第26話 球技大会:決勝戦① たった一つ、神辺美玖が求めてやまぬもの

 はじまりは……ううん、はじまりなんて。


 本当のはじまりなんていうのは、もう十何年も前のことで。



 靴ひもを結ぶ。固く固く、決して解けないように。


 友達の「頑張ろうね」に「そうだね」と返して、教室を後にした。



 二度目のはじまりはあの日、ママの言葉、パパの仕草、両親の全てを疑いだしたあの日。


 純真が消え失せ、猜疑心と孤独があたしを捕らえたあの時から、もうずっと、あたしはあたしを愛せていない。



 ビブスを受け取る。なんでか中学の時に使っていたものと全く一緒のこれに眉を顰めたのは、たぶん四月の頃。何度目かの体育、小さな偶然にさえあたしを追い詰める何かを感じ、考えすぎだ、なんて頭を振ったのを覚えている。


 今思い出すに恥ずかしい陶酔だ。



 三度目はきっと、中二の春で、それはお揃いの制服で美紀と二人、並んで写真を撮った時か、もしくは……キヨが、美紀の名前を口にしたあの瞬間。


 清川と、今はそう呼ぶけれど、中一で同じクラスになって、部活、体育館に笑顔で話して、帰り道に笑い合った。


 自分を愛せなくて、親も妹も愛しきれなくて、それでも恋はするなんて。


 バカみたい。


 気付いた時には手遅れなんてね。



 キャットウォークにクラスメイト達を見つける。清川は、少し離れたところ。友達は多いくせに、たまにそうして一人でいるよね。


 コートに立ち、背に受ける声援には応えない。試合に集中するからなんて、そんな気もないのに言い訳に利用する。



 四度目は、たぶん……。





 高校に入学してから、一つのことがあたしを悩ませていた。


 何度も何度も。


 バスケットボール部に、入ってください。


 古賀さんがまた頭を下げる。


 ある日の昼休み。呼び出されたのは校舎裏だった。


 桜の木が五本並ぶ、隠れスポット。春先にはしっかり満開の桜が四本、美しく咲き誇るそういう場所らしい。そして、一人ぼっちが遅まきに色付く。


 綺麗だから逆に寂しさが増すような光景の下、古賀さんの隣にはもう一人いた。知っている顔だ。


 女バスの、コーチ。外部の人だっていう少し年嵩の女の人。


「ごめんなさいまた。お時間いただいてしまって」


 古賀さんは口ではしおらしいけど、それでいて全く譲る気もない意外と図太い神経してるとは、もうよくよくわかっていた。


 運動部とさえ思えないような慎ましやかな人で、そう、試合中とは別人みたい。


 そんな古賀さんは一旦無視して、あたしは「どうも」ととりあえずは目上の相手に会釈する。見たことはある、見られたこともある。話したことはない。


 何々と、どこそこでコーチをしていたと、名前も経歴も興味ないふりしておいた。


 優秀なんですね、って知っている。練習メニュー、アドバイス、時間の管理、明確で的確で厳正で、きっとみんな、もっと上手くなる。


 あたしは、ならない。あたしがその指導を、受けられるはずもない。


 四月も五月も繰り返されたありがた迷惑はいよいよ他人も巻き込むのかと、少し辟易とした気分ではあった。


「それで、あの、バスケ部に入部する気は」


「ない。ないってば。ありません。あたしは、バスケは辞めたので」


 いつもの言葉を性懲りもなく繰り返す古賀さんに、それとコーチの人に、なにより自分に向けてそう言った。


「そう。ええ、実は何度か、私も声を掛けようかと思っていたの」


 だから、知ってるってば。見られていたこともあること。


「そんなに、バスケットボールは嫌かしら。中学の試合もね、見たわ。とても楽しそうにプレーしていた」


 だから、知ってるってば。誰よりあたしが、バスケの楽しさを、バスケをしている時のあの、いつまでも続いてほしいような気持ちを。


 思い出させるな。


「昔のことです。今は、別にもう、バスケやる気はないので。すみません」


 そういう問答を何度かした。たぶん、コーチからしたら、大人の人からしたら、あたしはちょっと捻くれてしまっただけの子供で、説得というよりは聞き分けのない子に言い聞かせるようでもあった。


 そしてだから、それも仕方のないことだったのだと思う。


 美紀を引き合いに出されること。


「美紀さんも、学校の方に掛け合って勧誘するつもり。さすがに大きく動けはしないけれど……神辺美紀さんと、そのお姉さんのあなたが居て、古賀さんもいる、きっととてもいいチームになるわ」


 やめてください。


「美紀さんのセンスは素晴らしいわ。わかるでしょう? 一番近くで見てきたのだから。その才能をあなたなら誰より輝かせることができる」


 そう、そうです、そういう役割。そういう連携を、そんなチームワークが、あたしたちを全国大会になんて連れて行ってしまった。ベスト8なんてものに押し上げてしまった。二年もだ。二年も続けて、あたしたちはそこへ行って。


 そこで終わった。


「美紀さんが―――」


 遠く、誰かが何か言っている。そんな雑音の中であたしは、あたしの頭の中ではぐるぐるとわけのわからない考え、感情、思い出と光景が巡って流れていた。


 厳しかった練習、楽しかった練習。


 地区大会、全国大会。


 本気で喜んだし本気で泣いた。そのはずだ。それだけのはず。


 勝ったこと。


 その嬉しさの陰で、つまらなさを感じていたこと。


 負けたこと。


 その悔しさの陰で、安堵を覚えていたこと。


 あたしはバスケットボールを―――。


「だから、美紀さんがもし入学してくれた時のためにも、お姉さんである美玖さんには部にいて欲しいの」


 それで頭に血が上ったのだけは、どこか他人事みたいに理解していた。



 叫びはしなかったと思う。わからないけど。


 変に冷静な自分もいて、大声出しちゃいけないなんて考えも持っていて、でも暴れ回りたいくらいにムカついて悲しくて逃げ出したかったのも事実だから。


「入りません、バスケ部なんて! やりません! やらないって言ってるのにっ。バスケは辞めたって!」


 入らないやらない辞めた、放っておいて、それから「もう……どっか行ってよ……」と。


 それはそこにいる人たちにじゃなくって、もっと概念的な、あたしの周りの全てに対する思いだったのだろう。


 美紀に、ママに、パパに、友達に、古賀さんに、清川に。


 どっか行って、近くにいないで、構わないで欲しい。


 あたしが、美紀のためにいるだけなのは、『いらない』のは、もう、わかったから。もうこれ以上、あたしを傷つけないでください。


 何もしませんから。どうかあたしを―――



 ―――見て。

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