。
洗濯物取り込んで浴槽をさっと洗って夕飯は雑に野菜炒め。ところが、いただきますの前にそいつはやって来た。
予定にないインターホンに応じてみればよく知った顔が玄関前に立っている。
「どうしたよ」
いらっしゃい、のつもりはない。こちとらこれから晩餐である。不意の来客はノーセンキュー。
だというのに隣人殿はずいっと俺を押し退ける勢いで不法侵入だ。さすがに「待て待て」と声も出るよね。
「……いや、ほんとにまて?」
侵攻を防ぐが如く受け止めた体は、震えていた。
意味が分からん。
「なにがあった?」
問いかけても応えがない。意味が分からん。
冷えた野菜炒めと体を震わせる少女。天秤に乗せる気にもならないな。
さてそんな経緯で我が家の食卓に一人増えたわけだが。
五分もすればある程度調子を取り戻した隣人に曰く。「痴漢に遭いました」とのことだった。
「それは……災難だったな」
むずかしいむずかしい。ほんとに難しい。なんて返せばいいのかどんなリアクションをすればいいのか。
「怪我……物理的なこう、怪我はなかったか? 大丈夫か?」
「それは、大丈夫です」
「そう……。……帰り、さっき、てことだよな?」
「いえ。痴漢、を……されたのは、朝です。朝の、登校する時に」
「え……そうなんだ」
割と素で驚いてしまった。え、じゃあなんで今になってそんな震えてんの? とは辛うじて声には出さなかったけど思った、申し訳ないけど。
それが伝わった可能性もあるのでは錯覚するくらい、彼女は緩々と経緯を話し始めたのだった。
「痴漢みたいなものといいますか……判断が難しいくらいの、接触? のようなことは、今までも何度もあって」
前置きみたいに言うが、俺としてはもう怖い。それが本当に偶然のものにしろ故意にしろ、隣人の自意識過剰や過敏症にしろ、そんな疑念の中で制服を着ていることはどんな恐怖だろうか。毎朝毎朝、電車に乗るのは。
「それが今朝は……疑う余地もないくらいには、掴まれたんです。お尻」
「えーと……はい」
「それは別に、そんなに気にしてないんですけどね。一瞬だったので、驚いてしまって対処できなかったのが悔しいくらいです」
少し、声音が軽くなった。虚勢ってこともあるかもだけど。
「その時に、一応、見たんです、顔、相手の顏。信じられますか? 三十か、四十代の普通のサラリーマンですよ。そんな人が痴漢だなんて」
「……見間違い、人違いってことはないのか? 現行犯で特定できたわけじゃないんだろ?」
「そうですね、ええ、そうです。……でも、あの人に違いありません」
言い切る語調も目の色も、確信以外にない。「なぜなら」と言ったところで、彼女は一つ大きめの呼吸を挟んだ。
「さっき……また、遭ったんです。帰りの電車も一緒だったみたいで。駅のホームで。……あの目、私を見るあの目、あの目は……間違いない。忘れるもんか」
いよいよ難しい。
「父と同じ、あの目を」
そう吐き出した少女の目を、俺は生涯忘れないと思う。
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